第8話

 道路沿いのポプラの並木から、セミの声が湧いてくる。平松ふきはかばんを路上に置き、中から白いハンカチを出した。汗ばむ額と鼻の下を拭く。

「今日の試験はやっぱり駄目だろうな。お母さんがなんて言うだろう」

 夏休み前の学期末試験の最終日は国語と音楽だった。音楽は、歌唱だったのでなんとかなった。授業で皆が歌うのを聞いているうちに歌詞も音程もまるごと覚えられたから、歌うのは苦手ではなかった。

 ふきは、住口小中学校へ入学した9年前から、どう教えられても読み書きの出来ない児童だった。それでも小学から中学と同級生や担任の助けで落第もせずに来たが、中学生になると試験のたびに結果を見て「どうしてもっと頑張らないの。まじめにやりなさい」と、母の静子に詰め寄られるようになり、自分の不甲斐なさを悲しんだ。母は母で、ふきが幼いうちは、いつか何とかなるだろうと暢気に構えていたものが、娘が小学校5年生くらいから、焦りに取りつかれていったのだ。

 2年前、ふきが中学一年生の時に亡くなった父の保は、生前、だんだんひどくなっていくふきへの説教を「やり過ぎだ。ふきにはふきの得意なところがある。そこを認めて伸ばしてあげればよいのだ。本人の努力を認めてあげよう」と静子に話していたものだが、いつも会話は堂々巡りになった。

「あれでは、仕事に就けない。働けなきゃ食べていけないじゃないか」

「うちの仕事を手伝えるんだから、何かかにか仕事は見つかるさ」

「あんなんじゃあ、嫁の貰い手だってないよ」

「家の手伝いで、いいと思うがな」


 ポプラ並木の中ほど、左手にイチイの生垣に囲まれたふきの家が見えてくる。

「ただいま。お母さん」

 ふきは空きっぱなしの玄関から母に声をかけた。たたきに男の靴が並べてあった。

「おぉ、ふきか。お帰り」

 静子ではなく、母の職場の同僚で、最近頻繁に家へ出入りしている山下真治が居間から返事をした。父親が亡くなってから、母の静子は農協へ働きに出ていた。田畑の大部分を近隣の農家へ譲渡し、自宅用の野菜だけを耕作していた。土曜日だから、静子は半日で帰っているはずだ。ふきは、掃除当番やら図書室の片付けで少し遅くなったのだ。

「今日は。おじさんいらしてたんですか。お母さんはどうしたのですか」

 山下は、ランニングシャツとステテコ姿だ。長い顔の無精ひげを歪め片眉を上げて、ふきを舐め回すように見詰め薄ら笑う。卓袱台に小鉢と銚子が載っている。

「静子は、嵐屋商店に酒を買いに行ったよ。ふき、帰り道で会わなかったか」

「会いませんでした」

 ふきは居間を横切り自分の部屋にしている仏間へ入った。勉強机の横にかばんを置き、保の仏壇の前に座り、何時ものように「ただいま帰りました」と手を合わせる。

 山下が、手にぐい呑みを掲げ部屋へ入ってきた。

「ふき、付き合えよ」

「わたし、お昼の用意をしなくちゃ。もうすぐお母さんが帰ってきますから」

 とても嫌なのに笑顔で返事をしている自分がいる。

「まあいいから、静子が帰ってくるまで付き合ってくれ」

 ふきより、頭二つ分上背のある山下が腕を掴んだ。ふきは摑まれたところから鳥肌が這い上がってくるのを感じたが、頬には笑がはりついたままだった。

『母さんのお客さんだから』

 引っ張られて居間へ行くのかと力を抜くと、その場で押し倒された。

 ふきは山下がなにをしようとしているのか分からなかった。夏のセーラー服の前がはだけ、シュミーズ越しに乳房を鷲掴みに揉まれて初めて悲鳴をあげた。山下の唇がふきの口を塞いだ。押しのけようとした両腕も頭の上で抑えつけられた。

 蝉の鳴き声が変わらず騒がしい。時が経ち、山下はふきから降りて仰向けになった。窓から射す陽が汗ばんだ男の裸の胸を照らす。

「ふき、しゃべるなよ。俺は静子と所帯を持つ。母さんを幸せにしたかったら言うなよ」

 肘を着いてふきの顔を覗き込む。乳房を揉み、耳元で囁く。息が耳に熱い。

「もうやめて。お母さんが帰って来るから」

 ふきは涙を流しながら山下の手を払って立ち上がる。股の違和感と痛み、何かが流れ落ちる感触に、パンツを履く手が震える。制服をハンガーに掛ける。ふらつきながら普段着に着替え、ハンカチで涙と鼻水を拭う。寝そべって自分をじっと見ている山下を意識しながら、母の足音がしないか外を窺っていた。

「あっちへ行って。もうお母さんが来る」

 ふきの声は悲鳴に近かった。山下は素直に起き上がり居間へ戻った。ふきは仏間を見まわし、山下が使ったチリ紙をかき集めてくずかごへ捨てた。すぐにくずかごからチリ紙を拾い集め学校のカバンへ移し変えた。

 静子に知られたら、という恐怖心がふきを支配していた。ふきは仏壇の前に坐った時、頭の中身が起こったこととつながった。自分の身体に起こったことは学校の保健体育の先生が教えてくれた「性交」なのだろうか? 赤ちゃんができるかもしれないの?

「お父さん、見ていたよね。私どうしたら良いの。お母さんには絶対言えない」

 玄関から静子の声がした。

「ただいま。あらふき、帰っていたの。途中で会わなかったね。きっと嵐屋さんの中にに居るとき通ったんだ。真治さんに、何かおつまみでも作ってくれていたらよかったのに」

 仏壇に向かって手を合わせているふきに声を掛けると、山下の前に坐り、抱えてきた一升瓶の蓋を開け、スルメを裂いた。

 二人は酒をのみ喋っていた。酔うに従い静子は山下に近づきしなだれかかった。ふきは二人に遅い昼飯を作り、自分は台所で食べた。静子が見咎めなかったのでほっとした。

 自分の部屋に入り、保の前で手を合わせ問い続けた。

「どうしたらいいの」



 静子の怒鳴り声に追われ、ふきは家から飛び出し、落葉したポプラ並木まで走った。

「許さないからねぇ」

 並木に突き当って左へ駆ける。中学校の制服の紺のズボンとセーラー服のままだ。誰にも遇わないように、と祈りながら俯いて走った。振り向いたが母は追ってきていなかった。昼下がりで日は射していたが、山から冷たい風が吹き下りてきていた。

 並木が終わった角は、同級生の山口の家だったが人気はない。左へ折れて間もなく、枯れたイタドリやヨシに囲まれた農道へ入った。そのまま北へ進むと空知川へ出る。

 山口家の、秋の耕うんが終わって黒々とした田んぼの端で、息が切れて立ち止まった。


「ふき、お前が誘ったって真治さんが言っていた。何食わぬ顔してお前って子は」

 先刻、学校から帰ると、母は家にいた。通勤に使っているバッグを膝の上に抱えて、玄関框に座り込んでいた。

 ふきを見るなりこめかみに青筋を立てて仁王立ちになった。バッグが飛んで口が開き、中のものが散らばった。

「早引けして帰ってきたら、あんたの部屋に真治さんが寝ていた。『ふきか、待っていたぞ』って。母さんを裏切ったね」

「お母さん」

「あんた、自分が何したか分かっているの」

 保の三年忌が済んだ12月23日に静子と山下真治は結婚式をすることになっていた。

 夏休み前の学期末試験の最終日、家にいた山下に凌辱されて以来、静子のいない週末度々関係を持った。

 はじめは精一杯の抵抗をしたが男の力には勝てず、相談する相手もいなくずるずると関係をつづけた。一番心配なのは、保健の先生が教えてくれたように赤ちゃんができたらどうしようということだった。山下に訴えたら、「できたらお前と結婚すればいいのさ。俺は子どもが欲しい」といって笑っていた。

 ふきは、来春には集団就職で愛知県の車の部品工場へ行くことになっている。やっと何とかなると思っていた矢先の発覚だった。母にだけは、知られてはいけなかった。知られたら生きてはいけないと思っていた。

 裏切りといえば、そうなのに違いなかった。山下を好きではなかったが、土曜日学校から帰る道々、男のの裸の胸やささやき声がふきの心をいっぱいにした。自分の体の中心にこんな感覚があることすら、夏まで知らなかった。


 静子の喚き声がふきを現実に戻す。もう聞こえるはずはなかったが「ひとでなし」「泥棒猫」とふきのアノラックの袖をつかんで叫ぶ声がこだまする。往復びんたを食らって、ふきはアノラックを脱ぎ捨てて家を飛び出したのだった。

 空知川に近づくにつれ立ち枯れたヨシや、葉を落としむき出しの枝を張った雑木が深くなった。日差しは雲に隠れ、空気はいっそう冷え込んできた。

 川音がし始めると、雑木を両手で掻き分け、枯れ枝を踏みながら、保と何回も歩いた川渕を進んだ。紺サージの上着の前がはだけて白いシャツが露わになっていたがふきは気付かない。


 幼い頃から、春になると保とここへ山菜を摘みに来た。川から小高く盛り上がっている天然の土手は、春、イタドリも小さくフキノトウやツクシがいたるところに顔を出す。少し季節が進むと、ノビルやワラビも取れる。

 10歳の時、ふきはここで、雪解けで増水しごうごうと流れる空知川を、保と並んで眺めていた。静子に、国語のテストのことで散々叱られてしょげているふきを、保が山菜摘みへ連れてきた。

「ふき、水は怖いよ。ここへは一人で来たら駄目だぞ」

 しゃがんでフキノトウを摘み始めると、父もそばに屈んだ。ふきの足元に、小さな流れが湧き出していた。空知川に向かってちょろちょろと流れて行く。澄んだ水に触ると、指が切れそうなくらい冷たい。

「冷たいか」

 保はふきの驚きや発見を笑顔で見守っている。

「水は怖いがな、大事なものだ。この小川も、どこかで解けた雪が土に滲み込んで道を作り、ここまで来て空知川に流れ込んでいる」

「土の中に道があるの?」

「そうだよ。雨も雪も、みんな土の中でみずの道を作って川や海に流れ込む。一滴も無駄にはならない」

「すごいね。一滴も無駄にならないなんて。私みたいなダメなのはいないんだ」

 静子に「お前はダメ人間だ。読み書きできないのは努力が足りないからだ」と、ことあるごとに言われ続けて、自分でもそうだと信じ切っていた。昨日持ち帰った零点の国語のテストを母に見せ、予想通りひどくののしられたのも、仕方がないと思っている。

 昼に保が家へ戻って、やっと小言が終わった。保は、作業小屋まで静子の剣幕が聞こえたので、耕運機の手入れを途中でやめて家に入りふきを連れだした。

「人も同じさ。無駄な人なんていないよ。みんな役割があって、一生懸命生きていくのだ。ふきにはふきの道があるよ。今はまだ見えていないだけだ」

 ふきは小川を見る。右から左へと流れる空知川を見る。後ろにそびえる雪の残った神威岳を見る。振り返り、にっこり笑って保と手を繋いだ。


 ネコヤナギがびっしりと生えて川面に枝を張り出している。土手へむかって張ったヤナギの枝を掴み、太い枝にそろりと足を乗せ、木に渡る。網目のように絡まったノブドウの蔓がふきの足を捉える。ふきの両手は冷たさのせいか、強く枝を握り締めているためか真っ白だった。膝にヤナギの枝がはねて当たった。ふきはうめいた。片手を離しズボンを捲り上げると五センチほど皮が剥けて血が滲んでいた。

 空知川の水嵩は低かったが流れは荒々しかった。空も水面も灰色だ。ふきはもう一方の手も離し、ヤナギの枝から川に飛び降りようとしたが、体の重みで足が滑り仰向けに倒れたふきの身体を、ブドウのしなやかな蔓が支えた。すぐ下を川が流れている。水滴が背中を濡らした。

 ふきを問い詰めながら静子は、ふきの唇、胸、太股を見た。汚いものを見るように眉間に深い皺を刻んで。

「勉強もろくに出来ないくせに」

 幼い時から読み書きが苦手なふきに、鬼の首でも取ったように、唾を吐き散らし言い募った。

 底の無い空の真ん中から、小さな影がたくさん降りてくる、とふきは思った。その拍子に冷たいものが頬に触れ、唇に触れた。

「雪だ。雪が降ってきた」

 ふきは声に出して言った。脛の赤い傷口に、胸の上で組んだ両手に、白いシャツの上に雪が降る。瞼を開けていられないくらいに降って来る。自分に降り積もる雪の白さが嬉しかった。

 ぎしぎしと背の下で枝が鳴る。ふきの体は右へ左へと小さく振られ、つるりと下へ落ちた。

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