イケメン佐野くんのお誘い 【1】

どこかに、私が夢中になれるような素敵な人っていないかしら。


そんなことを考えながら、会社の入っているビルのエントランスホールを歩いていると、ポンっと肩を叩かれた。

「おはよう、高橋さん」

「あ、おはよう」

ああ、同期の佐野くんだ。

佐野くんは私と同じ横浜支店でMRの仕事をしている。

MRというは、製薬会社のいわゆる営業。でも、一般的な営業職とは少し違う。

製薬会社は卸というところに薬を販売し、その卸が医療機関に薬を売ることになる。

製薬会社のMRは薬の効能や副作用などの情報だけを提供し、卸に注文を出してもらうことが仕事だ。薬を直接販売することはしない。

私はその営業の補佐をしている事務職。営業資料を作ったり、パンフレット発注をしたり、電話対応をしたり。

MRといえば、花形だ。営業だけあって、口が上手い人が多い。私もつい、乗せられて仕事を引き受けてしまったりする。

で、その中でも佐野くんははっきりとした目鼻立ちのイケメンで、背も高い。女ったらしって言う噂。

気軽に女性の肩を叩けるところからして、いかにも自分に自信ありますって感じよね。


「そういえばさ、今度、戸越さんの結婚のお祝い会?があるだろ?」

二人で並んでエレベーターホールに向かいながら、佐野くんがちょっと身をかがめて、私の顔を覗き込むようにする。

「ああ、うん」

今度、この横浜支店MRの戸越さんがめでたく結婚するらしい。

私より三つほど年上の男性で、スマートに仕事をこなす、おおむね調子のいいMRの中では信頼できる人だ。

それで、仲の良い社員が戸越さんの気軽なお祝い会を企画していた。

「高橋さん、行くよね?」

「うーん。私、それほど戸越さんと親しくないし」

「でも、戸越さんだって、高橋さんにいつも仕事頼んでたじゃん」

「そうだけど」

「お嫁さんの顔も見たいしさ」

「いや。うーん」

私はそんなに見たくないわ。お嫁さんの幸せな姿なんて……。

いや、うん。祝福はしたいんだけどね。ただ、自分と比べちゃいそうで怖い。

私が返答に困っている間に、目の前のエレベーターの扉が開いた。珍しく他にエレベーターを待っている社員がいなかった。やって来たエレベーターに二人だけで乗り込む。佐野くんが五階のボタンを押して、後方に立っている私を振り返った。

「あれ、考えてみると高橋さんと飲みに行ったりしたことないよね」

「え?そう?」

突然の質問にちょっとびっくりして、顎を引いてしまった。

「そうだよ。じゃあさ、戸越さんのお祝いじゃなくて、今度、飲みに行こう」

気軽にそういうこと言っちゃんうんだ。

佐野くんの顔を改めて仰ぎ見てしまった。

それに気づいて、佐野くんがニコッと目を細めて笑う。

もう、やだなあ。自分に自信のある人は。これで、ほとんどの女がヒョイヒョイとついて行くと思っているんでしょう。

「はいはい」

私は呆れたようにそう言うと、エレベーターの階数表示板を見つめた。

――平静を装っているのがバレバレかしら。

誰にでも言っているのかもしれないと思いながらも、気分が高揚しているのが自分でも分かった。

皆の憧れの佐野くんからのお誘い。

ほんの少し、いや、かなり期待してしまっている私がいる。


それから数日経っても、佐野くんが何か言ってくることはなかった。

諦めに似た気分で、いつものように自分の机に座ってパソコンを見つめる。

「高橋さん、この薬のセグメント別売り上げをグラフで出してくれる?」

ふいに、頭の上から佐野くんの声が降ってきた。

私の傍らにやってきた佐野くんが、腰を折るようにして私が見ているパソコン画面を覗き込む。そこには我が社の製品一覧が表示されていた。

「ほらこれっ」

そう言って、佐野くんが一つの製品名を指さす。

「あ、はい。……えっと、そこのプリンターから出てきますから」

カタカタとキーボードを打ちながら返事をする。

「OK。ありがとう」

爽やかにそう言って、佐野くんはフロアの隅にあるプリンターに歩いていった。

視線を回してその背中を見送る。

結局、私は結婚が決まった戸越さんのお祝い会には出席しなかった。

だいたい、私の所属する総務課からは誰も参加しなかったし、他の学術や開発からもよっぽど親しい人しか顔を出さなかったらしい。

つまりは、同僚MRのいつもの飲み会だったのだろう。

そんなふうに思いながら、プリンターから用紙を取り上げている佐野くんを見ていた。

すると、その視線に気づいたかのように、佐野くんが私を振り返って私に向かって右手を上げるとグーサインをしてきた。

とっさに固まって、左手の指が関係ないキーを押してしまった。

慌てる私にかまわず、佐野さんはスタスタと自分の席に戻って行った。


いったい、あの話はどうなったんだろう?

――飲みに行こうって言ったよね?

いわゆる社交辞令みたいなもの?女の人にはそう言っておかないと失礼だとかいう、プレーボーイ特有の格言?


あれから、いつ誘われるんだろうって、毎日毎日そわそわしてしまっている。いつ誘われてもいいように、服装だって気を遣っている。

視線を落として、自分の服を確かめるようにじっと見つめた。

なんか、馬鹿みたいだ。あんな佐野くんの言葉を真に受けて。

――自分が情けない。



その日もいつも通り残業をして、一人退社しようとエレベーターを待っていた。

「あれ?美帆」

「杏奈」

ああ、また会っちゃった。

やだなあ。今日はまた金曜日だわ。

「おつかれさまあ」

杏奈の甘ったるい声が響く。

とりあえず、社会人の便利な挨拶“おつかれさま”。

「おつかれさま」

「今日も残業。嫌になっちゃうね。」

「ほんとね」

「これからね、銀座まで行かなくちゃならないの」

「へえ」

「横浜からだと近いようで遠いよね」

「そうね」

ああ、どうしていくのか聞いてほしいのよね。聞くわよ。聞きますわよ。

「なに?銀座で何かあるの?」

待ってましたと言うように、杏奈の瞳がきらっと輝く。

「えっとね、彼の行きつけのお寿司屋さんが銀座にあるんだって。今日は、付き合って三か月記念にご馳走してくれるの」

「へええ。すごいわね」

驚いた声を出しておいた。

そう言えば、いつもにもまして、メイクもネイルも服も気合が入っている。

フリフリのピンクのワンピーズに白いボレロ。

まあ、似合うっていやあ似合うわ。

でも、まだ付き合って三か月なのね。ラブラブだわね。

まあ、銀座で高級なお寿司でも何でも食べてきてよ。

私は家で母の手料理でも食べるわ。

浮かれている杏奈とは、横浜駅で別れた。


ホームに立って、ぼうっと目の前の大きな看板広告を見るともなしに見る。

杏奈が彼と知り合ったチャットアプリっていうのは、マッチングアプリとは違うのかしら?でも、アプリでもそんなリッチで素敵な人と出会えるものなのね。

ちょっと、いや、かなり羨ましく思いながら、ふうっと息を吐いた。

その時、後ろからポンっと肩を叩かれた。

「高橋さん」

聞き覚えのある声。

振り返ると、佐野くんが立っていた。


~ to be continued ~

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