2:野球
1
「三振。宮田三振でスリーアウト試合終了。ここは、相手守護神を打ち崩すことができませんでした。西堂クラッカーズは四連敗です」
実況のその淡々と戦況を伝える声が無性に気に障り、倉井はテレビを消した。連敗は始まると止まらないというが、現在の日向クラッカーズはまさにその通りである。
いらいらすると、今度はお腹が空いてきて、倉井は部屋を見渡す。LKの小さな家。リビングも大して広くない。まさか自分がこんな家で生活することになるとは、幼い頃は思いもしなかった。金がない以上、この家で生活するしかないのだ。社会人になってからは、楽な思いをしたことは殆どないが、それでもこれほど酷い生活を強いられたことはない。毎日のバイト生活。そのバイトで稼いだ金で何とか食い繋いでいる、言わば「金によって生かされている状態」。直ちに自殺してしまいたくなるような倉井の終わってる毎日に若干の光を与えてくれているのが野球だ。子供の頃は大して興味のなかった野球だが、金が無くなっていくにつれ、趣味をどんどん失っていき、テレビ一つでできるお手頃な趣味として野球観戦が残った。
応援しているのは、西堂クラッカーズ。前回優勝は十年前のチームだが、毎年安定した戦いは見せており、一番応援しがいがあるから西堂クラッカーズを選んだ。今季は主砲和田の負傷離脱により代役四番に任命された宮田の不調で中々順位が上がって来ず、今日の試合で三位に陥落。首位とのゲーム差は六に広がった。
しかし、試合はまだ四十近く残っている。まだまだ諦めずに応援していくつもりだ。
倉井は適当にコンビニで買ってきたおむすびを頬張り、パソコンの画面を開いた。わざわざ見ようとする者がいるわけがないので、パスワードなどは設定していない。
パソコンのデスクトップの壁紙は昔の仕事仲間とのツーショットだ。パリッとスーツを着こなした倉井の姿は、今のだらしない私服姿とは正反対で、今はもう見せたことのないような笑顔をしている。倉井にとって最も楽しかった時間を一枚に収めたようなその写真は見るたびに懐かしさと虚しさを与えてくれる。この頃も、裕福であったわけではないが、今ほどしんどい暮らしではなかった上に、純粋に楽しかった。だが、楽しさというのは呆気なく砕かれていくものである。
ただ、パソコンを開いたのは懐かしい思い出に浸りたいからではない。今、巷で話題となっている、あるSNSアカウントをチェックするためだ。
「まったり鳥郎の裏垢」という名前のアカウントだ。鳥郎というのは、プロ野球チーム「西堂クラッカーズ」のマスコットキャラクターで、西堂クラッカーズの公式SNSのアカウント名が「まったり鳥郎」という名前で、チームの情報を発信している。
そして、「まったり鳥郎の裏垢」が数週間前に新しく現れ、話題となっているのだ。
裏垢とは、裏アカウントという意味。
つまり、「まったり鳥郎の裏垢」とは「まったり鳥郎」の裏アカウントということだ。しかし、ネット上での裏アカウントというのははったりが多く、有名人や有名グループなどの裏アカウントのほとんどは、その有名人らに全く関係のない一般人がおふざけとしてやっている。今回も多分そのケースだ。
最新の投稿は「宮田打たない。チームの足引っ張り役。得点圏打率十二球団の四番で最下位。首」という最後にチャンスで打てなかった宮田選手への批判だ。いいねは千五百ぐらいついている。選手をボコボコにいうだけで伸びるとは...。
更に投稿を遡ると「和田負傷離脱。体調管理不足。ガラスの主砲、いずれ大怪我で死ぬんじゃないの」とまた攻撃的内容。こう言った選手や球団への攻撃的内容が並んでいるのが、「まったり鳥郎の裏垢」である。アカウントのアイコンや、プロフィールを公式の「まったり鳥郎」とまったく同じにしているのもとても秀逸で、ネット民を惹きつける。
続いて、SNSを閉じると、倉井はネット掲示板に目を通す。これが倉井の日課でこれの単調な繰り返しが倉井の毎日だ。
2
バイトが長引き、疲労に全身を蝕まれながら帰宅して、倉井はすぐテレビをつけた。当然、野球を見るためだ。夕飯はコンビニおにぎり二つ。それを片手に野球を見る。
「初回ランナーは出しましたが、西堂クラッカーズ、零点で抑えています」
実況解説の単調で、聞き覚えのある声だけ聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
「バッターボックスには二番、喜多。得点圏打率は三割二分」
「チャンスでよく打ってるので、ここは期待できますね」
四回の裏の西堂クラッカーズの攻撃で回ってきた大チャンスに、倉井も興奮して立ち上がる。チャンステーマが鳴り響いているのがテレビ越しに伝わってくる。倉井も口からご飯粒を溢しながら熱を入れて応援した。
「かっせ、かっせ、喜多ぁ」
鳴り響く太鼓と金管楽器の音が倉井の耳に反響し、倉井の気持ちは内から熱くなってくる。
「ここまで飛ばせ、きーた」
倉井も大声で応援する。
「打った、この当たりは大きく伸びて伸びて、入ったぁぁ。ホームラン。喜多、今季第五号満塁ホームラン。四点先制。打たれたピッチャーは肩を落とす!」
美しい放物線だった。喜多はホームランを量産するタイプではないため、ここまでの綺麗なホームランを打てるとは思わなかった。倉井も意外な一発に驚きながら、興奮し、雄叫びを上げる。
「今のは芯でとらえた素晴らしい当たりでしたね」
リプレイ映像を見ながら、解説者が語るが、そんな声耳に入ってこない。倉井はガッツポーズをして、飛び跳ねた。まるで球場にいるかのような喜びようだが、娯楽がこれしかない身だから仕方がない。
玄関の戸がノックされた。どんどんどん、と強く三回ノックされる。馬鹿騒ぎしていたから、気付かなかった。倉井は水を差されて憂鬱になりながら、明らかに不機嫌な表情で玄関の扉を開けた。開けると、見るからに不機嫌そうな男が顰めっ面で立っている。
「うるせえ」
「は?」
誰だっただろうか、見覚えがある顔だ。
「隣の城戸だ。てめぇうるせえ。夜だぞ、静かにしやがれ、こっちは寝ようとしてるんだよ。一人で馬鹿騒ぎしてるのか」
「そうですけど」
水を差されて不愉快な倉井は不躾に応じる。
「てめえ一人で騒いでたのか。正気か?」
城戸はぎろりと睨んでくる。
「野球見てたんだよ、なんか文句かよ」
「は?」
今にも城戸は殴ってこようという勢いだ。流石に危険を感じて、倉井は謝ってすぐに扉を閉めた。仕方ない、静かに騒ぐか。
そこからはまず展開が単調で、騒ぐ要素もなかった。西堂クラッカーズのエース、藍瀬が淡々と抑えて、九回四安打一四球完封。打線は喜多の一発に止まり、四対零でそのまま勝利した。単調な試合運びは不満足だったが、連敗を止めてくれたので、倉井はさっさと風呂に入り、眠ろうとした。しかし、眠れなかったのは、驚愕のニュースが飛び込んできたからだ。
「西堂クラッカーズ、枠場、何者かに殺害か」
一瞬目を疑ったが、どうやら見間違いのようだ。ネットニュースはこの事件に関するもので持ちきりだ。西堂クラッカーズ枠場。今シーズンでプロ四年目を迎えた若手で、今季はここまで中継ぎ投手で防御率二点代半ば、十ホールドを上げるまずまずの活躍を見せていた西堂クラッカーズの注目株。整った容姿で女性ファンを魅了している。
そんな彼がなぜ殺されたのか。いや、本当に殺人か、自殺の勘違いでは。或いは、誤報道。そっくりさんや、そっくり芸人が殺されたとか。しかし、ネットで調べる限り誤報道でもなく、背中を刺されて殺されていたという紛れもない殺しだ。
だが、誰がそんなことをしたのだろう。今の段階では状況が少なすぎて何もわからない。こういう時、最新の情報がうようよしているのが、倉井の愛用するインターネットの掲示板である。そこにある情報は信憑性に欠ける一方、どこで拾ってきたのかという超最新情報が入ってくることがある。
空振り四振
嘘やん...
ゲッツ
枠場のキレキレスライダーもう見れないのか
淫録画録
何があったん
Ma
枠場選手が殺害されました...
淫録画録
!
ログを見返してから倉井も会話に参入していく。
光3
枠場殺した犯人のことってなんか分かってるん?
光3というのが倉井のハンドルネームだ。だが、これは特に意味はなく、ただ何となくつけた名前だ。なので、特に愛着もない。何なら、自分のハンドルネームとしてどこかピンときていないところさえある。
空振り四振
まったり鳥郎の裏垢見てみ
倉井は言われた通り、まったり鳥郎の裏垢にアクセスする。最新の投稿を確認して、全身に悪寒が走った。
「枠場くんお命もらいまーーーーすwwwwwwwwwwww。さよならーーー。これで西堂クラッカーズのカス投手が減ったぞぉ👏」
まさかこのアカウントの持ち主が事件を起こしたのだろうか。
淫録画録
やばこわ
光3
裏垢の持ち主が殺したってことやんな
空振り四振
まあ断言はできないけど
Ma
警察が時期に犯人を見つけるでしょう
ゲッツ
警察も流石にこのアカウントに目を付けるはず
光3
付けるかなぁ。もし付けなかったら、やばいで。もっと人殺されるかも
ゲッツ
…
Ma
日本の警察はとても優秀です。心配ないでしょう
ゲッツ
大門殺さないで...まだ発展途中だけど、あのフォークは絶品
光3
無差別野球選手殺しだから
淫録画録
無差別じゃないかも
光3
あの投稿見る限り、西堂クラッカーズがターゲットやろ
ゲッツ
でも、結構いい成績だった気がする。なぜ殺した。クソ投手ではなくない?
淫録画録
顔面に嫉妬とか
Ma
殺害の動機なんて分かりにくいものです
光3
さっきから口調キモすぎ
空振り四振
それな
宇宙人👽
めっちゃ叩かれてて草
Ma
失礼致しました。後新参は黙っとけ
ゲッツ
口調変わってて草
光3
キャラ変かな
Ma
そもそもまったり鳥郎の裏垢が犯人かわからない
空振り四振
逃げんなwww
宇宙人👽
話が転々としてて草
天明
今日の北山の絶対的安定感えぐい。打たれる気配しなかった
光3
今枠場殺しの話な。話変えんな、adhd
宇宙人👽
怖wwwwwwwwwwww
光3
お前の相槌もウザい
ゲッツ
四方八方にめった打ちで草
Ma
出る杭は打たれるって言いますよー
「うるせぇ」
倉井は悪態を吐いた。今知りたいのは、枠場の情報だ、早く寝たいから話逸らすなごみダメどもが。
ゲッツ
警察の続報に期待
天明
乞うご期待
ゲッツ
育田投手かっこいい! スタイルいいし、顔も格好いいし、もっと頑張って欲しい
空振り四振
お前女?
ゲッツ
男が男の選手応援して何が悪い。男は全員女子野球か女子ソフトボール見ろと?
空振り四振
育田投手ってあれだろ、素行終わってる人だろ
育田選手は西堂クラッカーズの投手で、まだ一軍に定着はできていないが、期待のできる選手だ。ポテンシャルとスタイルはピカイチだ。
ゲッツ
野球選手なんてそんなもの
光3
エグい意見www
空振り四振
死ぬほど敵作るやん。あと、なんでそんな育田選手が好きなんだ
ゲッツ
夢がある
宇宙人👽
他は夢がないんだって。悲しい(号泣)
淫録画録
話ズレてるぞー。枠場投手が個人的な恨みで殺された可能性もあるよね
光3
あるけど、まったり鳥郎の裏垢は?
Ma
あれは状況を盛り上げるためのツイートで、別に殺しに関わってはいないと捉える方が容易かもしれません
光3
安易の間違いだバカ。こういう投稿をするメリットがないだろ、裏垢の持ち主にとって
淫録画録
それは、自分のアカウントの狂気性を世に知らしめたいとか。そもそも、ああいう毒舌系の裏垢ってそれが目的でしょ
宇宙人👽
毒舌で済まされたおめでとう
Ma
淫録画録さんの言う通りです
光3
結局、お前はどう思ってるんだ。ツイートの持ち主が犯人なのか、全然関係ない人が犯人なのか
宇宙人👽
突然のリーダーシップ
Ma
どちらとも言えないでしょう、今の段階では。状況の進展を待たないと
天明
人事を尽くして天命を待て
倉井は何だか会話の展開が癪になってきて、パソコンの電源を落とし、ぐったりと寝転がった。
3
「次は誰がムカつくかなぁぁシメシメ」
翌朝、「まったり鳥郎の裏垢」をチェックすると、このような内容の投稿があった。もし「まったり鳥郎の裏垢」が犯人なら次の殺人の予告と取って間違いはないだろう。どうせつまらない毎日だ、この事件の調査に乗り出してみようか。いややめておこう。倉井のような人間が事件現場の周囲を彷徨いていたら、警察から怪しまれる。
とは思ったものの、こんな身なので、このような日常のわくわくを無駄にしたくはない。挑戦していくことは好きなので、倉井は少し調査をしてみることにした。一応、警察制服はちょっとしたつてで、持っている。とりあえず、タクシーで枠場選手と仲良しだったという希村選手の家まで行ってみることにした。住所は過去にネットで違法に出回った物を持っている。偽物の警察制服と手帳を使えば多少の聞き込みはできるだろう。ただ、細心の注意を払わなければならない。もし、本物の警察官と遭遇すれば、職質は避けられないし、下手すれば容疑者として捕まるかもしれない。この弱り切った身は乱暴な聴取を受ければ、ありもしない罪を認めてしまうかもしれない。
倉井は貯金箱を引っくり返し、一万円を掴んで家を出た。ここから、希村選手の家まではやや距離があるので多めに持って行った方がいい。行き帰り五千は見込んだ方がいいだろう。苦しい生活の続く倉井からすれば一万円は大金だ。これを失うのは結構痛い。
結局、三千三百円で目的地に辿り着くことができた。ネットで流出した時に、ちゃんと住所をメモっておいてよかった。そして、ネットで流出したのに引っ越さない希村選手の倫理観完全欠如のネットリテラシーにも感謝だ。
「希村」の表札が確認できた。どうやらこの情報は間違いではないようだ。倉井は周囲に人がいないか十分に注意して、大きな鞄に入れておいた警察制服に着替える。この服を着るとまるで警察になったかのような気分になる。当然、倉井は今にも過去にも警察になったことはないのだが。
「えっと警察の方ですか」
インターホンを鳴らすとすぐに、希村選手は出てきた。身長は百七十ぐらいだろうか。がたいはしっかりしていて、目つきはきりっとしている。色黒であることも相まって、結構な圧を与えられる。雰囲気と反対に、口調や声色はまだ幼さが残る。
「はい。警察の刑事、東山と言います。あなたのお知り合いの...」
そう言って手帳を見せると、彼は成程と頷き
「いつ来るかと思ってましたよ」
と言う。犯人のようなセリフだが別に意図して言ったわけではないだろう。
「本隊の方は後から来ます。僕は先鋒隊というか、まあ、こき使われているというか」
そう言って笑って見せて、彼からの信頼を勝ち取る。まだ警察は枠場選手の交友関係を調べられていないようだ。
「簡単な調査ですので、ここで終わります。まず、枠場さんが殺された事件はご存知ですよね」
尋ねると彼は一瞬不思議そうな顔をした。だが、私は無視する。
「そりゃ。理不尽な事件だ」
「枠場さんが殺された理由について何かありますか」
また彼は首を傾げた。
「何かって」
「動機とかです。誰かから恨まれていたりとか」
「うーん、同期とも仲良くやってましたしね。あいつは淡々と仕事をこなすから、上からの信頼も大きかったですしね」
「喧嘩とかはしてましたか。最近、誰かと。例えば、近隣住民とのトラブルやファンとのトラブル。ありませんでした?」
「ファンって。イケメンですからね、あいつは。人気者でしたけど。まあ女性関係とかのトラブルはあったかもしれないです。喧嘩は、そういえば」
彼は何か気が付いたように頬を撫でた。
「そういえば、昨日誰かと喧嘩してました。あれ、え、あなたじゃなかったですか」
突然脈絡もなく指摘されて倉井は面食らった。
「そうだ、絶対そうだ。昨日朝、喧嘩してたでしょ。言い合いの。何かあったんですか。もしかしてあなたが? 目撃した僕を殺すために! やめてください、なんでもします、だからやめてください。まだ死にたくない! 帰ってください」
彼は倉井を押し出し、扉を閉め鍵をかけた。
彼は何を言っているのだ、と倉井は腹立たしく思いながら、警察制服を脱ぐ。プロ野球選手と倉井のような一般人が会話、しかも喧嘩などあり得ない。彼は人違いをしているのだろう。或いは、誰かが罪を着せようとしているのだろうか。どちらにせよ不気味だ。一度撤退するのが良いだろうと考えて、倉井の事件捜査は呆気なく終了した。
こんな騒動の中だが、西堂クラッカーズの試合は中止にならない。今日も六時からプレイボールのナイターが行われる。追悼試合といった様子もなく、各々がいつも通り、野球をする姿はまさにプロだ。
「今、プレイボールです。一回表、西堂クラッカーズの攻撃は一番平木。ここ三試合当たりが出ていません。さて、先発するのは下村。立ち上がりどんな投球を見せてくれるでしょうか」
実況が淡々と状況を伝える。倉井は炭酸水をコップに注ぎ、摘みの柿ピーを小さな皿に広げ、と観戦の準備はできた。
「打った、いい当たりだ、どうだ、おおおお、ライト大野のスーパープレイ。先頭バッタ出塁ならず」
「素晴らしい守備でしたね」
解説実況が盛り上がっている中、倉井は机を叩く。炭酸水をやけになって飲み干し、大きくゲップをしてから、もう一度叩く。
更に試合は進んでいき、四回の裏。ここで倉井の怒りは絶頂に達する。
「先発新垣、一、二塁のピンチです。初球、打った、これは文句なし。吉松スリーランホームラン。しっかり一球で仕留めました」
「やってくれましたね」
「死ね」
倉井は絶叫して壁を何度も叩く。
「やってくれたなぁくっそ」
柿ピーを乱暴に一掴み口に放り込む。口に入らなかった柿ピーがぽろぽろと口から漏れる。
そして、インターホンが鳴った。倉井は舌打ちをして玄関の扉を開ける。
「誰です」
「は? 隣の城戸だ」
そういえば昨日も来ていた。よく考えればそれ以前も何度か怒られている気がする。だが、正直記憶に残っていない。何かに熱が入っている時は、つい記憶が飛んでしまう。
「うるせえ。いい加減にしろ。どんだけ騒いだら気が済むんだてめえ、少しは注意を聞け。次騒いだら訴えるからな。二度と騒ぐなよ」
「なんだよ」
倉井は睨み付ける。
「騒いでるてめえが悪いんだぞ。今日も野球か」
「そうだが」
「お前正気か」
また煽ってくる。
「そもそも、十二時に騒ぐことの良くない点がな。まあ、あるんだよ。よりも、お前は仕事についているのか」
城戸の様子に、倉井は妙な違和感を覚えた。どこか焦点が合わないような、自分と目があっていないような。自分の方を向いて喋っているだけで目線はどこか別の方を見ているような気がする。まるで、倉井の家の中に何かがあるように。
そして、話の内容もどこかキレがなく、支離滅裂である。
「それとも無職か。ふざけたことをする奴はな、大体、仕事があり、無職が、見える...」
何を言っているのかわからず、倉井が返答に困った時、彼は何か納得したような面影で
「二度と騒ぐな」
と言った。彼はそのまま立ち去ってしまい、倉井はどこか不愉快だったが、こちらに非があるのは認めなければならないと自分を落ち着けた。それでも結局、明日になったら騒いでしまうそんな自分がいることはわかっていたが。
今は馬鹿騒ぎだけしている愚かな倉井だが、別に昔からこんなだったわけではない。頭も悪くはなかったし、人間関係もある程度はしっかりしていた。だが、人間は失敗すると変わるものだ。一度失敗すると、なぜかわからないが、失敗は追って続いてくる。それが倉井をヤケクソにさせた。やりたい放題やってやろう、いつ死んでもいい結局人間いずれは死ぬのだ、そう思うようになったのも失敗が続いてからだ。実は世の中にはこういった人間になろうとしている者は山ほどいる。倉井自身そのような人間を沢山見てきた。だが、そういう人間の殆どは友人や家族に救われ正しい道を再び歩み始める。
「西堂クラッカーズ、今日は痛い敗北となってしまいました」
西堂クラッカーズは結局そのまま負けた。倉井は吠えたくなるのをグッと堪えて、テレビを消す。毎日の野球鑑賞時間が終わり、寝れば、バイトばかりの毎日が待っている。
枠場選手殺害事件に暫く進展はなく、また、希村選手とのいざこざの件もあって倉井は本格的に動くのを控えていた。バイトが終わったら家に帰ってきて、野球を見て寝る。休日はバラエティー番組を見たり、外の景色を眺めたり、ほぼ一文無しの倉井にとっては最大限の贅沢である。だが、まだ刺激が足りない。そろそろ、枠場選手殺害事件に何か進展がないかなと思っていた矢先、次の事件が起きた。またもや、選手が殺された。
次に殺されたのは小南という若い野手で、枠場選手と同じ西堂クラッカーズ所属である。小南は西堂クラッカーズ期待の若手大砲だが、伸び悩んだまま今年で三年目を迎えていた。三年目は球界の一流選手たちと自主トレーニングを共にし、コンディション万全で二軍では好調だった。そんな中でのこの事件は、倉井からすれば結構痛い。
しかし、そんなことよりも大事であるのは西堂クラッカーズの選手が二人殺された。そして、一件目の事件の犯人はまだ捕まっていない。この事実が示唆するのは、当然、一件目の事件の犯人による二件目の犯行だということだ。暇な生活にまた退屈していた倉井に新たな暇潰しが与えられた。
早速、小さく粗雑に作られたメモ帳に、気取った口調で声に出しながら、情報を書き込んでいく。
「ホワイ。なぜ殺されたのか。フゥ。誰が殺したのか。ウェア。どこで殺したのか。ワット。何で殺されたのか。ハウ。どうやって殺したのか」
そう唱えた後、自答するように
「ホワイ。枠場選手の件と関係があるだろう。フゥ。枠場選手の件と同じ人物。ウェア、調べる。ワット、調べる。ハウ、どうやって?」
と繰り返す。側から見れば頭がおかしくなってしまったかのようだ。しかし、倉井自身が、自分がおかしくなっていないということを一番わかっている。暇潰しの推理ゲームに熱中しているだけなのだ。
「今から自分がすべきことは」
また自問する。
「ネットで情報を集めること」
そして自答した時、不意にある記憶が蘇った。完全にこの一週間で忘れていた。「まったり鳥郎の裏垢」の確認である。前回の殺人の犯人が「まったり鳥郎の裏垢」であるとしたら、今回の事件も「まったり鳥郎の裏垢」による可能性が高い。もしそうだとすれば、何かしら新しい投稿があるのではないか。前回のように殺人犯であることを仄めかすような何かが。
思い立ったが吉日、というより思い出したが吉日で、すぐにパソコンを開き、電源を入れて、「まったり鳥郎の裏垢」にアクセスする。相変わらずのアイコンとプロフィールで、倉井はまるで、一週間前に戻ったような心地がした。
予想通り最新の投稿は、小南殺しの犯人であることを仄めかすものだった。
「またチームの選手が死んだ。まあ、仕方ないよね、人はいつか死ぬんだから^ - ^。泣いて謝ったら殺さないでくれると思ったのかな😩😓🔪」
相変わらず、挑発的な語気である。最後の一文は明らかに事件の犯人であることを仄めかすものだ。
二件目が起こったとなると、やはり気になってくるのは今後だった。西堂クラッカーズの選手を狙った連続殺人事件だとしたら、三件目四件目と続いていくだろう。「まったり鳥郎の裏垢」は逮捕されるまで西堂クラッカーズの選手を殺し続けるのだろうか。あるいは、特定の恨みがある選手を殺して行っているのだろうか。そして次に狙われるのは誰だろうか。
このアカウントもそろそろ警察の目につくだろう。警察は発信者情報開示か何かを使って「まったり鳥郎の裏垢」の中の人を割り出すはずだ。そのことも考えて「まったり鳥郎の裏垢」は活動しているのだろうか。
インターネットを漁れば、小南選手殺しの情報はわんさか出てくるだろうが、いっぺんに沢山情報を集めるなら効率がいいのはやはり掲示板である。前回同様、掲示板に頼ってみることにした。
淫録画録
んじゃ、共犯とか?
早速議論は始まっていた。会話しているメンバーはある程度決まったメンバーで、大体の人とは何度かこの掲示板で会話したことがある。「顔馴染み」ならぬ「アカ馴染み」である。
光3
今どんな感じ
空振り四振
ログ読めks
Ma
事件について分析してたんですよ。知っているでしょう、小南選手の
光3
そこじゃなくて。会話の展開よ
空振り四振
ログ読めks
倉井は言われた通り、ログを読み返していく。読み返している間にも、下に会話は続いていくので中々面倒な作業だが、会話についていくためには仕方ない。ログを読まないで置いていかれるよりは幾分かマシだ。
小南選手が撲殺された→連続殺人なのか→まったり鳥郎の裏垢→どうやって野球選手を撲殺したのか→成人でも一人じゃ難しい→共犯なのか、あらかたこのように会話は進んでいるようだった。
宇宙人👽
こみなみなのかこなんなのか未だに分からない
Ma
少年探偵な訳ないでしょう。こみなみ選手です
淫録画録
同じく
空振り四振
こなん、な。エアプ乙
ロブスタ
エアプって最初飛行機の略だと思ってた
光3
??????
宇宙人👽
エアプレンってことかな
ゲッツ
話題がずれてきたぞ
淫録画録
つまり、まったり鳥郎の裏垢は二人以上によって動かされてるってこと?
Ma
話が迷宮入りしてきた、ここで一つ耳寄りな話
光3
お?
ロブスタ
お???
ゲッツ
ワクワク
淫録画録
変な情報だったらしらけそう
光3
クソ情報にこいつの命賭ける
ロブスタ
俺の?
光3
お前のじゃねえよ
ゲッツ
この間は長文打ってるな
淫録画録
だるwwwwww
空振り四振
寝るぞー
ロブスタ
HAVE A NICE DREAM
Ma
前回の事件があったため、まったり鳥郎の裏垢は確実に警察の監視下にあるはずだ。或いは、そのアカウントの所有者は警察に極秘で事情聴取を受けているかもしれない。少なくとも、アカウントを動かしずらい環境下にいると予想できる。では、何故、アカウントを動かしているのか。また、犯人はそもそもどうやって野球選手に接触したのか。野球選手と仲が良かった、とか、そんなピンポイントでまったり鳥郎の裏垢のアカウント主が野球選手と仲がいいわけがないでしょう。そして、今回の事件。野球選手を撲殺。睡眠薬で動きを封じたりしたわけでもない。それなのに、何発も殴って格闘した末に野球選手を殺している。これは共犯がいると判断するしかない。
淫録画録
さっき出た説をもう一回言い直しただけで草
光3
徒労乙
ロブスタ
わかりにくくなってる
Ma
だが、ただの共犯だろうか。二人や三人の共犯だろうか。もしかしたら、この事件はもっと規模の大きいものなのではないか。数十数百数千の野球ファンたちが組んで、まったり鳥郎の裏垢を動かして、殺人事件を起こしているのではないか。そう考えることも実はできるのだ。これは、野球業界への一種のテロだ。何を要求したテロなのかはわからないが、これは大規模なスポーツテロなのだ。
ゲッツ
推理作家なれば?
淫録画録
妄想家だな
村松
妄想推理作家、ここに検算
宇宙人👽
検算してて草
Ma
この中にこのテロの参加者がいるかもしれない
宇宙人👽
冷静君かと思ってたなー
ゲッツ
ただ、否定もできないのが辛い
倉井はキーボードから手を離して、不清潔に伸びた無精髭に手を当てる。そう、否定できない。大いにあり得る説なのだ、これは。倉井はワクワクしながら画面を見つめる。
Ma
肯定できなくても否定できないなら、一つの仮説として十分です
空振り四振
そんなSFじみたこと
Ma
SFだからなんですか。SFだって、SFチックな出来事があったから、そこから着想を得た作家が書き始めて、ジュールベルヌのような名作家が広げて、一つの一種となった。どんな嘘も始まりは事実でしょう
宇宙人👽
出た名言
空振り四振
これはまとめサイトに載せないと(汗)
Ma
では別の仮説を出してください
光3
滅茶苦茶強い奴の犯行とか
ゲッツ
単純だけどこれが一番現実的に思う
村松
確かになぁ
宇宙人👽
単純=真実
ロブスタ
沸かんなあああああああああ
淫録画録
小南選手って確かホームランバッターだよな。ガタイはいいはず
宇宙人👽
184cm、100kg
ロブスタ
訂正:沸かんな→分かんな
180cm、100kgの巨体に勝ったということ...。倉井も頭を悩ませる。結構でかい人間でないと有り得ない。ただ、そんな結構でかい人間、がごろごろといるのだろうか。或いは小さくて力が強いタイプの人間か。或いは。
「あ」
突然のひらめきだったが、ひらめいた。そして、先ほどMaが挙げた疑問点と照らし合わせていく。どんどん、合う。まるでこの答えに辿り着かせるための疑問点であったかのようにすいすいと。
つまり、犯人は野球選手なのだ。西堂クラッカーズの中でいじめか喧嘩か、どちらにせよそういった問題が発生していて、それが原因で事件は起こっていると考えられはしないか。そうすれば、体格の問題はまず解決。どうやって野球選手に接触したかの問題も解決。まったり鳥郎の裏垢はこの事件に便乗して、あたかも自分が殺したと見せかけているだけの一般人なのではないか。
では、何故球団はいじめの可能性を公表しないのか。それは公表しないに決まっている。公表すれば、責任問題が問われるからだ。
倉井は慌ててキーボードを叩いたが、ふとその手を止めた。ここで彼らに共有すれば一番槍を奪われることになるのではないか。それよりも独自に捜査をして、何かしらの証拠と、この推理を、警察に「光3」名義で届ければ、彼らに自慢することができるのではないか。もしかしたら、警察から謝礼金を貰って、今の生活が楽になるかもしれない。西堂クラッカーズから感謝されて、試合に招待され、選手のサインボールを貰えるかもしれない。ここまで妄想して倉井の取る行動は当然一つ。隠しておく。
だが、議論が別方面に進むと面白いので遊び程度にもう少し会話には参入しておくことにした。
ロブスタ
結局、まったり鳥郎の裏垢は関係あるの
空振り四振
さあ
宇宙人👽
さあ
淫録画録
何も分からないという
光3
関係あるんじゃないかな? 最初はふざけて過激な投稿をしていたけど、そうするうちに気が付いたら、行動に出てしまった。言動が行動に移ってしまう、的な。知らんけど
Ma
私のご高説はどこに行ってしまったのやら
空振り四振
自分でご高説いうなし
天明
天明待ったら次の事件起こったじゃないか
Ma
起こったとて
空振り四振
ま、今んとこは光3の説だよな
ゲッツ
そもそも、まだ考えられる説と、ファンタジーな説の二つしか出てないからねー
Ma
は?
淫録画録
誰かまったり鳥郎の裏垢の中の人特定しといてねーーー
いい感じに欺くことができ、倉井は達成感により、うとうとし始める。明日からは、仮説に基づいて事件を捜査だ。西堂クラッカーズ内で起こるいじめをどう特定すればいいかは分からないが、例えば誰か球団の役員の人に話を聞くとか、球団の選手宿舎で働く人に話を聞くとか。何でも方法はある。こっちには偽の警察制服があるのだ。危険さえ冒せば、幾らでも騙して話を聞き出すことはできるのだ。だが、幾つか気掛かりな点もあり、倉井の脳内でそれが渦巻くように回転し、倉井の意識はゆっくりと夢の中に引き摺り込まれていく。
4
朝、いつも通りよく眠れず、六時に目が覚めた倉井は早速行動に出ることにした。バイト先に体調不良で休むと連絡して、乱れた髪を違和感ない程度に整えてから、家を出る。家を出る頃には、よく眠れなかったことによる何とも言えない不快感は無くなっていて、今から自分が事件を解決するという高揚感で一杯だった。
まず向かったのは事件が起こったという現場付。日傘和町のフランクビルという建物の前にある脇道。そこで、小南選手は帰宅中に襲われたらしい。フランクビルとは築十年のまだ新しい方で、十五階建てで小綺麗な外装、公園も隣接しており、子供連れにはありがたいタイプのマンションだ。日傘和町自体は、これが初めてだったが、過去に何度か、日傘和町の隣、漆町には立ち寄ったことがあるのでで、そこまでなれない地名ではなく、家から十キロほどの遠出ではないが、節約のために電車に乗るのは最小限に抑えて、徒歩で現地へと向かった。野球好きだが運動をしない身なので、こういった軽い運動も大事だ。いずれ不景気が加速すれば、工事現場などの力仕事しか働き先がなくなるかもしれない。そのための運動だと思えばどうってこともない。
流石に脇道の周囲は非常線が張られており、侵入することはできなかったが野次馬に混じって現場を見ることはできた。現場の脇道はとても細い道で、とても一方通行でしか通れない。
一方通行...? また倉井の推理を補強する情報が手に入った。小南選手は背後から迫ってきた仲間にごつんとやられた。例えば、片方の出口を塞いでおけば、小南選手に逃げ道はなくなる。そして、逃げ道を失ったところを鈍器で殴られて撲殺。どんどん推理が裏付けられていく。
「怖い事件よねえ」
突然、慣れない地で声をかけられて、倉井はひぇっと声を上げた。話しかけてきたのは、優しそうなお婆さんだった。
「そうですね」
「でもねぇ、何故あの人は殺されたのかねぇ。いい方だったし、恨みを買うこともないと思うがねぇ」
「どんな人だったんですか」
「とても朗らかな人ですよ。朝会ったら挨拶を返してくれるし、とっても親切で、この前も荷物を持ってくれてね」
胸が痛む話だ。こんな若くで死ぬには勿体無い人だろう。
「通り魔ですかね」
倉井は素っ気なく尋ねながら、どんどん情報を仕入れていく。
「通り魔なんてこの町にいるわけがない、そう信じたいけどもね。ただ、通り魔が撲殺というのは何だか腑に落ちんけどね」
なかなか勘の鋭い人だ。お婆さんの言う通り、通り魔が撲殺などという方法を選ぶだろうか。
「近所トラブルとかがあったんですかね」
「或いは、嫉妬、とかねぇ。いい人っていうのは嫉妬の対象になってしまうものだから。理不尽なものよ」
お婆さんは悲しそうに呟くと、そそくさと歩き去って行った。
次に、倉井が訪れたのは小南選手が最後に目撃されたという公園だった。その公園というのは、フランクビルの隣にあるものではなく、フランクビルの隣のものより一キロほど離れた場所にあるものだ。小南選手は帰宅時によくここを寄っていたという。事件当日もその公園に通っている老人によって小南選手の姿は目撃されているらしい。
公園には警察はいなかった。捜査をもう終えているのだろう。警察が一度来たということは事件のヒントになるような物品はもうとっくに押収されている可能性が高いが、見落としがあるかもしれない。倉井が一心不乱に公園の茂みを探していると、後ろから不審げに声をかけられた。高い声だったので、子供だとすぐわかった。そう言えば今日は土曜日か。
「どうしたの」
野球をしているのだろう。グローブとボールを手にしている。
「あー、いや、ちょっと探し物をね」
「手伝う」
「大丈夫大丈夫。気にしないで遊んできな」
「もしかして警察の人?」
「まあ、実は」
倉井は嘘をつき、この少年から情報を聞き出すことにした。家を出る時に鞄に偽警察制服と偽警察手帳を入れておいたので偽警察手帳を見せた。
「へー、本当に警察の人なんだ。格好いいな」
少年は満面の笑みを浮かべた。
「そんな格好いいもんじゃないよ」
倉井は苦笑いする。そんなに喜ばれたら、少し後ろめたくなるじゃないか。
「正義の味方だ」
「警察だって皆が皆正義の味方じゃない。警察だって人間だ。悪い警察官もいる」
ついそんなことを言ってしまい慌てて口を噤む。少年の夢を壊すようなことはしたくない。
「ちょっと質問していいかな」
「いいよ」
少年はボールを手元で弄んでいる。
「あの殺人事件のことは知ってる?」
「知ってるよ。小南兄ちゃんが死んだんだよね」
「小南兄ちゃん? 親しいのかい」
「うん。ここの公園によくいて、遊んでくれた」
先程出会ったお婆さんの言う通り、小南選手の人柄はとても良かったらしい。となると、恨みによる犯行の筋は薄い。選手間でトラブルがあった可能性は否定できないが、その可能性は低いように思える。
「昨日も一緒に?」
「うん。サッカーをして遊んだ」
「二人で?」
「ううん、僕の友達もいるよ。五人ぐらいだったはず...」
「ありがとう。参考になった」
倉井は少年に頭を下げて公園を立ち去った。
もし、小南選手が恨み以外の理由で殺されたのだとしたらそれは何だろうか。多分、小南選手と枠場選手が殺された理由は同じだろう。その二人に共通するのは、野球選手であるということ、西堂クラッカーズに所属するということ。段々、事件の動機の概形が見えてくる。何故、同じチームの選手を殺す? 妬み以外に同じチームの選手を殺す理由なんて一つしかない。
ライバルを減らすためだ。二人の選手は、ライバルを減らすために殺されたのだ。確かに両選手は期待の若手で、ライバルは多かったはず。そのライバルの一人に殺されたのだ。
当初は、チーム内での喧嘩やいじめが原因だと思っていたが、どうやらその筋よりこの筋の方が遥かに可能性が高く、しっかりしているようだ。
容疑者は一軍に定着していない西堂クラッカーズの選手全員だ。三十人以上いるだろうが、それでも十分絞り込めた方だ。ここからどんどん絞っていけば、最終的に一人になる、これが推理というものだろう。
ただ、ここまで分かった時点で選手寮を尋ねる意味は無くなった。当初、選手寮を訪ねようと思っていた理由は、いじめや喧嘩に関する情報集めだ。その筋が薄くなった今では、危険を冒して選手寮に行くのは得策ではない。
倉井は一旦家に帰ることにした。
家に帰り、何気なく「まったり鳥郎の裏垢」を確認すると、新たな投稿があった。
「まさか警察もこんな短いスパンで人が死ぬとは思わないだろーなー」
まさか、また選手が殺された? 倉井は慌てて、ネットニュースの記事を確認していくが、枠場選手の事件と小南選手の事件以外報道はない。おかしい。「まったり鳥郎の裏垢」は自分が殺人犯を気取ってるだけの奴のはずだ。そう倉井が困惑する中、次の投稿が。
「まだ報じられてない! 報じられるのが楽しみ」
更に連続して投稿が。
「犯人はここにいるよーーー」
更にもう一つ。
「もう自分で報道しちゃおっかな」
倉井は焦ったが、よく考えればおかしいことではない。「まったり鳥郎の裏垢」のアカウント持ち主はこの事件を起こしている西堂クラッカーズの選手なのだ。そう考えれば何も違和感はない。
そうしているうちに六時を過ぎていた。プレイボールだ。倉井は慌ててテレビをつける。
「西堂クラッカーズの攻撃、一番、ライト、永冨。前の試合では猛打賞を記録しています」
ちょうど試合が始まったようだ。
「初球、打った、この当たりは伸びて伸びて、うーん、あと人伸びありません、ワンナウトランナーなしです」
また近所に苦情を入れられないように、倉井はできるだけ抑えて応援するが、この永冨選手のいい当たりには流石に興奮して立ち上がってしまった。
「続く二番は喜多。ここ三試合当たりがありません」
今年の喜多選手はとても状態が良く、持ち前の勝負強さがとても生きている。だが、ここ最近は状態が落ちており、まだまだレギュラーとは言い難い選手だ。彼のような選手が犯人に狙われて殺されているのだろう。もし、犯人を見つけることができず事件が続けば、いずれは喜多選手が殺されるかもしれない。選手たちの中には、倉井と同じ推理をしている者もいるだろう。そういった選手はどのような心理状態で試合に出ているのか。
「フォアボール。ランナーが一人出ました」
そういえば、「まったり鳥郎の裏垢」はどうなっているだろうか。新しい投稿が追加されている、或いは、そろそろ警察が誰かしらの選手の死体を見つけているのではないか。倉井はそう思い、パソコンを開いた。
早速、ネットニュースのページの急上昇中に記事があった。
『桑名選手安否不明。「まったり鳥郎の裏垢」の投稿受け警察が捜査』
桑名選手は殺されたのだ。倉井はある種の納得と共に掲示板に移動する。掲示板の奴らはまだ倉井の推理を信じているのだろうか。
Ma
これは絶対テロです。こんなに立て続けに事件が起こるなんてただの殺人とは考えられないでしょう
天明
根拠が弱い
空振り四振
桑名って選手を知らないわい
ゲッツ
桑名土岐都、大卒三年目、ドラ5。先発投手。変則フォームが売りだが、変化球が課題。今年が正念場。二軍では今季六試合で防御率3.21。2勝3敗
空振り四振
誰wwwwwwwwwwww
淫録画録
今年は春季キャンプ一軍入りしてた
春季キャンプ一軍入り...つまり、期待はされているということ。
ゲッツ
でもまだ行方不明ってだけで、死んだとは限らない
Ma
安否不明
ゲッツ
どっちも同じ
光3
ふざけた野球ファンだろうなぁ。少なくとも、これでまったり鳥郎の裏垢=犯人は確定だな
Ma
しかし、まったり鳥郎の裏垢は誰を殺したかは明記していません。つまり、ヤマカンの可能性も
淫録画録
犯人なのに”ヤマ”カンね
光3
でも、短期間で次の事件を起こすことを予期するのはそもそも難しいはず
宇宙人👽
論破wwwwwwwwww
Ma
🖕
淫録画録
生きてる可能性はまず0にちかい?
Ma
でしょう
光3
そこは一致
そう打ち込んでから、倉井は少し疑問に思うところがあることに気付いた。本当に死んでいるのか。実は生きているのではないか。例えば、あの報道自体「まったり鳥郎の裏垢」が行ったもので、自分が犯人だと思わせるためにしたのではないか。いや、でもよくよく考えればその可能性は薄いか。その場合、いずれ桑名選手が生きていることはバレる。バレた後は、「まったり鳥郎の裏垢」が犯人であるということは否定されてしまい、一気に注目度が落ちるからだ。「まったり鳥郎の裏垢」はそもそも注目されたいからあのような投稿をしているのだ。
と考えると、実際に事件は起こったと考えるしかない、のか。
Ma
ここまで枠場選手、小南選手、桑名選手、と三人の選手が殺されてきた。この間の共通点はないのだろうか
空振り四振
しきんな
光3
でも、もしそこに共通点があった場合、テロ説は否定されることになるけど、そこんとこは大丈夫?
ゲッツ
おっとレスバの予感
宇宙人👽
売られた喧嘩は売れ
Ma
テロ犯の事件になぜ法則性がないと言える?
光3
なるほど
淫録画録
で、結局、共通点っていうのは何
Ma
今から考えます
光3
人間関係だよなぁ、動機になる共通点は
倉井は適当に議論に参入する。だが、あくまで「犯人は野球選手」というキラーピースは見せないでいくつもりだ。
淫録画録
キリのない作業だなぁ
空振り四振
アホらしくなってくる
Ma
そもそもこんな所で推理合戦をして遊んでいることのアホらしさに誰も気づかないことが私からしたら滑稽で仕方ない
淫録画録
死ね
空振り四振
桑名選手の近辺? 知るかそんなの。そもそも桑名投手が何者かさえ全然わかんねえんだ
光3
↑WHIPの意味知らずに野球ファン名乗ってそう
淫録画録
OPSの意味も知らないんじゃね
空振り四振
🖕
Ma
さてさて犯人を見つけることはできるのやら
淫録画録
お前のテロ説も十分過ぎるほどメチャクチャだけどな
Ma
私はテロ説だけ提唱して、こんなアホらしい議論は抜けさせてもらいます〜
空振り四振
(一生)ばいばい
ゲッツ
ちょっと思ったんだけど、選手の成績とかが関係あるんじゃない?
淫録画録
防御率二点代の選手が狙われてますとか?
ゲッツ
いや、一軍と二軍で行き来している、いわば、レギュラー争い中の選手が狙われているとか
倉井は顔を顰めた。まずい。気付かれた。自分だけの功績にしようと思ったのに。
天明
確かに、レギュラー争い中の選手が狙われてる
淫録画録
でも、なぜ
Ma
あ! 成程
光3
気付くのおっそ
Ma
あなたも今気づいたんでしょう
光3
俺はもっと早く気づいて、その仮説の元で色々動いてた
淫録画録
警察の人?
Ma
!?
光3
いやニート
宇宙人👽
ただの痛々しい人で草
淫録画録
あー、そういうことか
ゲッツ
こう考えたら結構筋が通るんじゃない?
空振り四振
わい頭悪い? 全然ついていけてないんだが
淫録画録
つまり、西堂クラッカーズの選手がレギュラー争いを動機に殺してるってこと
Ma
いちばんありえる...
空振り四振
んなバカな。スポーツマンシップのかけらもないじゃないか
Ma
野球選手は皆スポーツマンシップがある? そんなのおとぎ話です。サンタさんと一緒。スポーツ選手の中にはスポーツマンシップのない選手が大勢います。陸上でのドーピングや、野球でのサイン盗み、サッカーのファウルもそうでしょう。それの限界突破点にあるのが、ライバル殺しです。スポーツ選手も人間です。人は殺します
空振り四振
成程
倉井はもう少し会話をしようかと思ったが、野球選手犯人説を自分だけのものにできなかったことで気分が萎えてしまい、パソコンの電源を落とした。こうなったら、また新たな情報を掴んで、自分だけのものにするしかない。だが、ここから先、得られる強力な新情報など一つだけだ。犯人を明かすこと。それが今倉井に手に入れられる最大の新情報だ。
そういえば、西堂クラッカーズの試合はどうなったのだろうと、倉井は慌ててテレビをつける。回は八回の裏、西堂クラッカーズの守りだった。六対十で西堂クラッカーズはビハインドだ。更にツーアウトランナー二、三塁のピンチを迎えている。倉井は食い入るように画面を見つめる。
「ファルコン、振りかぶって、投げた。打った、いい当たり。打球は伸びて、伸びて。入ったああああ。スリーランホームラン。四番きっちりと仕事をしました。これで日渡ヴァイオンズ七点のリードに広げます。今日は厳しい試合が続きます、西堂クラッカーズ。六対十三」
今季状態の良くなかった来日二年目の助っ人投手ファルコンが一発を被弾した。気持ちの良さすぎる相手手法の一振りに、倉井は悔しがることもできなかった。今日はもう勝てないだろう。なら、野球など見ずに寝るまでの時間は「探偵ごっこ」に使った方がダントツ楽しい。
「何打たれとんねん、殺すぞ」
という「まったり鳥郎の裏垢」の最新投稿を確認してから、倉井はどんどん「まったり鳥郎の裏垢」の過去の投稿を遡っていく。ここに何か、正体を明かしてくれるヒントがあるのではないかと期待したからだ。
だが、たいした成果はなく。そもそも「まったり鳥郎の裏垢」自体が三週間ほど前に出来たアカウントなので、投稿数も大してなかった。
しかし、これであきらめてはいけない。投稿頻度やアカウントの作成日から何か憶測できるかもしれない。
まず、投稿頻度は一日に四から六回。基本的に試合の前後が多いが、西堂クラッカーズの選手に関する不倫記事などが話題になった時はそれに触れていた。一軍での試合中の投稿も散見され、一軍での試合中の投稿があった日は彼は一軍でベンチ入りしていなかったと類推できる。流石にベンチでスマートフォンをぐだぐだ触るほど精神状態に余裕のある選手はいないだろう。そして、定期的にベンチを外れている選手ということがこの情報から分かる。定期的にベンチを外れている選手が「まったり鳥郎の裏垢」ということは、レギュラー争い中の選手が犯人という前に立てた仮説と面白いほどピッタリはまる。ただし、週に一回しか登板のない先発投手が「まったり鳥郎の裏垢」である可能性はまだ否定できない。
次に、試合中の投稿があった日のベンチ入り選手を確認していく。投稿があった日にベンチにいなくて、投稿がなかった日にベンチにいる。そんな選手がいたら、それが「まったり鳥郎の裏垢」のアカウント主であり、犯人だ。
一時間ほど、パソコンの画面と手元の手帳とで、両手を行き来させた末、遂に結果が出た。ピッタリ合致する人物は一人だけだった。
「育田正樹」
西堂クラッカーズの若手投手で、190の長身から投げ下ろされるキレのある速いストレートが持ち味。制球力もよく、毎年ブレイク候補に挙げられるも、ストレート以外の球の決定力に欠け、要所要所で打たれたりと中々結果のついてこない選手。もう五年目、そろそろ結果が求められる崖っぷちの選手だ。今年も一軍二軍を行き来しており、一軍では16試合に登板して防御率3.78、1勝2敗2H。もどかしい成績だ。
倉井の中では合点がいった。この選手ならばこのような行動に出かねない。実は、育田投手は問題行動が散見されるところも課題で、去年結婚したが、今年の頭に離婚と、素行の問題も度々指摘される。そのスタイルの良さとしゅっとした顔から女性にはモテるが、女性関係の問題も何度か発覚しており、週刊誌にも何度か載ってしまっている。正直勿体無い選手なのだ。
育田選手が犯人である、とは分かったのだが、ここから先、この情報をどうすればいいのか、倉井には思い浮かばなかった。最初は警察にこのことを届けようと思っていたが、よくよく考えればそんなことをしても信じてもらえるかは怪しいし、もし間違えていた際に、自分のせいで無実の人間に罪を着せてしまうことになる。そんなことは避けなければならない。
では、掲示板の人間に自慢をするか。この推理の過程も一緒に伝えれば彼らは信じ、倉井のことを褒めてはくれるはずだ。だが、それで終わりだ。ここまで頑張って挑戦した推理ゲームなのに報酬が少なすぎる。タクシー代を返して欲しい。
育田選手を脅すのはどうだろう。お前がやったんだろう、金を出さないと、世間にばら撒くぞ。そう言って、数百万を儲けるか。しかし、あまりにも危険が過ぎる。相手は既に野球選手を三人殺している殺人鬼だ。よくある探偵小説のように、逆上した犯人に殺されるに決まっている。
倉井の考えは結局原点で纏まった。そもそも、倉井はこの殺人事件に迷惑しているのだ。この事件のせいで、西堂クラッカーズの若い有望な選手が殺されていく。そのせいで、チームが弱くなる。一番大事な、今の倉井にとって唯一のモチベーションである西堂クラッカーズが弱くなる。このことに倉井は憤ってるのだ。犯人がわかった今、倉井が取るべき行動は一つなのだ。迷いはない。
倉井は速達で育田選手に呼び出しの手紙を送った。脅しのメッセージも一緒だ。明日には届くはずだ。もうこれ以上事件は起こさせない。
ずっとコンビニ弁当に頼りっぱなしだったので、久々に使うことになる包丁を念の為に何度も研いでから、眠った。後悔はない。人を殺すことに最早躊躇はない。
5
朝起きてすぐ、ネットニュースを確認すると桑名選手死亡の記事が大々的に報じられていた。どうやら亡くなってしまったようだ。大体予想はできていたとはいえ、ショックなニュースだ。
また、警察の捜査状況も明らかになった。警察も、倉井と同じく西堂クラッカーズの選手の中に犯人がいると思っているらしい。さらに、「まったり鳥郎の裏垢」のアカウント主が犯人だという結論にも至っているようで、すぐに倉井と同じ結論に至るだろう。だが、誤認逮捕を避けなければならない警察はまだ育田選手の逮捕に至ることはなさそうだ。しかし、そうしているうちにもまた別の選手が死ぬかもしれない。事件の起こるペースは上がっている。今日もまた、誰かが殺されるかもしれない。それを阻止できるのは、自分だけだ、と倉井は言い聞かせる。
「犯人はここだよーーー」
今朝の「まったり鳥郎の裏垢」の投稿。反吐が出る。だが、呑気にふざけたことを言っていられるのも今日までだ。勇ましい言葉を自分に聞かせ、包丁をバッグに放り込み、倉井は家を出る。
約束の場所には、先に育田選手がたどり着いていた。倉井は彼の背後から一歩ずつ詰め寄る。右手には鋭利な凶器を持って。周囲に人はいない。裏路地で殺せば誰かの目に止まることはないはずだ。準備はできている。やつは、十メートルもしない背後に殺人者が潜んでいることに気づいていない。ここまで、周到に事件を起こしてきたやつだが、まさかここで背後を取られて殺されるとは思わないだろう。これは、殺された三人の選手の分だ。敵討ちだ。
気持ちの整理はできていたのかわからない。だが、迷いが一度出てくれば、それは中々自分に付き纏って、離れなくなるもので、意を決して実行せねば殺しなどできない。倉井は包丁を硬く握りしめ、育田選手に向かって勢いよく振りかざした。 しかし、足音を立ててしまった。育田選手が振り返る。彼は何があったのかという疑問の目で倉井を見つめ、そして、倉井の手に持つ鋭利な物を見て何かを察して、逃げようと一歩踏み出した。しかし、彼は恐怖で足がもつれて、うまく走れない。彼の胸に向かって、倉井は力一杯振り翳した凶器を押し入れた。
6
城戸はごく普通の会社勤めの社会人で、今年三十七になる。結婚して娘もいるが、単身赴任で働いているため、妻や娘に会えるのは一週間に一回、帰宅した時。娘は今年で十歳になる。何よりも大事な家族にずっと会えないのは正直ストレスだったが、何とかここまで我慢してやってきた。いや、それも限界には達しつつあったのかもしれない。
単身赴任で住んでいるのはLKの小さなアパートで、家賃が安いのでここにした。自分一人しか暮らさないので、これぐらいの大きさで十分である。何より、城戸の娯楽は、テレビ一台あればどうにでもなるような娯楽なのだ。
城戸は野球観戦が好きで、昔から阪神タイガースのファンである。基本的に主力選手の応援歌は大体歌えるほどに好きで、仕事が早く終わった日や、部長に飲み屋に連れて行かれなかった日など、早帰りの日はテレビで野球を見る。平日は六時試合開始が多いので、最初からは見れないことは多いが、インターネットが普及した今、ネットで調べれば試合の情報などたくさん入ってくる。
そんなごく普通な毎日を送っていた城戸だが、単身赴任の生活が始まって、四年目になる今年、隣に引っ越してきた住民が奇妙で仕方がないのだ。
年齢は二十後半から四十ぐらいだろうか、見た目が老け込んでいるようなのでまずわからない。倉井という名前のようだが、誰かが彼の家を訪れているのを見たことはないし、彼の郵便受けに何かが投函されるのも見たことがない。しかし、別にこんな人なら、安いアパートには普通にいるだろう。しかし、彼が変わっているのはその点ではないのだ。
城戸の彼への違和感が高まったのは、残業を終えて帰ってきた日だ。その日は、残業への労りということで、上司に酒を奢ってもらい、居酒屋に行ったため、家に帰り着くのが十二時になってしまった。酒を奢ってもらったが、結局、酔っ払った上司の相手をせねばならなくなったりと癒しには全くならず、疲れが溜まっただけであった。そのため、フラストレーションも溜まり、早く寝ようと、寝支度を素早く済ませて、床に着いた時、倉井というあの男の部屋の方から大声が聞こえてきたのだ。一度は無視しようと思ったが、二度、三度、更にはどたどたとした音もする。流石に我慢できなくなり、城戸はあの男の家に注意しに行くことにした。過去にも似たようなことは何度かあり、そのたびに倉井の家に注意しに行っていたので、慣れたことではあった。
廊下に出ると、一層彼の声が大きく聞こえる。城戸は腹が立ち、わざと荒々しく扉をノックした。三、四回ノックしてやっと倉井は出てきた。相変わらずの見窄らしい様子だが、顔は喜びに満ちていた。今まで見たことがないぐらい目も笑っている。薬でもやっているのか、というその様子が不気味で仕方がなく、城戸は今からでも逃げたくなったが、自分を奮い立たせて
「うるせえ」
と声を荒げた。思っていたよりもきつい声が出てしまったが、それぐらいの方が圧をかけられるからいい。
「は?」
彼はきょとんとした顔をした。
「隣の城戸だ。てめぇうるせえ。夜だぞ、静かにしやがれ、こっちは寝ようとしてるんだよ。一人で馬鹿騒ぎしてるのか」
扉に右手をかけて、彼をどやす。
「そうですけど」
彼は、あくまで強気に応じた。城戸はかっとして大声で怒鳴りたくなったが、ここで声を荒げれば、自分も騒いだことになり、弱みを作ってしまうので、抑えて彼を説教する。
「てめえ一人で騒いでたのか。正気か?」
城戸の反応は怒りというより困惑に見えた。
「野球見てたんだよ、なんか文句かよ」
「は?」
彼の突拍子もない発言に城戸は戸惑い口を閉ざした。その隙に彼は二度頭を下げて、扉を閉めてしまった。もっと言いたいことはあったが、それが全てどうでも良くなった城戸は一旦部屋に帰った。
野球を見ていた? そんなバカな。今は夜中の十二時半だ。もうとっくにどこの球場の試合も終わっている。社会人野球や高校野球だって、こんな時間にやっているはずはない。一応、テレビをつけて確認したが、確かに野球放送はない。
或いは、野球の録画を見ているのだろうか。しかし、野球の録画でそこまで盛り上がれるものか。結果はネットニュースなどで知った上で見ているはずだ。野球の録画を見ていると考えても腑に落ちない。では、彼は何を見ているのだろうか。
一度気になると気になって仕方がないことではあったが、意外にもすんなりこのことは忘れてしまい、翌日の朝には、仕事のことで頭がいっぱいになっていた。
しかし、その日の夜、また彼の部屋が騒がしい。壁を叩いたりといつも以上に騒いでいる。しかも時間は夜中の十二時。イライラしたと言うのもあるが、彼のこの行動の要因を明らかにしたいという個人的興味があり、城戸は彼の家のインターホンを鳴らした。もうすぐ、週末。家族のもとへ帰る日が来る。理由を明らかにして、それを嫁や娘への土産話にでもしようか。
前程苛立ってはいなかったので、扉を強く叩くようなことはしなかった。
「誰です」
彼は相変わらず不躾な態度だ。そして、だらしなく不清潔な見た目も相変わらずである。
「は? 隣の城戸だ」
あくまで注意しにきているので高圧的に責める。彼は、思い出したように何度か頷いた。その動きが癪に障り、城戸は強めに
「うるせえ。いい加減にしろ。どんだけ騒いだら気が済むんだてめえ、少しは注意を聞け。次騒いだら訴えるからな。二度と騒ぐなよ」
と捲し立てた。彼は怯みながらも
「なんだよ」
と睨み付けてくる。その時、彼が少し壁にもたれかかったことで、彼のリビングルームにあるテレビが城戸の視界に入ったのだ。彼が何を見てこんなに騒いでいるのかがやっと明らかになる。城戸は適当なことを言い、場繋ぎをしながら、目を凝らす。
「騒いでるてめえが悪いんだぞ。今日も野球か」
「そうだが」
「お前正気か」
煽るような口調になったが、そんなことはどうでもいい。もう少し目を凝らせば見えそうなのだ。
「そもそも、十二時に騒ぐことの良くない点がな。まあ、あるんだよ。よりも、お前は仕事についているのか。それとも無職か。ふざけたことをする奴はな、大体、仕事があり、無職が、見える...」
見えた! 目を凝らしていった結果、やっとちょうど焦点の合う瞬間ができた。そして、しっかりと確認できた。
「二度と騒ぐな」
城戸はそう言い残し、そそくさと退散した。テレビの映像を見て幾分か納得した一方で、倉井という男への恐怖は増した。こんな人間と長々関わるべきではないだろう。
彼のテレビには、最近の野球テレビゲームの筆頭「スーパープロ野球S」が写っていたのだ。細かいところまでは見えないが、彼はどうやら、野球ゲームでのペナントレースモードで、チームの勝敗、得点、失点に一喜一憂していたようだ。
真夜中にどのような形態で野球を見ているのか、という疑問は解決した。だが、倉井という人間の異常さは最早、城戸に推測できる域を出てしまったように思えた。ゲームでの試合の展開で一喜一憂できる理由が全くわからない。ゲームは所詮ゲームだ。現実にはなんの影響も及ぼさないゲームだ。なぜ、そのゲームであそこまで、飛んだり跳ねたりできるのだ。別にテレビがあるならば、ゲームではなく、テレビでプロ野球の試合を見てチームを応援すればいいではないか。
そこからは城戸は倉井と関わらないようにした。
それから数日経った朝、とても大きいサイレンの音で城戸は目を覚ました。このサイレンの音は明らかにこのアパートに向かってパトカーが来ている音だ。野次馬的な好奇心と、単純な疑念から、城戸は重たい瞼を上げて、家を出た。アパートの外にはやはり警察車両が止まっていた。サイレンの音が止み、パトカーから警察官が四人降りてくる。どれも緊張した面持ちで、軽犯罪の捜査や、治安維持のパトロールというわけではなさそうだ。そして、その四人の警察官はそのまま、小走りで城戸の方に駆けてきたのだ。城戸は、まさか自分が逮捕されるのか、と驚いて一歩後ずさったが、警察官たちは城戸の家の一つ前で止まった。つまり、倉井の家だ。あの男が何か犯罪でも犯したのだろうか。城戸は興味が湧いてきて、警察官と少し距離をとった位置から、ことの始終を見守ることにした。一瞬、一人の若い警察官と目があったが、距離をとっているから許してくれたのか、部屋に引っ込むようには言われなかった。
警察官は神妙な様子で、目配せをして、インターホンを鳴らした。数秒経って、もう一度。しかし、応答はない。それから、警察官は強く扉を叩きながら、大声で怒鳴った。野太い声で、関係のない城戸もまるで自分に向けて言われたかのようにどきっとしてしまう。
「開けろ。倉井央。開けろ。お前は四人の殺人の罪で、逮捕状が出ている。開けろ。観念しろ、四件目の事件を起こす様子を近隣住民が目撃している。一件目の殺人事件の被害者と口論した様子もだ。観念しろ」
四件の殺人!? まさかあの男が人を殺しているのか? しかも四人も。そもそも、社会との関わりをまるで絶っているかのような彼が。城戸は信じられずただ立ち尽くし、警察官が倉井の家へ、強行的に乗り込む様子を見守るしかなかった。
7
倉井は日常生活に楽しさを見出せず、退屈していた。金がないというのはとても辛いことで、金がないと娯楽も得られない。家にある娯楽ものなんて、一台のテレビと、偶然スーパーマーケットの福引で当てたテレビゲーム機のみ。そのテレビゲーム機に対応したゲームカセットも持っていない。だが、そんなささやかな娯楽では、四六時中のバイトでギリギリ生計を立てているストレスを支えることはできなかった。
バイト先で知り合った、四つ下の後輩から野球観戦を趣味として勧められたが、コンビニやチェーン店のバイトやレジ打ちなどの仕事が結構夜遅くまで入っていて、テレビで野球が生放送されている時間帯は基本家にはいない。スマートフォンなど持っているわけもなく、そんな自分に野球観戦は到底不可能な趣味だった。
だが、昔、野球が好きだった倉井としては野球観戦を趣味にするということについてはありだと思った。そこで、目をつけたのが、野球ゲームである。折角テレビゲーム機自体はあるのだから、何かしらのゲームカセットはいずれ購入しようと思っていたところ。丁度いいと考えた倉井は、貯金を切り崩して、野球ゲームを購入した。その野球ゲームには幾つかモードがあり、ペナントレースができるモードは、実際にある十二球団のうち、一球団を選択し、その球団で一年間ペナントレースを戦うというものと、実際にはない架空の十二球団から一球団を選び、一年間ペナントレースを戦うというものがあった。最初は、当然前者を選んだ倉井だったが、段々、虚しさに襲われるようになった。実際に存在する十二球団を選ぶと、自分が現実世界では忙しくてプロ野球のテレビ中継が見れないことを思い出してしまうのだ。そこで、倉井は架空の十二球団を使ったペナントモードを始めた。野球好きの倉井は、すぐにハマり、まるで生で現実のプロ野球を見ているのではないかというぐらいに架空の十二球団の、西堂クラッカーズを応援し始めた。
だが、段々それにも飽きてくるものだろう。しかし、倉井の心はもう、架空の世界に閉じ込められていた。その架空の世界への依存は重くなる一途を辿っていた。 おかしくなっていったのは、架空の世界で、インターネットを使い始めてからだろう。架空の世界で、インターネットを妄想して遊んだ。金がなく、パソコンは数年前に気が触れてバットで叩き壊したっきり。ボロボロになったパソコンの残骸は部屋の隅に置いてある。妄想世界とはいえ久々に触るパソコン、インターネットは楽しくて仕方がない。そのため、倉井が、自分の妄想世界のインターネットにハマるのは時間の問題だった。自分の架空の世界でのインターネットに、架空の十二球団を絡めていき、「まったり鳥郎の裏垢」という毒舌アカウントを架空の世界で作り上げたり、架空の世界で掲示板で架空の十二球団についての会話をしたりと、脳内で構築された世界で、金がないせいでできなかったことをやり、段々、倉井は妄想の架空の世界のために生きるようになった。架空の世界は最強で、自分の思う通りに全てが動く。まるで明晰夢のようだ。
だが、所詮は妄想。完全に精神を蝕まれていたとはいえ、倉井も内心は、「掲示板での会話は結局、自分一人でやっている会話である」「まったり鳥郎の裏垢の投稿内容を考えているのは自分だ」ということに気づいていた。つまり、全てが自分の塩梅であることを内心察していたのだ。そのため、少しずつそれらにも飽きていった。
そんな倉井は、今度は妄想の世界で探偵ごっこを始めた。倉井はその探偵ごっこにリアルを追求した。リアルに色々な人に聞き込み、リアルに犯人探しをする。そこで、倉井は実際に人を殺し、自分で起こした事件の捜査ごっこを、自分でするという遊びを始めた。
殺したのは、西堂クラッカーズの枠場選手、小南選手、桑名選手、育田選手、ではない。当然、西堂クラッカーズというチームはゲームの世界だけの架空のチームで、選手たちも皆ゲームの世界の架空の選手たちだ。
殺したのは何でもないそこらの人間だ。最初に殺した人は、肩がぶつかった時にいちゃもんをつけてきた男性で、妄想世界の探偵ごっこの被害者として殺しても問題がなさそうな生きている価値の少ない人間を探していた時に、丁度よい男を見つけたので殺した。ちなみに、彼の友人希村という男は「枠場選手という体」の男と喧嘩になったときに近くにいた。「枠場」という名前を出すたび彼が戸惑ったのは、当然だ。実際に殺された人物の名前は「枠場」ではなく「飯田」。「枠場」は倉井の中での体なのだから。
二人目は、サッカー好きの大学生。なかなか「生きている価値の少ない人間」が見つからず、一週間近く経ってしまったので、自分を暇させないために適当に殺した。とても好青年だったと聞いた時は、流石に心が痛んだ。続いて三人目は、ホームレスを殺した。ホームレスは「生きている価値の少ない人間」だろう。心配に思ってくれる人がいなければ、心配に思う人もいない、そんなホームレスは倉井からすれば、標的にぴったりだ。四人目は適当に公園にいた人を殺した。倉井の中の「探偵ごっこ」はクライマックスになっており、「生きている価値の少ない人間」を選ぶような余裕はなく、勢いのまま殺した。
倉井はわかっていた。自分が一番「生きている価値の少ない人間」であるということに。自分の価値基準で、「生きている価値の少ない人間」を選別し、殺し、そして自分は妄想世界に酔い、仕事にまともに就かず、ギリギリの生活をしている見窄らしい男。ゲーム上の野球の試合に白熱し、隣人に迷惑をかける、社会のゴミのような男。いわば、倉井は、理性を失い、このような行動に走ったのではなく、理性が生きた上でこのような一連の普通ではないことをしたのだ。だから、この妄想世界と現実世界を絡めた「探偵ごっこ」の最後に死ぬべきは自分だとわかっていた。だから、警察が捜査後、自分に行き着くようにあえて誘導した。
倉井は部屋を真っ暗にして、胡座を掻き、目を閉じて、自分のここまでの人生を振り返る。何もいいことがなかった。いいことがあっても、それは長続きしなかった。幼い頃の自分の思い描いた、未来の自分とはまさに正反対の姿だ。
インターホンが鳴った。警察が来たのだろう。出る気はない。然るべき時までは。ポケットには包丁を忍ばせている。自分は死刑にならなければならない。そして、早々に殺されなければならない。
インターホンがまた鳴る。まだ、返事はしない。心を落ち着かせなければならない。四人を殺して死刑になるだろうか。いや、確実になるとは言い切れない。なら、もっと殺すしかない。
警察官が扉を叩いている。
「開けろ。倉井央。開けろ。お前は四人の殺人の罪で、逮捕状が出ている。開けろ。観念しろ、四件目の事件を起こす様子を近隣住民が目撃している。一件目の殺人事件の被害者と口論した様子もだ。観念しろ」
観念はしている。だが、自分が死刑になるためにはあと何人か、犠牲にしなくては。倉井はゆっくりと立ち上がり、包丁を構えて、玄関へと歩みを進める。どれぐらい殺せば死刑になるのだったっけ。昔習ったような、習っていないような、もう覚えていない。
「おい、開けろ。自殺しても無駄だぞ」
自殺。その可能性も考えた。だが、自殺では意味がない。自分が死んだことは大々的に報じられなければならない。そのためにはたくさん殺して、死刑にならなければ。
ドアノブに手をかける。この奥には警察官がいる。武装はしているかもしれない。しかし、顔には武装が及んでいないだろう。狙いは顔だ。顔を切り付け、警察官たちを動揺させ、その間に逃走。逃走中に一般市民を殺し、最後は捕まる。ただ、撃たれてはいけない。死刑にならなければ。紙面にでかでかと自分の名前が載せられ、大衆からの憎しみを受け、死刑にならなければ。そうすることで、倉井は初めて、一人の人間を救うことができるのだ。だから、一般市民を一人巻き添えにしてからは、その包丁を置き、自ら投降する。
扉を開けた。光が眩しい。だが、怯んではいけない。目の前にいる男性警察官の顔をまず切り付けた。男は、絶叫して、倒れる。周囲にいた警察官も、こういった荒々しいことには慣れていないのだろう、動揺を隠せない様子だ。さて、適当な市民はいないか。
左右を素早く見渡すと、左に見覚えある顔があった。あれは、何度もクレームを言いにやってきた、城戸とかいう会社員だ。本当に申し訳ない。だが、視界に入った一般市民は城戸だけだった。倉井は城戸に飛び掛かると、そのまま、城戸の首を掻っ切った。凄まじい鮮血と、間の抜けたぴゅうという音。その鮮血を浴びながら、倉井は包丁を捨てた。
同点の延長十二回ツーアウト満塁ツーストライクスリーボールで、打席が回れば、倉井ならばボールを選びには行かず、低めでも振りに行くだろう。
何故だかこんなどうでもいいことだけが浮かんでくる。
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