第4話 孤立
「守護隊を! 守護隊を呼ぶんだ!」
「誰か早く!!」
「きゃあ〜っ!」
血の臭いがする。生臭い獣の臭いがする。埃たつ辺りに人の足音ではないものが混じる。夕方で仕事帰りの人が多いせいか、誰もが誰かの障害になり皆思うように走ることができない。
ガリガリガリ、と何かを引っ掻く音が聞こえた。
転びそうになったアシュリーは抱えていた荷物を漸く放り投げた。
(た、建物……そうよ、どこかに入らなきゃ)
もはや血の気のなくなった青く白い顔に、うっすらと光る玉を浮かべ、目だけを左右にキョロキョロとさせながら走った。散り散りに逃げまどう人々とぶつかり合い、前に進めず、ただおかみさんの言葉だけが頭を巡る。しかし並ぶ建物の入り口という入り口は既に固く閉じられていて、不運な街の人達を招いてくれる奇特な扉はとうに存在してはいなかった。
後ろから聞こえる人々の叫ぶ声が恐ろしい。なぜ、どうして、今ここでなのか。
走り続けていたアシュリーの前が唐突に暗くなった。先程の影がちょうどアシュリーとそこにいた何人かの影を丸ごとすっぽりと覆い、その場から彼女達の影を消したのだ。
思わず足が止まる。影を同化された人はどの人もその体を小刻みに震わせ、皆足が思うように動かせなくなった。さっさとまた走ればいいのだろうが、大きな恐怖に晒されて身体が言うことをきかない。
アレがすぐ後ろにいる──振り返りたくないのに、確かめたい。
彼らは一様にその衝動に駆られた。その例に漏れず、アシュリーも同じく恐る恐るそろりと背後を見た。
そこに立つ影の主は、数々の生き物を既に口にしてきたのがひと目で分かる様相だった。今は腹が空いているということはないのか穏やかそうな顔で、ゆっくりと体の後ろで大きな尾っぽをゆらゆら揺らめかせていた。まるで首でも傾げるように、左右に、ゆるやかに。
アシュリーの喉がゴクリ、と大きく動いた。
振り返らなければよかった。正直な感想はただそのひと言に尽きた。今まで生きてきて遭遇したことのない大きな恐怖が、化け物が、眼前に、そこにいたのだ。
超巨大な犬のような、猫のような、狐のような。二頭立ての馬車をすっぽり隠せるくらいの大きな体躯。馬の頭などひと齧りであろうか。犠牲者の血で染まっているのだろうそこはてらてらとぬめり、鮮血に濡れた口は顔の半分もありそうで一瞬裂けているようにも見えた。そこから覗く歯は大きく、先端は尖ったものばかり。さぞや獲物を切り裂きやすいのだろうと思える錚々たる歯並びで、ちょうど下の前歯の隙間になんらかの物質が挟まっているのが見てとれた。が、それが何かは知らない方が良さそうだった。
この世界にいた大小様々、多種多様な魔物や怪物どもは元は人間よりもその数は多かったが、人類の諦めない抵抗と技術の進化とともに数を減らし、徐々に人々の生活する場所より外へ、すなわち山や森の奥へと追いやられていった。アシュリーの住むこの国では特に顕著で、十数年前から地方でもあまり見なくなったと報告されていた。
だが人の少ない土地や山奥にはまだ潜んでいたし、北部にある国など世界各地では今でも頻繁に遭遇している情報があるといい、昔話の類いというにはまだ早かった。
とはいえ、この街には鉄壁と呼ばれる高く囲った塀があり、更に出入り口を守る守護隊が異形の侵入を許さないのではなかったのか。
幼い頃にこの街に来て以来、街の外に出たことがないアシュリーはまず話の上でしか知らない存在の生き物。それが今まさに目の前にいた。何故か、この街の主要な道路のど真ん中に。
褐色の毛を所々赤黒く染め、染まった先からぽたりぽたりと同じ色の滴が綺麗に舗装されていた道に滴り落ちる。獰猛そうな瞳を妙に細めて、さながら次の獲物はどれにするかと物色しているような表情で、その怪物は四本の足をしっかり地面におろして立っていた。大きな三本の尻尾がそれぞれが意思を持つかのように、ふさふさと動いている。
「ひ、ひぇぇ!」
誰かが漏らした悲鳴が、凍りついていた人々を瞬時に溶かした。いや、パニックの口火を切ったというのが正しいか。
どん!!
一瞬動くのが遅れたアシュリーは誰かとぶつかり、よろめいた。そこへ更に誰かとぶつかる。アシュリーはそうやって自我のないボールのように次々にぶつかり、押された。自分ではどうすることもできず数人の間を行ったり来たりとよろよろとしたあと、思い切り転んでしまった。
「いたっ」
地面で擦れた身体が痛くて思わず声がでた。起きあがろうとしたものの自分を飛び越える何組もの足に怯えて、転がったまま身を縮こまらせ両腕で頭を守った。それはほんの僅かな時間だったかそれとも数時間か、気づけば足音は遠のいていた。
(もう、いい?)
埃っぽい空気に息もよく吸えず、浅い呼吸がアシュリーの体を揺らした。怖くて開けたくない目をそれでも無理やりこじ開けて腕の隙間から外を覗いた。頭を両手で抱きしめたままの姿勢だったので地面が水平線のようだった。その線の上にはあれだけいた人々の誰の足も身体も見えなかったが、遠くに埃と塵に塗れた影が幾つかチラリと揺れた。誰もが走っていったのだろうその後ろ姿さえも見当たらず、自分だけがここにいるのだろうか、と思った矢先、アシュリーは自分が怪物の鼻先に転がり出ていることを知る。
生温かくて生臭い息が自分の斜め上からふううと降ってきたのだ。身体中に怪物の吐息がかかり、アシュリーの意識はどこかに出かけそうになった。
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