第19話 幽界

 気がつくと、辺り一面暗黒の世界が広がっていた。空は赤黒い雲に覆われ、天空を移動する龍のような稲光が天と地の間だけではなく雲のあちこちでも見られた。太陽は見当たらず、ただ、冷ややかな風が赤紫の岩だらけの大地を撫でている。


 隣にいたオルファが握っていた手を離し、蝋燭ろうそくをかざす。


 蝋燭のわずかな灯がサラの目の前の人物の影を映し出す。

 

 その人物を見てサラは言葉を失った。


 ——まさか、そんなことが。

 

 深緑の髪、黒い鎧を纏う精悍な佇まい……目の前には見間違えようのない男の姿があった。


 ——本当に?


「シモン!」


 サラは男の名を呼び、思わずその背中に飛びつく。しかし、サラの身体はそのままシモンをすり抜けてしまった。


「?シモン……」


 サラは語りかけるが、あいにくシモンにはサラが見えていないようだ。


「ここは幽界。人間界とは逆で、お前の姿は幽霊ゴーストには見えないし、声も聞こえない」 

 後ろからオルファが説明する。


「ちょっと待ってろ」

 オルファはサラの背中に何やら呪文を書きつけて、祈りの呪文を唱えながら聖水を振りかけた。

 その瞬間、虚空を彷徨っていたシモンの視線が点を結ぶ。


「サラ様!」


 そう言ってシモンはサラを抱えるように抱きすくめた。サラの鼻腔を懐かしい匂いがくすぐる。まぎれもない、故郷の香りだった。サラもそれに応えるように、シモンの胸に顔を埋め、両腕できつくしがみつく。


「シモン!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい……」


 サラは子供のように泣きじゃくり、何度も彼に謝った。瞬きをした瞬間に、幻のように消えてしまうのではないかという不安で、涙が溢れるのに目を閉じるのが怖かった。

 シモンは、ただ目を閉じてサラの全てを受け入れていた。ときおり慈しむように掌でサラの身体を撫でる。

 彼の身を包む黒い鎧の冷たさと、表面の鉄の硬い感覚、匂いは、確かに彼がそこに存在することをサラに再認識させた。


 ひとしきり謝ったサラは、存在を確かめるようにシモンの顔を覗き込み、その瞳を見つめた。

 シモンは優しい眼差しでサラを見返すのみで、何も言わなかった。


「……残念だがお前の声は奴に聞こえない。俺のさっきの呪文はお前の姿を見えるように、触れられるようにしただけで、声まではそいつには届かない」


 成り行きを見守っていたオルファが申し訳なさそうにサラに言う。


「そんな……」


 サラの短い返事には落胆の色が隠せなかった。しかし、それでも、それでも一目会えて、良かった。

 サラは涙を堪えて再びシモンの手を握る。シモンもしっかりとその手を握り返す。

 

「感動の再会を喜んでばかりもいられない。アルカードを助けてさっさとずらからないと俺たちが人間界に戻れなくなる」

 

 オルファが燭台の蝋燭を見せながらサラとシモンに声をかける。


 サラとシモン、オルファの三人は幽界からアルカードを奪還するため、行動を開始した。


 シモンとオルファの背中を追いながら、不穏な闇の中を進んでゆく。景色こそ見えないが、足にさわるような下り道が続いているのはサラにも感じ取れた。ふと、遠くに見える薮の近くに何か東屋のようなものが見える。


  近づくと、そこには見たこともない巨大な薔薇の花が狂い咲いていた。紫の花弁に黄色やオレンジの斑ら模様があり、禍々しい気配を放っている。ちょうど、その花の下のところにアルカードが十字架に磔にされた罪人のような格好で荊棘いばらに縛り付けられていた。


「アル!助けに来ました!」

 サラの声にアルカードは表情を変えず、ただ俯いていた。どうやら意識がないらしい。

 太いイバラが幾重にも重なり、アルカードの下半身と同体にならんばかりに呑み込んでいる。


 サラは荊棘に手をかけるが、たくさんの折り重なった荊棘は手で引きちぎるには固すぎた。

 シモンも剣でイバラに切り掛かるが、すぐに新しい触手がどこからか湧いて出てきてキリがない。

 オルファも苛立ちながら聖水を振りまき何か呪文を唱えているが、効果はなさそうだ。


 それぞれにもう打つ手が無いと諦めかけた時、サラは老人から託された品物のことを思い出した。


 薔薇ばらの栞……。


 サラは薄桃色の小さな薔薇の蕾が押し花にされている栞を取り出す。


 薔薇は美しい花だが、花全体の厚みがあるため水分が抜けにくく、きちんとした下処理と用意がないと形をとどめたまま押し花にするのは難しい。この栞を作った人物はよほど丁寧に心をこめて作業をしたに違いないと感じさせる栞だった。


 老人の言葉を思い出す


『あの者たちも、それを見れば思い出すでしょう。私たちの幸せだった日々——』


 ——もしかして……!


 サラは色褪せた薔薇の栞を大きく膨らんだ荊の根の部分にかざす。


「おいっ!お前っ何して……」

 オルファが苛立たしげに声を掛けようとしたその時、栞を当てた部分から優しい光が溢れ、辺りの闇を払った。


 頑なに入り組んでいた荊の触手が雪が溶けるように徐々にほどけてゆく。


「アル!」

 

 サラ達はアルカードに手を伸ばし、荊棘から解放された身体を引き寄せる。

 すぐに意識を取り戻したアルは周りを見回してから困惑気味に言った。


「ここは、幽界?君たち、こんなところで……」

 あたりを一瞥しただけで、アルカードはあらかたの事情を察したようだった。申し訳なさそうに謝罪と感謝の言葉を呟く。


「いいから、早く帰るぞ!」


 オルファがサラ達を急き立てる。サラがアルカードを起こそうとその手をとった時、シモンが何かの気配に気づいて、サラに覆い被さった。


「危ないっ」

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