オンウルの魔物・4



数日後、ククラは鏡の前で凍り付いていた。

「……あの、サモール様」

「何だいククラ?」

極上のほほえみを浮かべて、サモールがククラに答える。

「……これはちょっと」

「とても似合うよ、ククラ」


ククラは自分の服装を見て苦い顔をした。

薄い化粧を施された顔を見たいとも思わない。

かつらを被り、髪は長くなっている。

薄い緑色のひらひらの衣装を身に纏って頭からベールを掛けた。

どう見ても女装だとククラは渋い顔をしている。


「…何故こんな事に?」

「今日は部族の食事会がある。どうやらそこで私にその部族のお嬢様を紹介したいらしい」

溜め息混じりにサモールが伝える。

「…それで僕にどうしろと」

「いや別に何もしなくていい。私の傍にぴったりとくっついていれば良いだけだ」

「…話を受ければいいだけじゃないですか」

ククラの台詞にサモールが首を横に振る。


「もう手一杯だ」

そうですか。

仕方なくククラは主人の後ろを歩こうとする。

サモールが振り返りククラの手を取った。


「…」

「そんな顔をするな。可愛い顔が台無しだろう?」

笑うサモールをククラは少しだけ恨んだ。

横を歩くことに慣れていないから少し緊張をする。

そんな態度を見てサモールが微笑んだ。


食事会には少数派の部族の族長が集まっていた。

女性を伴ってきたサモールに失望を表す人が何人もいて、少し精彩を欠いた食事会が進む。

慣れない場所に戸惑っていたククラが急に立ち上がった。

ククラがきっと空を睨む。

黒い小さな影が空中に浮かんでいた。


サモールは何でもない様に食事を続けている。

ククラは走ってそこを抜けだすと、着ていた衣装を脱ぎ捨てた。

物陰で剣を召喚するとそのまま空中へ身を躍らせる。


見えた影は空を飛ぶタイプの魔獣だった。

どうしてこんな所に居るのかはわからないが、居られては困る。

ククラは魔導を纏わせて剣を切りつける。

魔獣が躱して長い爪を繰り出した。

それをわざと掠らせて、懐に入り剣を突き刺す。


魔獣が呻いて落下していく。

…何だ?弱すぎる。

考え始めた途端、身体が地面に落下する勢いで主人のもとへ駆けつける。

すでに食事会の場は魔獣に荒らされていた。人々が逃げ惑う中サモールはのんびりとワインを飲んでいる。

魔獣の爪がその喉を狙っていた。

それを見てサモールはにっこりと笑っている。



その光景をじっと見ている族長がいた。


彼はめったにこんな会には出席はしなかった。

ただ、この間の会議の光景が気になっていた。

この席にサモールが出ると聞き及んで、珍しく食事会に出てみたのだ。


出て来たサモールはとても繊細で可愛らしい、美しい女性を伴っていた。

彼を狙っていた族長たちが、あきらめざるを得ないほどの。


その女性は魔獣が出現するより前に、走って逃げてしまった。

女性特有の感でも働いたのだろうか。

しかしサモールは少し微笑んだだけで、その女性を追いかけようとしなかった。

それどころかさも嬉しそうに酒を飲み始めたのだ。

そのくつろぎ具合が気になった。


急に、その場にいた娘たちが叫び声をあげた。

その声に驚きあたりを見まわすと、大型の魔獣が何匹もその場に集まって来ていた。

我先に逃げ出す男たちの後ろを、若い娘たちが追いかけて逃げていく。


それなのにサモールはその場で優雅にグラスを傾けていた。

まるで何もないように。


彼は誰かを見殺しにするのは嫌だった。

たとえそれが敵のごとくな相手でもだ。己の矜持に反する。

仕方なく腰の剣を抜きはらう。

近くにいた魔獣に切りかかると1匹がサモールに向かって行った。

眼前の魔獣から手が放せず、彼にはそれを見ることしか出来ない。

危ないと叫ぼうとした時。


天空から一条の光が魔獣に向けて落ちて来た。

サモールを今まさに切り裂かんとしていた魔獣が、頭から二つに切られて割れた。血飛沫を上げて地面に倒れていく。

サモールの前に会議で見た少年が息も乱さず立っていた。


「何でそんな所に居るんですか!」

少年がサモールに怒鳴った。サモールは何でもないという顔で笑っている。

「…お前が来るのが分かっていたからだよ、ククラ」

ククラと呼ばれた少年は、見ている彼にも分かるほど大きな溜め息を吐いた。


その時少年の姿が消える。

一瞬後には彼と鍔迫り合いをしていた目の前の魔獣を切り捨てていた。

少年はパッと剣に着いた血を振り払う。

「…怪我は有りませんか」

そう見上げてきた少年は、少し赤い唇をしていた。


「…ああ。大丈夫だ」

彼がそう答えると、頷いてからサモールの前に戻る。

サモールが少年の口に指をやる。その赤いものをぬぐっていた。


それで彼は気付く。サモールが連れてきた女性がこの少年だという事に。


「…追撃します」

少年がそう言うとサモールは頷いた。

身を翻して走り去る少年の姿を見送ったサモールが彼を見る。


その眼は何とも言えない光を宿していた。

宴会会場には他に誰もいない。

何体もの魔獣の死骸が、散らばっているだけだ。


「…お前は何を考えている?」

この場には不釣り合いの彼の言葉にサモールが笑って答える。

「…この国の未来だよ、キダチェク」

彼…キダチェクはその言葉に背筋をぞくりと震わせる。


この国は今や、この男の手中に有る。

それはきっとあの少年のおかげなのだ。

サモールのこのゆるぎない自信の源は。

恐ろしくこの男を信頼しきっている、あのククラと言う少年が源なのだ。

…この国はあの魔導士の少年によって左右される。

キダチェクはそれが恐ろしいと思った。



何ミムトもしない間に血を被ってククラが戻って来た。


「…全て仕留めました」

ククラの報告にサモールが頷く。

それを見てククラは安心したように息を吐いた。

「皆は大丈夫だったかな」

「…はい。誰も怪我をしている気配は有りません」

ククラの頭を撫でながら聞くサモールに、そのままの姿勢でククラが答える。


「…こんな事をいったい誰が?」

ククラの言葉にサモールが肩を竦める。

「それは後でお前が調べれば良い事だ」

何気なく恐ろしい事を言うサモールに肯くククラを、ついぼうっと見てしまっていたキダチェクに声が掛かる。


「ここはまだ危ないだろう。早く帰ると良い」

そう言われてキダチェクは、自分がただ立っている事に気付く。

サモールの言葉に無言で頷くと、ククラに軽く頭を下げてからキダチェクは帰った。


あの少年をどうにかしなければ、この国は変わってしまう。

そう思い込み、考えながら。





血塗れのククラは食事会を開催した家で、風呂を借りた。

流石にこんな格好で帰るのは嫌だった。自分の主人の評判が悪くなる。

風呂から出たククラをサモールはにっこりと微笑んで見ている。

まるで何をしても可愛いと思っているように。


「…で、これを着ろと」

「それしか、ないだろう?」

先ほど脱ぎ捨てた服を見てククラは息を吐いた。

下に着ていた服はもう汚れて、着られないのは分かっている。

しかし、自主的な女装とは。


サモールを見る。

笑っている。

…そうか。仕方ないのか。

嫌々ながらその服を纏う。着替えたククラの手をサモールが取る。


酔狂にも程ってものが有るだろう。

口に出しては言えない台詞をククラが思う。

それを喜んで、ククラの主人は見ていた。






町は少しずつ風景を変えていく。

この中央都市も来たる冬の気配を纏い始めていた。


今日は久しぶりのサモールの休みの日だった。

ククラは自分の椅子で魔導書を読んでいる。


サモールはそれを眺めていた。


膝を立ててその上に本を置き、手と目だけを動かしてククラは真剣に本を読んでいる。小さく丸まって読み続けるその姿をサモールが飽きもせず眺めている。


「…何かご用ですか?」

いい加減主人の視線に耐えられなくなったククラが聞いた。

顔を上げるとサモールは目を細めて微笑んでいる。

何だか恥ずかしくなってククラの顔が赤くなっていく。


「…お茶にしようか、ククラ」

「あ、はい」

立ち上がろうとするククラをサモールが止めた。

「私が淹れよう。…あまり美味しくないかもしれないがね」

手際よく紅茶を入れているサモールを、ククラがぼんやりと見ている。


……これは誰だろう?


昔、入れて貰った香りによく似ている。

僕はそれを当たり前のように飲んでいて。

…それは誰だったろう?


自分の記憶の中に明白な答えはない。

いつの間にか消えていってしまう、かすかな記憶。


ククラは強く頭を振る。


何がないのだろう。

何を忘れたのだろう。


僕は、どうして、ここに。



「…ククラ?何か悩み事でもあるのか?」

その声に顔を上げる。

微笑んで立っているのは。


「…いえ、何だか頭が痛くって…」

手に持っていた紅茶をテーブルに置いて、サモールがククラの額に手を当てる。

ククラは薄く目を開けてサモールを見ている。


そのククラの眼をサモールが覗き込む。

そしてにこりと笑う。

「風邪の様だ。今、薬を持って来る、待っていなさい」

「…はい」

ククラは強く目を閉じる。


僕は何を考えているのだろう。

昔なんかない。

全てはサモール様と会っていたからこそ成り立っている生活だ。

魔導も学問もすべてあの方が与えてくれた。

そのはずなのに。


部屋にサモールが戻って来る。

その姿を見てククラは違和感を伴った奇妙な安堵を覚える。

「ほら、薬だよ。…飲みなさい」


ククラは差し出された薬を見る。

サモールの手に乗るそれは、どう見ても何かの魔法を纏っていて。

「…あの…」

戸惑うククラにサモールが言う。

「飲みなさい、ククラ。…私の言う事が聞けないのか?」

それはククラを試すような声音だった。


その声にククラは動揺をする。

少し震える手でその薬をつまみ、ククラは自分の手で薬を口に入れた。

出された水で飲み込む。


「…良い子だ、ククラ」

優しい声が耳に届く。


ふいに目の前の光景が歪んでいく。

身体をめぐる魔法の熱にククラは意識を失いそうになる。

彷徨うようなその手をサモールが掴んだ。

掴まれた強さで、ククラは意識を少し取り戻す。


「…あ…」

「お前は私の大事な子だ。覚えるんだククラ」

サモールが耳元で囁く。

「…あなたが、僕の…」

「私ほどお前を必要としている人間はいない。それを分かりなさい」

真剣に言っているその言葉は、強く中に浸みこんでいく。

それは鎖のようにククラを縛り上げる。


「…僕が、何故…」

「…ククラ…お前は私のものだ。それを考える必要は無い」

深くどこかへ落ちていく気がする。

ただ奥底へ。

「…はい。サモ-ル様…」


何も見ていない眼でククラが答える。

その眼から涙が一筋零れる。

サモールはその涙を舐めあげた。

ただ一つの真実すら自分の物にするように。

完全に意識を失ったククラの身体をベッドに横たえて、サモールはその汗ばんだ髪を撫でる。


「…手間のかかる子だな、お前は…」

そう言って薄く笑う。

その笑みを見るものは誰もいない。



…何だか悪い夢を見た気がする。

寝起きの頭でククラは考えていた。


今日は何故かベッドに寝ている。

ククラは自分を抱き枕代わりにしている主人を見る。


昨日、この人が泣いた気がする。

僕が酷い事を言って泣かした気がする。


見つめるククラの前でサモールが目を開ける。

その眼は綺麗に磨かれた宝石の様だ。


「…あの、サモール様」

「何だい、ククラ?」


「…昨日はすみませんでした」

「お前は、昨日何かをしたのか?」

サモールが不思議そうに聞いてくる。


「…僕の為に泣いてくださったでしょう?」

そう言うククラにサモールはにこりと笑う。


「お前ほど大事なものはないのだよ、ククラ」

そう言ってククラを抱きしめる。

ククラはサモールの腕の中で戸惑うように身を竦めた。

サモールの顔はククラには見えない。

随分、御都合的に変換をしてくれるものだな。

そう思って酷薄に笑っている顔がククラには分からない。


「…僕も…あなたが大事です」

その言葉をまるで闇のように笑って聞いている事を知らない。

「嬉しいよククラ。…私に必要なのはお前だけだ」


赤くなっていくククラの顔の熱を、自分の首で感じながらサモールは笑う。

本当は高笑いをしたいぐらいだ。


これさえ自分の手の中にいれば、きっとこの国を手中にできる。

ことさら優しくククラの髪を撫でると、ククラは耐えきれずに腕の中を飛び出す。

振り返って見たサモールは優しく微笑んでいて、ククラは自分の恥ずかしさを表現できない。

「お茶の用意をしてきます」

真っ赤な顔をして走っていくククラを、サモールはベッドの上で見送る。


「ふ、ふふ」

口からは我知らずに笑いが漏れていた。



サモールが紅茶を飲んでいる間に、ククラは今日の身支度の用意をする。

立ち上がった主人に服を着せながらククラが聞いた。


「今日は重要な会議でしたね?」

「ああ。…今日からこの国は変わるだろう。」


静かなその言葉にククラは黙って頷いた。

この人はきっと国を背負って立つだろう。

僕はそれを全力で支えなければ。

ククラはそう決意をしながら、外に出て前を行く主人の後を歩いた。




会議は粛々と行われた。

あの事件以降、会議で逆らうような命知らずは現れなかった。


ただサモールに対する反感は日々強まっている。

それは襲撃の多さを伴って実感をさせられていた。

それらを全てククラがねじ伏せて今日まで辿り着いた。


今日の合意のサインで、サモールが全人民の代表に納まる。

考えうる、ありとあらゆる権限が与えられる。

それは恐怖政治が始まるだろう事を予感させた。



サインが終わり、議会から国民に告げられる。

国が変わる事を喜ぶ者、悲しむ者、色々な反応があったが告げられた事実をひっくり返そうという国民はいなかった。


サモールのその姿をククラは誇らしく思った。

そして少しだけ怖く思った。

この先この国はどうなるのか。

分からない場所に向けて船を出している怖さに似ていた。


しかしククラはじっと自分の主人を見る。

あの人は羅針盤を持っている。

あの人に言われたことを僕はすればいいだけだ。


…たとえこの国がどうなろうとも。



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