第5話 深夜の空中散歩

 アルカードの言う散歩は、サラの想像していたものとは程遠いものだった。


 空中を浮遊するアルカードにつかまって一緒に夜空へ昇り、平原にくっきりと浮かんだ自分達の影を眺め、夜に移動する銀の狼の群れを上から見た。風だけが肌に触れる深い藍色の世界で、月の光を反射してアッシュグレーに光る狼達が美しかった。


 驚き疲れたサラは大きなメタセコイヤの木のてっぺんで少し休ませてもらう。

 下をみると怖かったが、隣でアルカードがしっかりとサラの身体を支えていてくれたので、落ち着いて天空からの景色を楽しむことができた。メタセコイヤの幹には大きな虚がありその中ではシマフクロウの子供が大きな目を精一杯に広げてサラとアルカードを見上げていた。


「かわいい」シマフクロウの子供達と戯れながらサラが呟くと隣で見ていたアルカードも頷く。


「アルカード様、こんなふうに散歩に連れてきていただき、どうもありがとうございます」

 改めてアルカードの目を見つめて笑いかけるサラに先ほどの孤独の影は見られない。


「アルでいい」

 アルカードはサラに一層景色のいい場所を明け渡しながら言う。

 サラは下を見ないように、おぼつかない足取りでアルに近づいて、はにかみながら呼んでみる。

「はい……。アル」

 何も遮るもののない高い場所から見る満月は、アルカードの瞳のような妖艶な美しさがあった。


「あれ?アル?」

 しばらく満天の夜空に見惚れていたサラは、いつの間にか隣にアルがいないことに気がついた。

 急に心細くなり、足元からガタガタと震える。地上から何メートルくらいの位置にいるのだろうか。

 屋敷の塔よりはるかに高いところに違いない。こんな所から落ちたらと思うと、サラは正気ではいられなかった。


「アル!どこに行ったんですか?」

 心臓が痛いほど波打つ。どうやって降りればいいのだろうか。足から力が抜け、その場にへたり込んだ。急に恐ろしくなり、地上が見えないように固く目を閉じる。


「サラ、私だ」

 サラの背中を冷たい手の感触が優しく包む。目を開けるとアルカードが心配そうに見下ろしていた。


「すまない。ふざけすぎたな」

 アルカードはもう一度目の前で消えてみせた。彼の立っていた位置から声だけが聞こえる。


「私は、霧に姿を変えられるんだ。ほら、よく見てごらん?」

 言われたように目を凝らすと、暗闇でかなり見難いが、確かに紫の霧のようなものが目の前の空間に漂っていた。その霧のような塊が、スーッとサラを通り抜けて、後ろに回ると、今度は後ろから声がする。

 振り返ると、そこには口元を綻ばせたアルカードが立っていた。


「ほらね!ちょっと驚かそうと思ったんだけどな。怖がらせて悪かった」

 

 普段の生活では考えられないような深夜の散歩体験。サラは高貴で美しい吸血鬼との夜の散歩を大いに満喫した。


 夜もふけた頃、二人は丘の屋敷に戻ってきていた。周囲を樹木の生い茂った山並みに囲まれた屋敷は、相変わらず暗く、寂しそうに佇んでいたが、それでもサラには暖かさが感じられるようだった。


 豪壮ごうそうなティールームでアルカードはサラと紅茶を嗜んだ。薄いティーカップでいただく紅茶は久しぶりで、サラの身体は優しい潤いに喜んでいるようだった。

 天井には天使を模った彫刻が柔らかなアーチを作り、二人を見下ろす。壁にかかっている曇った鏡には、サラとテーブルと二つのティーカップのみが映っていた。


 ふと、アルカードの方を見ると、サラの目線より少し上を眺めている。サラは途端に恥ずかしくなった。


「髪に何かついてますか?」


「いや、違うんだ。じろじろ見て悪かったね。ただ、君のその蜂蜜色と言うか、亜麻色の髪色と、スミレ色の瞳を持つ人を知っているような気がしたんだ」


「あぁ、これ」

 サラは自分の長い髪をひと束つまんで見せた。


「ランカスター家の一族の遺伝なんです。私だけでなく父親や叔母もそうでした」

 アルカードは肘を抱え、もう片方の手の指をコツコツと眉間に叩きつける。難しい面持ちだが、その仕草もまた映える。


「何か、思い出せそうな気がする。……サラの家の話や故郷の話をもう少し聞かせてくれないか?」


 サラは請われるままに自分の幼い頃の話や家の話をした。毎年湖に来る渡り鳥の群れや、冬には雪に閉ざされる道、滝の近くに現れる大きな氷の柱の話をすると「それはいいな」と目を細めていた。


 サラは旅に出てからこんなふうに故郷の話をしたことはなかったと考えていた。

 故郷には辛い思い出が多すぎると、考えないようにしていたからだった。

 今更、話してみると、美しい風景に、優しい人々、なんて幸せな日々だったのだろう。どうしてこんなに素敵な思い出を心の底に封じ込めてしまっていたのかと考えるが、あの事件のことに瞬時に思い至る。


「青いアネモネの紋章については何か知らないか?」


 青いアネモネ……。サラは故郷の丘の幽霊についての話を思い出した。

 実家には領地を見渡せる大きな丘があり、そこには毎年春になると綺麗な青色のアネモネの花が咲く。

 丘一面が青く染まり、空と海の青と溶け合う風景が美しく、強く印象に残っている故郷の風景。

 しかし、アネモネが花を咲かせる時期になると、月夜の晩には丘の上に幽霊が出るとの噂があった。実はサラも丘の幽霊を幼い頃見たことがあった。


 夜のアネモネの丘。月光が映し出す幻想的な花畑に白く透けてはいるが、南の空を眺める影があった。男か女かわからないが、なぜか悲しそうだと感じた。

 しかし、その思い出は恐怖を伴ったものではなかった。なぜなら、幼馴染と一緒に見た風景だったから。


 彼は領地にいる同年代の男の子の誰よりも強かったし、サラに優しかった。幼馴染と一緒なら、今も昔も何も怖いものは無いと思っていた。だから二人でたくさん冒険もしたことを思い出した。


 しかし、もう彼は居ない。


「……青いアネモネを家紋にしている一族については存じません」

 

 何かを思い出しそうで怖くなり、サラはかぶりを振って思考を止めた。

 東の空はもう明るくなり始めている。


「私、明日また町に降りて、図書館にでも行ってみようと思います。北方領の歴史に関する本でもあれば、借りてきますわ」


「ありがとう、サラ」

 アルは申し訳なさそうに笑った。


「……私は過去に何があろうと、全て受け入れる覚悟があるよ」

 アルカードはサラの目を見て強く言った。そんな彼の強さが少しだけ羨ましい。


「この屋敷の西の端にある部屋はまだ状態がよく使えるはずだから、そこを使って休むといい」

 そう言い残してアルカードは暗がりに消えた。

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