第6話 終了

 我が物顔で、ここにはちょっと食べ放題にきたつもりだったのか、あちらこちらと思うまま食い散らかしていた大きな獣。それが急に現れた同じ食べ物のはずの存在(?)に、ご飯のはずの人間(?)に、自らの体を瞬く間に幾つも傷つけられ腹を立てたようで、広場の空気を揺らすほど低く低く唸った。


 そのうちの一か所である左の耳からは、噴き出した血で顔の半分が濡れていたが、そんなことには構うことなく目障りな存在を食い殺そうと狙った。あちこちの痛みが化け物の怒りをより増幅させる。この時、化け物は自分を傷つけた人間しか見ていなかった。遊んでやろうとしていたアシュリーから目を離し、背を向けていた。


「今のうちだよ!」


 蹲っていたアシュリーの頭上から知っている声が聞こえ、その声とともに体がぐいっと引っ張られた。


「お、おか」


 突然現れたマントの女神が窓柵を踏み台に高く空へ飛びあがり、弧を描いて化け物へ剣を振り下ろした時、止まっていた時も動き出していた。かつて冒険者であった女はその隙を逃さなかったのだ。


 痛いほど静まり返っていた先ほどとは打って変わり、広場に高低音が乱れ飛ぶ。舞い上がる砂埃、直後ドタドタと大きなものが何度も何度も地面に叩きつけられるように落とされる。打ち付けられながら飽きもせず、魔獣は自らも地を、壁を蹴り上げ、空を舞う標的を狙うべく空と地を行ったり来たり跳ね回った。


 想像より早く、力は強く、一般の騎士ではなかなか太刀打ちできないものなのは明らかだった。その鋭い牙も長く尖った爪も彼女を捕らえ噛みつき引き裂こうとしたが、残念ながら全くかすりもさせてもらえず、魔獣の体は美しい剣士とすれ違う度に肉を抉られ、深く斬られる。ついに魔獣は腹立ち紛れにか、ぎゃあぎゃあと赤黒い泡を巻き散らしながらひと際大きく叫んだ。相手が悪かったとしか思えなかった。苛立ち叫ぶだけで魔獣の大きな爪も大きな牙も、敵を捕らえ傷をつけることはない。無数の人の血で赤黒かった体毛はすっかり自分の血で上書きされた。そして化け物は少しずつ小さくなっていく。本人でさえ気づかないうちに徐々にその身体は削り取られ、少しずつ小さくなっていたのだ。怒りは痛覚さえも凌駕するのか。


 街灯に煌めく、軽やかに舞う剣の無数の光が化け物の体を縦横無尽に切り裂く。食べ物か玩具のように人を襲い、その身を赤く染めた傍若無人な魔獣は、今度は自分がなすすべもなく蹂躙されていた。


「大丈夫かい、アシュリー!」


 動けずに横たわったままだった彼女の肩をぐっと掴んだのは、お使い先のおかみさんだった。髪を振り乱し、アシュリーが返事をする前に抱き起こし、すぐに建物の影へと連れて行ってくれたのだ。切り刻まれる化け物を向こうに、壁に寄りかからせ、真剣な顔でアシュリーの顔や体をざっと見て大きな怪我がないことを確認すると、ほうっと大きな息を吐いた。アシュリーの頭を撫で、汚れた顔を自分の袖口で拭きながら絞り出すように言った。


「まさかと、まさかと思ってきてみたんだ……なんてこった……もっと早く来るべきだった。ごめんね、アシュリー。噂の魔獣がこんなに早く街までくるとは」


 怖かったろうとぎゅうっと抱きしめられた。額に浮かんだ汗、肩で息をするおかみさんに、本当に急いで来てくれたんだと、アシュリーの目に涙が溢れた。

 そんな中、ひと際甲高い咆哮とそれに続く歓声が辺りに響いた。


「わぁぁ~!!」


 ほんのひと時前まで死者と見紛うほどの顔色をしていた人々が息を吹き返し、頬を紅潮させて空気を揺らすほど歓声をあげたのだ。

 数瞬前に空気を揺らした甲高い音が化け物の断末魔だったことは、広場や建物の壁、街灯などあちこちに化け物が巻き散らした赤黒い血の跡と、夥しい黒い液体の中でぴくりともしなくなった大きな毛むくじゃらの塊で明らかだった。


「斃した!」


「やった、助かったっ、助かったよぅ」


 わあわあと声をあげながら、隠れていた人々が広場へどっと流れ込む。


「もう終わりだと思ったよ……」


「あの人! 凄いな~」


「ほんとに、素晴らしい剣の腕だねぇ」


「すごいすごいすごい」


 感嘆を口々に、皆一様に安堵した顔で知り合いでもない隣と手をとり肩を組み合い、訪れた安寧に喜んだ。この世の終わりでも垣間見たような、しかしその上で助かったのだと心の底からの歓喜だった。


「これはっ!」「なんと……」


 ほどなくして人々の間を縫うように、白い隊服を着た一団が血だらけの広間に現れた。漸く到着したこの壁の街コルタナの守護隊だった。彼らは現れてすぐにその場にいた人々を少し下がらせ、横たわる赤黒い塊と距離を取らせた。そうしてから化け物の検証にあたるつもりのようだった。


「これを仕留めたのは誰か」


 大きくはないがよく通る声で、恰幅の良い守護隊の一人が下がらせた人々に向けて尋ねた。その場にいる人々をざっと見ても武器も持たない民ばかり、こんな大きな魔物を仕留められそうな者が見当たらなかったからだ。

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