第9話
「私の話はこれだけです。長い間黙っていてごめんなさい。何度も
フミさんに話そうと思いました。でも、幸せそうなフミさんにこん
な話をしていいものかと悩みました。結局話せませんでした」
圭二郎には目の前の福子が、急に幼さを失い32歳の女そのも
のになったような気がした。マンションの最上階、カーテンがない
窓ガラスは漆黒の夜空で鏡になって、向かい合う二人を映していた。圭二郎は胡坐をかき、福子は畳んだ布団を背に正座している。
「圭二郎さんは、私が読み書きできないから、加藤さんとの結婚に反対したのですね。フミさんに聞きました。普通の幸せには縁がないとその時あきらめました。記憶が戻ってからは、かってのことが重苦しく、一人で生きていこうと何度も自分に言い聞かせていました。圭二郎さんはこんな私を、今でも嫁にしたいと思っていますか」
福子は圭二郎の申し出を、素直に受けられない理由を胸から吐き出して、ほっとしたのか肩の力を抜いた。
空知川のそばで発見して必死に救命した福子への気持ちを、引き取るという正義の行動を通して証明し、その娘へ、世間体という壁を乗り超えて求愛した訳は何か。加えて福子の過酷で痛ましい過去の存在を知ってどうなのか。
フミという枷が外れてからずっと、圭二郎は糸が切れた凧のように不甲斐ない。圭二郎は一気に老けた。膝に両手を乗せて頭を下げる。福子の話を消化できず、顔を見ることができない。
加藤が、圭二郎が結婚を反対していると知り、海北信金へ面会を求めてきたときのことだ。
「福子さんと結婚させてください。読み書きのことは周知の上で申し込んだのです」
支店長室のソファセットに座り向かい合った時、生真面目な加藤だったら、福子を幸せにするかもしれないと思いながら対峙していた。テーブルの上に秘書が運んだコーヒーが湯気を立てていたが二人とも口をつけることはなかった。
「勝だけの話でない。酒屋丸加は空知地方の酒屋の中でも老舗だ。君は長男で跡を取る。福子が読み書きできないということは、ひと時を乗り越えるという話ではない。君の跡継ぎはどうなるのだ。俺は責任をもって福子の面倒を見ている。福子のことは心配するな。君は店のことを考えろ。後見人として、俺は勝の申し出は許さない」
断定的な圭二郎の物言いを、加藤は項垂れて聞き入っていたが、責任をもってというところで、顔を上げて圭二郎を睨み据えた。
「花村さんは、福子さんを自分のものだと考えているのではないで
すか。福子さんは独りの女性です。幸せを考えてやってください」
その時、加藤は花村の返事を待たずに部屋を出たが、圭二郎の言葉の端の福子への感情を見抜いたのではないか、と今なら思う。その話の後、加藤と福子の話は立ち消えになった。
圭二郎はよこしまな考えで福子を引き取ったわけではない。しかしフミが亡くなって福子と暮らす日々の中で、あの氷のように冷たい唇に触れた日から福子に魅かれていたのかもしれない、加藤も同じだ、と考え始めている自分がいた。
「加藤はまじめでいいやつだ。君が結婚したら、幸せになったかもしれない。でも俺は反対した。正直な話、その時は嫁にやりたくな
かった。自分のものにしたかったというのではなかった。父親や男
兄弟のような感情に近かった。だけど今は違う」
正直な気持ちを俯いたまま言葉にする。圭二郎にはこれ以上の説明は出来ない。ますます背を丸め、両肘を膝に置き頭を抱えた。
「圭二郎さん。私は疲れてくたくたです。頭が働きません」
福子は両手を合わせて重ねて言う。
「もうやすみます。難しい話はあとにしましょう」
促されて圭二郎は立ち上がった。悴む背中から腹の奥まで寒気が居座っていた。部屋を出ると、後ろの扉が静かに閉まった。
サンライズマンションでの新生活は、実質11月末から始まったと言っていい。福子の戸籍を回復するための手続きに、二か月かかったからだ。
記憶の回復を柿崎に知らせ、今は北大病院にいる早坂医師の診断を受け、必要書類を集めて裁判所へ申告し認可が出るまでの期間だ。
福子はそれまでの10数年と同じく、部屋に布ものを広げ、縫物に専念していた。圭二郎は、隠居の身で特段取り組むことがなく、役所の手続きがない日は、ゆっくり新聞を読み近所の散歩をし、食事の時福子に近辺のことを話して聞かせていた。
当別での二人の生活と同じように時が流れている。福子の過去は、空知川の水に流れ消えたのだ。圭二郎の思いを堰き止める力はなかった。
11月中旬に、正式に砂川福子が平松ふきに戻った。圭二郎は戸籍謄本を取得して、母親が除籍して山下の籍に入っているのを見て、二人で会いに行くか、と福子に尋ねた。
「フミさんの一周忌の時、私は故郷へ行ってきました。生まれた家はもう無くなっていました。その時、終わったのです。父の位牌がどうなったのかは気になりますが、母とは会いたくありません」
幼げで頼りない福子はもういない。抱えていた重い荷物を降ろして身軽になり、本来の姿を取り戻したかのようだった。
戸籍の問題が解決した日の夜、けじめをつけようと圭二郎は再び福子と対峙した。
「自分の気持ちに変わりはないし嘘偽りもない。説明できることは
言い尽くした」と福子にトパーズの指輪を差し出すと、福子は素直
に指に嵌めた。
「待ってくれて有難うございます。それと、昔のことを聴いてくださって有難うございます。これで、私は圭二郎さんのお嫁さんになれます」
11月晦日、福子が発見された記念の日、フミの命日、圭二郎と福子は中央区役所へ婚姻届けを出すために、マンションからの1㎞ばかリの距離を歩いた。西11丁目通りを南へ向かう。圭二郎が辺りの建物を解説しながら、ゆっくり歩いた。福子は嬉しそうに圭二郎の言葉に耳を傾け、時々笑う。
大通公園と交差するところで、福子は公園を散歩する腕を組んだ高齢夫婦を見て、同じように圭二郎の腕に自分の腕を回しいれた。 引っ越しの日の話し合いの夜から、婚姻届けを出すことにした今日まで触れ合いはない。2人の間にはフミの食卓椅子を一つ挟んだと同じくらいの空間がいつもあった。厚手のコートを通して互いの体温が伝わり、二人の心の奥底は昂ぶっていった。
中央区役所の届け出窓口で平松ふきは花村ふきになった。福子はふきとは呼ばれたくないと望んだので、圭二郎は福子と呼ぶ。
12月14日日曜日、サンライズマンションに初めての来客を迎える。柿崎と早坂医師だ。
福子にとっては妻としての初めての接待だ。それもとても大事な長年の知り合いの客だ。
圭二郎は仕出し弁当を頼もうと提案した。福子には荷が重すぎるのではないかと考えたからだ。しかし新妻はせっかくのお客様だから手作り料理を出したいとの一点張りだ。日にちが決まって三日しかなかった。二人は近くの大手のモールで買い出しをした。スーパーの中はクリスマス一色で、お薦めの素材はクリスマスにちなんだものが多く、深く悩まずにメニューが決められたのは良かった。
前日から料理にかかりきりになり、圭二郎が端から見ていると、来客を迎えることで頭がいっぱいの様子だった。男子厨房に入らずという時代に育ったといっても、圭二郎は手伝いが出来た。テーブルに食器やグラスをセットし、飲み物を用意しているとチャイムが鳴った。
「柿崎です。先生と一緒です」
返事をしてドアロックを開け、ドアを開けてエレベーターで上がってくる二人を待っているとキッチンから福子が火照った顔で、エプロンを外しながら出てきた。
「いらっしゃったのですね」
「ああ。料理はどうだ。うまくいっているか」
「多分、大丈夫だと思います」
福子は玄関の前で圭二郎の後ろに立つ。薄桃色のワンピースを着ている。真珠のイヤリングに両の手をやり、圭二郎の服装や頭をチェックした。
「私、変なところないですか?」
「ちゃんとしていて綺麗だよ」
緊張気味の大きな目と、白い顔に頬を染めた福子は美しかった。圭二郎はまじまじと妻を見た。
「圭二郎、奥さんに見とれていないで中に通してくれよ」
「おのろけはあとでたっぷり聞かせてください」
エレベータから出てきた柿崎と早坂が立っていた。二人のからかいに圭二郎も顔を赤くした。玄関先で挨拶をかわし、居間へ案内した。
2人は応接セットの前で改めて結婚祝いを述べ、早坂は祝の品だと手にした紙袋から箱を取り出し、圭二郎へ渡した。柿崎からはすでに祝いの品は貰っていたが、菓子折りを福子に手渡す。
4人でソファに座ると、福子がはじかれたように立ち上がった。
「どうした?」
「お茶を入れてきます」
「福子、飲み物は僕がするから、君は料理を出してくれ。その前にプレゼントを開けよう」
柿崎は二人のやり取りや、福子が真っ赤になっているのを唖然と見ている。
「新婚さんはいいなぁ。先生どうですか」
「僕と妻にもそういう時代はありましたが、古女房はもう頬を染めたりしませんね」
またからかわれているのかと、圭二郎は苦笑しながら福子が包みを開けるのを見ていた。箱の中は有名メーカーの一眼レフカメラだった。
「家庭内離婚というのが流行らしいから、心配はしていませんが、福子さんに有利な証拠をカメラに取って置くといいかなと思って」
冗談にもならないと気付いたのか、早坂は途中で戸惑って目線で
柿崎に助けを求めた。
「先生は戯言ばかり行っているけど、本心は2人の良い思い出を残
して欲しいと、そういうことでしょ。そのカメラ新発売のですよね
、いいなぁ」
気心が知れている関係は肩が凝らないのは当然だが、福子までがリラックスしているのが圭二郎は手に取るようにわかった。円滑に料理を振る舞い、早坂の冗談に良く笑っていた。
「料理が美味くて圭二郎が羨ましい」
「フミさんのお陰です。いろんなことを教えてもらいましたから」
フミの名が自然に出てきた。
食事が終わり、居間へ移って圭二郎がサイドボードの前で飲み物を選んでいると、福子がウーロン茶を運んできた。飲むと料理の脂っこさが消える、と最近流行り出した茶色で少し小苦い中国茶だ。
圭二郎は、現役時代に顧客から差し入れられたドイツの高級ブランデーを開けることにした。何年も飲む機会を持てずに開封できなかった代物だ。
福子は片付けにキッチンへ入り、男3人は居間のソファへ落ち着いた。最上階のマンションはカーテンが引かれていない。東側に満ちた月があるのだろう、鉛色の雲が半分照らされて西へ流れていく。
「平松ふきさん、否、今は花村ふき、福子さんか。彼女の親は今どうしているの?」
早坂が夕食に招かれてやって来たのは、福子の発見当時から関わってきた縁があるからだ。素直な祝福の気持ちは勿論だが、福子の記憶にある平松家の住所が砂川市の東のはずれになっていたのが解せなかったからだ。そんな近くに住んでいた娘をなぜ家族が探さなかったのか。
柿崎と圭二郎はこれまでにわかったことをかいつまんで説明した。
戸籍回復は裁判所の書類上の手続きだけではない。戸籍上の親族を探し出して本人確認をする必要があった。同時に本人の住所地の最寄りの役所が、現状を確認する。
福子が伝えた平松家の住所には家屋がなく、持ち主も変わっていた。辺り一帯水田になっており、近所で平松家のことを見知っていたのは、山口という高齢の農夫だけだった。
「ふきは母親の実家へ家事見習いに行ったって聞いている。母親は再婚して引っ越していったが、どこに住んでいるかは知らないな」
戸籍上、ふきの母親静子は、山下真治と再婚して除籍していたが、山下の戸籍上の住所地には住んでおらず、現住所は不明だった。静子とは連絡が取れない。本人確認は、司法書士が探し出した保の従兄が札幌に居を構えていて、福子と面談してなされた。はっきりと顔を覚えていたわけではなかったが、誰かの結婚式の写真を探し出し、福子と記憶を擦り合わせた。
平松家の戸籍にはふきだけが存在していた。
柿崎は圭二郎へ断って、10月末に自分で砂川へ調べに行った。地元の役所の仕事に納得できなかった。山口家へも事情を聴きに行っていた。
「山口さんはまた来たかという顔付きだったが、座り込んで茶をごちそうになり、なんだかだいっているうちに思い出したことを教えてくれたよ。息子が福子と同級生という話だった」
ふきの父親が病気で亡くなって間もなく、静子は農協の同僚とく
っついたという。再婚話を耳にしたのは昭和43年、ふきの姿が見えなくなったのもその頃だと、老人は話をするにつれて細かいこ
とも思い出してきた。
「愛知の自動車会社に集団就職で行くことになっていたらしい。その前にいなくなったので静子に聞くと、実家でやっかいになっている。遠方へ行く前に本人が困らないように仕込むとか言っていたそうだ。そのうち静子も越してしまい、平松家とは連絡が途絶えてしまった」
早坂は、若い時の柔和な印象は変わらないまま、年を重ねていた。ややせっかちなところも同じだ。
「福子さんは川に落ちたのか。落とされたのか」
圭二郎は記憶が回復したことは2人へ話しているが、福子の過去の出来事は伝えていない。
「川には誤って落ちたと本人は言っているが、お母さんとの間で何かあったのかもしれない。なぜ探されなかったかを福子に聞くのはきついですよ」
顎の髭を引っ張りながらの柿崎の言葉に早坂は「確かに」と言ってグラスを口に三人三様に思いにふけっていると、福子が氷を入れたガラスのペールとグラスを持って入って来た。チョコ菓子がはいった小鉢もテーブルへ置いた。
「柿崎さんのお持たせです。フミさんがブランデーにはチョコが合うって言っていたので」
「福子はロシアケーキが好きだと聞いていたから、丸井や三越を廻って探したけど見つからなかった。似たようなのにしたけど、チョコはブランデーに合うのか」
そういうと柿崎は一口齧り、グラスへ口を付けた。
「ああ、なるほど」
福子がキッチンへ戻ると早坂が言う。
「いつも前の奥さんのことをああして話すのですか」
「そう。ことあるごとに話をするので、同じ家の中にフミもいる気がするくらいです。母親のようなものだと思っているのでしょう」
「嫉妬とかないんですね。複雑な関係の様で単純ということか」
「そうだ。山口さんが言っていた。息子の話だとふきは読み書きが苦手な子だったって。頭を打ったせいで読み書きができないと我々は思っていたのですが、先生どうです?」
柿崎は声を低くした。つられて早坂も声を落とした。早坂は納得して何度も頷いた。
「そういうことか。記憶喪失とは別件だったか。今は学習障害といわれているが。花村さん、福子さんは料理も会話もできるからあまり気にしたことないでしょう? 問題はないですよね」
圭二郎も「和裁を習得するのには苦労があったようだが、今更障害といわれてもなぁ」と腕を組んだ。食事中のワインとブランデーが効いて心地好い。
圭二郎と福子はマンションの1階で2人を見送った後、寒空の下に佇んでいた。十二夜くらいの月が、天空高くきれぎれの雲間に小さく見えた。マンションや街頭の灯りに邪魔されて星は一つも見えない。冷たい空気が圭二郎の酔いを醒ます。初めての接待をやり遂げた福子は満ち足りて圭二郎の腕にすがっている。
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