第5話 雀躍
どうしよう、何も考えられない。
(心臓の脈打つ音が大きすぎて、耳がジンジンする)
まって、動けない。
(身体が勝手に震えて言うことを聞かない)
あぁ、声が出ない。
(喉が詰まって言葉を紡ごうとしない)
彼女だけ地震のただ中にいるように、アシュリーの身体は可哀想なほどにガタガタと揺れた。
「あぁぁ!」
ゆらめく三本の尾がぴたりと止まり、四本の脚にぐっと力が入る。襲われる!と物影から遠巻きに覗き見る多数の人々が一様にゴクリと息を飲んだ時、先程の誰かの悲鳴が再びか、フライング気味に響いた。
遠巻きに距離の取れた人々の全ての視線と関心は化け物と少女に注がれていて、実は数瞬前に微かな風と共に動いた影があったことに気づいた者はいなかった。
あぁ、もうだめだ。本人のみならず遥か隠れてその場を見ていた誰しもが思った。また犠牲者が、自分たちの目の前で、と。
「ひい〜っ!!」
アシュリーは自分の代役のように叫んでくれる誰かの悲鳴を耳にしながら、震える身体を抱く両腕に、さらにぎゅっと力を込めて自分を小さく小さくした。そうやっても逃げられないと分かりつつ歯を食いしばり、くるであろう衝撃と痛みを覚悟した。彼女にはとても長い時間。
だがなぜか、覚悟した衝撃はいつまで経っても来ることがない。
代わりに。
──噴き出す血飛沫、切り裂かれる肉の音。
どこから出るのかと思うほど甲高い悲鳴が空気を震わせた。それが人のものではないと気づいたのは誰が先か。それは遠くに隠れ見る群衆でもなく、初めて遭遇した命の危機に体が硬直して顔をあげられずにいるこの少女でもなく──。
「いたいた、やったね! 思ってたのとは違うけど、まぁこの際あんたでもいいよ、うんうん!」
わはは!と軽快に、喜びを端々に含んだ女の声が空気を震わす悲鳴に被るように、うつ伏せ縮こまる少女の耳にも届いた。だが、アシュリーは顔を上げられず、なにが起きているのか全く分からない。
突然の展開は静まり返っていた周囲にも同じ空気を分け与えた。よく通る声のあまりに場違いな物言いに皆、ぽかんと口を開けた。しかし、こちらもどこから聞こえるのかはよく分からない。
暮れかけた空、化け物がいる場所と人々が隠れる場所には距離があり、所々街灯が壊れ、壁が崩れ、すぐに見つけられなくても仕方がないことだといえた。いくつもの泳ぐ視線の中、やっと声の主を捕らえれば、その人物は歩道脇、ある建物の二階、窓柵の上にいた。
細い柵の上に膝を曲げ爪先立ちで腰を落として座る、その姿がやけに美しかった。橙色の街灯が纏うマントに滑らかにまとわりつき、姿を浮かび上がらせる。後ろで無造作にひとつ結んだ髪は肌と対照的に黒く、朔の夜のような深い闇を思い起こさせた。肩を超えるくらいの長さで、嬉しそうに破顔して体を震わす彼女と共に、さながら馬のしっぽのようにふらふらと揺れている。化け物を眼下にした彼女の手には細身の剣が握られているのが見てとれ、その刀身が不自然にきらりと光っていた。
この間化け物は切られた痛みに悶え、と同時に耐えられないほどの強い感情に支配されていった。自らの口からでるこの苦しそうな呻き声にさえ怒りが沸いた。ふうふうと息を吐き体全体を上下に揺らしていたが、痛みに耐えてではなかった。
人間の血に濡れていたはずの牙が、今度は自分の血混じりの唾液に塗れている。その牙を剥き出し、目には強烈な殺意を宿らせた。有りえない。この逃げまどうだけしかできない脆弱な生き物どもが。まるでそう語るような両の瞳。
人々が化け物の近くに彼女の姿を視認した数瞬後、彼女はトンっと軽やかに柵を蹴り空に舞い上がって優雅にくるりと一回転した。マントを羽のように翻し、まるで舞を舞っているのかと群衆の目を更に釘付けにした。ひらめく衣服から、ちらりと覗く彼女の肌は街の灯りを受けて真珠のように光っていた。しなやかな体つき、それを覆う服から伸びるすらりとした手足。美しい妖精か煌めく天上の女神か、溜息しかつくことのできない整い過ぎた美貌。近くで彼女を見ることができたとしたら誰もが考えただろう。首を捻り自分と同じ種族なのかと。
だが今は。偶然この場に居合わせただけの人々は、突然見たこともない化け物に追われ、生きた心地がしなかった。長い時間と思われる時を災厄から逃れるのに必死だった。それを急に現れたあの人間離れした存在が、瞬きをする間に状況を変えてしまったのだ。どこの誰だか知らないが、彼女が現れたおかげで、今までのことはもしかして何か大掛かりな仕掛けかと思うほどに。
美しい姿を前に思うことはそんなことばかり。だが次の瞬間人々は一斉に顔を背けた。それは彼女の容姿の眩さにいよいよ直視できなくなったのではなく、繰り広げられる凄惨な場面によって。
窓柵を蹴り一回転した彼女は、そのまま化け物目掛けて剣を振り下ろした。
グシュッ!
あまりに早い剣技だった。取り巻く群衆には大振りで一度振り下ろしただけにしか見えなかった。しかし、一瞬で化け物の体のあちこちから血が噴き出した。大きな岩のような体が、グオオと低く山鳴りのような化け物の声と共に揺れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます