第9話 諸悪の根源2
ドアの向こう側に酷く邪悪な気配がする。戸板一枚を隔てた先に、深い闇が広がって、今にもこちらに侵食してきそうだ。
「この部屋は随分と人間の匂いが濃いね」
突然部屋の中から、老人のような、低くくぐもった声が聞こえた。
ドアノブは少しも動いていないのに、いつの間にか真紅のドレスを着た大きな人影が部屋の中に居る。
——これが、イザベラ?
女というには大きすぎる体躯がそこにはあった。長身のアルカードに劣らない。しかし、その異様な姿はそんなことが問題では無かった。
女には、顔が無かった。
正しくは、顔があるべき所にはただ、深い闇が広がっているばかりだった。
——なんて、恐ろしい。
サラは部屋の中を見回す顔の無いイザベラと目が会った気がして背筋が凍った。背筋にたくさんの蟻が這い上がってくるような怖気を感じる。
オルファとサラは部屋の隅で一塊になり、息を殺して様子を見ていた。
二人の足元にはオルファが即興で描いた魔法陣が描かれており、彼の説明だと、音を立てるか魔法陣から出なければ相手に見つかることはないという。
——それにしても、狭い。
二人ともお互いの腰を抱いて爪先立ちでギリギリ身体を隠している状態だった。同じくらいの背格好のため腰や肩などがぶつかっている。
オルファの方を見ると、野良猫が人間を見つめるような半ば呆れたような目を向けて口だけを動かして何かサラに伝えている。
——デ カ ケ ツ
意味を理解し、頭にきたサラも同じように声を出さずに言い返す
——お ち び さん
「久々に若くて美しい女性を手に入れたんだ」
アルカードがイザベラに答えた会話でサラは我に返った。今は喧嘩などしている場合ではない。
「シテルに聞いたよ。昨日結構ないい女を奪われたってね。私のところに連れてこなかったじゃないか」
イザベラは顔のあるべき位置をアルカードに向けて語気を強める。
「まだ完全な
アルカードがわざとサラ達から視線を外しながら呟く。
——やっぱり、アルカードはこの屋敷での行方不明事件に関わっている。
薄々感じ取っていたサラだったが、やはり衝撃は隠せなかった。
「珍しく処女だったから少しずつ血を抜いている」
オルファが本当か!?と言うような顔でサラを見る。サラは恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
イザベラは窓に近づいて怪訝そうに屋敷の周囲を見回しながら「肌が白くて綺麗な娘かい?」と聞く。サラ達が立っている場所とは1メートルと離れていない。
その時、思いがけずサラはイザベラの顔の中心にある闇をまじまじと覗き見てしまった。
闇の中では、一組の裸の男女が天井からぶら下がる無数の大きな鉤で身体を吊るされている。
下からは業火が二人の身体を炙っている。身体を動かす度に鉤が背中の肉を引きちぎり、裸体は白い骨がところどころ見えていた。こちらを向いた女に鼻なく、ただ豚のように縦長の穴が開いているだけだった。髪は抜け落ち、老女のようにも見える。女の瞳に黒目は無く、ただ血の涙を流していた。
あまりに恐ろしい光景にサラは腰から下の力が抜けるのを感じた。オルファが咄嗟にサラの身体を支えるが、はずみでサラの片足の裾が魔法陣から飛び出す。
——おい!しっかり立てアホ!
オルファは必死に意識を失ったサラの身体を支えているが、魔法陣から脚がはみ出て見えている状態には気がついていない。
アルカードはイザベラの立っている場所からそう遠くない場所にサラの右脚が宙に浮いている状態を見つけて目を瞠った。
アルカードはイザベラの関心を集めるかのように、彼女の嫉妬心を焚き付けるような挑発的な言葉を並べた。
「顔も髪も身体も全てが完璧だよ。見た目の美しさはもちろん、肌は抜けるように白いし、何より瞳が美しい娘だ。あんな娘は滅多に見つからない。きっとイザベラ様も気に入るよ」
特にあの娘の血は格別に美味しいから、もう少しだけ味わいたいと柄にもなくイザベラに跪いて願い出る。
「……お前は、その娘が好きなのかい?」
アルカードは肯定の意味と取れる微笑みでイザベラに応えた。
「まさに、神に愛された人間とはああいう娘の事をいうのだろうね」
瞬間、鋭い蹴爪のような
イザベラの黒く長い爪が、アルカードの白くて滑らかな頬の肉に食い込み血が滲む。
「見た目で差別をする神なんてごめんだね。そんなせこい神はこっちから願い下げだよ」
言いながらイザベラがアルカードを罰するように
アルカードは自分の失言がイザベラの怒りを買ったことはすぐに悟った様子だったが、しばらくそうしてイザベラに痛めつけられていた。
彼の苦悶に満ちた美しい表情はイザベラの嗜虐心を煽り、ますます暴力は激しくなってゆく。しかし、それが幸いしてかサラの魔法陣からはみ出た片脚にイザベラが気付くことは様子は無かった。
オルファの腕の中で意識を取り戻したサラは、目の前の惨状を見て思わず声を発しそうになるが咄嗟にオルファが口を抑える。
アルカードは血の海で縛り付けられていた。身体中が荊棘のムチによる傷だらけになっている。
「顔がいいからってあまり勝手なことをしないことだね。あんたの飼い主は私なんだから、それを忘れちゃ困るよ」
ようやくイザベラの攻撃が止み、顔のない闇がアルカードの顔を覗き込むように屈んで見せた。
「私もそろそろこの身体には飽きてきていた。次の満月にはその『神に愛された娘』とやらに魂写の儀式を行うから、それまでに私のところに連れて来るように」
イザベラは悪心に耐えない声でそう言い残すと、入ってきた時と同じように、ドアには触れずに部屋から居なくなっていた。
同時に、イバラに吊るされていたアルカードの身体は糸の切れた操り人形のように両足を折って崩れ落ちた。
イザベラの気配が完全に消えてから、オルファはサラを抱えていた腕の力を抜いた。
「アイツを追いかける」
オルファは床に倒れ込んだアルカードを気にしつつも、イザベラが消えていった方向に向かって部屋を出て行く。
「ごめんなさい!私、気を失って」
オルファの拘束から解放されたサラがアルカードに走り寄る。
「あれが……この廃墟に……巣食う魔女イザベラだ」
肩で息をしながら説明するアルカードを抱き起こす。
アルカードの痛々しい傷口を見ながら、サラはイザベラの顔を覗き込んだときの恐ろしい光景を思い出し、イザベラの恐怖は底知れないと思った。あの、顔を覗いた時に見えた光景はなんだったのだろうか。
同時に、やはりアルカードがこの場所で若い女性を攫っていた事実に戸惑っていた。
「やっぱり……アルは、この廃墟での女性の行方不明事件に関わっていたのですね?」
サラが哀愁を込めた眼差しで見つめると、アルは目を逸らして俯いた。
「イザベラに強いられて……といったら言い訳になるか。残念だが、そうだ」
アルカードを支えながら、ソファまで連れて行き楽な姿勢にした。一息ついたアルカードは続ける。
「イザベラは数百年前にこの地で悪魔と契約をした凶悪な魔女だ。この地で
アルカードの宝石のような瞳に悔しさが滲む。
「私は、吸血鬼としてイザベラに転生させられてからは記憶こそないが、なぜかここでアイツに消されるわけには行かない……というような気がしている。なんとしても、帰らなければならないと」
そこが故郷なのか、家なのか、家族がいるのか。それさえわからないが。とアルカードは
苦しそうに話すアルカードの傷口からは血がとめどなく流れる。
——こんなに血が流れて、大丈夫なのだろうか?
サラは、アルカードが最初に会ってから食事をとった所を見ていないことに気付く。
——吸血鬼には血が必要なのではないか?
「アル、私の血を飲んでください」
自分の血を飲めば傷を治癒することができるのではと考え、伏せられたアルカードの視界に入るように身を屈め、白く柔らかそうな頸を差し出す。
はじめのうち、顔を背けて拒絶の意を示していたアルカードだったが、サラの意志も頑なであることを悟ると「すまない」と切なそうな表情で、震えるサラの首筋に優しく舌を這わせた。
首筋に痛みに似た寒気を感じ、やがて腰から背骨にかけて神経がゾクゾクと享楽的に昂奮する。
初めての刺激に自分の魂だけがどこかに抜け落ちてしまいそうな辛さを感じたサラは、必死にアルの肩にしがみ付いた。アルもまた、サラをしっかりと受け止めるように強く抱きしめた。
その格好のまま、しばらく二人は一つの塊になっていた。
アルカードの吐息に混ざる苦痛の色が薄くなり、額に光っていた汗もひいた頃、サラは責めるつもりではないと前置きしてから、考えていたことについて尋ねた。
「己のために、他人を犠牲にすることは……許されるのでしょうか?」
これは、もしかしたらアルカードが行方不明事件に関連してるかもしれないと心のどこかで気付きつつ、サラがずっと疑問に思っていたことだった。
アルカードはサラの不安そうな瞳を覗き込む。まっすぐにサラを見つめて言った。
「許されようなんて思っていない。正しいか、正しくないかなんてわからない。確かに女性を貢物にしていることは罪深いことだと思うが……」
言葉を選ぶように逡巡しながら続ける。
「大切なのは己の力で立ち向かったかどうか。そう思うのは傲慢だろうか」
そう言ったアルカードの痛ましいほど切ない表情は程なく闇に消えた。
サラは失血により気を失った。
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