第3話 赤と青の紋章

 サラは夢を見た。


 暗然たる砂塵の中に、血だらけの男が立っている。

 男はサラに血に塗れた手を伸ばす。

 サラは向けられた手を取ろとはしない。


 何を悩んでいるのかは、わからなかった。

 やっとのことで手を取ろうと決心し男の指に触れる直前——目が醒める。


 それは、何度も見ている悲しい夢だった。



******



 翌朝、サラが目を覚ました場所は屋敷の豪奢な客室の一つだった。


 大きな窓越しに見える芝生はあちこちが剥げ、茶色い土が見えていたし、窓にかかっていた大きなビロードの赤いカーテンはところどころ薄くなり、穴の開いた箇所も散見されたが、それでも内部の装飾の豪華さには圧倒された。壁の黒ずんだ羽目板はサラの肩の高さほどもあったが、それから上には金箔を施した植物や貝の彫像や花柄の壁紙が貼ってあり、柱には彫刻が、床には大小様々な薔薇が幾重にもあしらった優美な柄の絨毯が敷き詰めてある。


 昨日の出来事も含めて、全て夢のようだったと思ったが、彼女の手には白い布が確かに巻かれていた。


 神秘的な美しさの吸血鬼が巻いたハンカチ——。


 ハンカチを解いて傷を確認する。手の甲に2つの小さな赤い点がある。吸血鬼の歯が当たった場所だろうかと身体が熱くなる。ふと、ハンカチの隅に何か模様が入っているのに気付き、サラは息を呑む。


——この紋章は


 赤いアネモネを抱くように、月落ちの青いアネモネの紋章が縫い付けられている。

 サラはその片方の紋章に見覚えがあった。


 サラは北の大貴族と呼ばれる、北方領の領土防衛と貿易を担うランカスター公爵家の娘で、生家の紋章は目の前のハンカチに刺繍されている『赤いアネモネ』だった。


 二つ以上のオブジェクトから成る紋章は、その紋章をもつ家同士の繋がりを示すものだ。

 しかし、サラが知る限り、青いアネモネを紋章にしている一族は北方領には存在せず、そもそも赤と青の二本のアネモネが絡み合う紋章など、見たことが無かった。


——あの吸血鬼は私の家と何か縁があるのだろうか。


 吸血鬼の物憂げな横顔を思い出すと、サラはまた胸のあたりがムズムズしてくるのだった。


 しばらく部屋の中で考えてみるも、目ぼしい答えは見つからなかったため、サラは町へ出てみることにした。昨日会った祓魔師エクソシストのオルファに聞けば、吸血鬼の彼のことが何かわかるかもしれない。



 サラが教会を訪ねると、建物の中にオルファの姿は見当たらなかった。中央の壇上ではオルファと同じような教会服の祓魔師がふたりで書物の読み合わせをしていたので尋ねてみる。


「——オルファはしばらく居ないよ」

「あいつは朝一番でバロウズ地方の魔物退治に出かけた」

 とそっけなく答えた。


 昨日の夜も遅くまで仕事をしていたのでは?と重ねて聞くと、いつものことだとこともなげに言われた。


 目の前の祓魔師の話だと、オルファはこの地方代々の大祓魔師の一族、現在の司教の愛人の子供なのだという。幼い頃に母親が死に、孤児になりかけたため、今は父である司教が引き取って教会で面倒を見ている。

 司教の血を引いていて徳が高いため祓魔の能力は強力だが、卑しい出生のため正妻の子供である兄たちに雑用を押し付けられているということだった。


「あの丘の上の屋敷での吸血鬼退治も、たしか兄たちに押し付けられてたよな?」

「ああ、そうそう。退治したら司祭にしてやると言われてたっけ。あそこには何十年も前から、歴代の司教でも祓えなかった強力な魔物がいるからって」

「司教でも敵わないのに、役職を持たないただの祓魔師がそんなもの払えるわけがないよ」

「またオルファをからかって遊んでるんだろ。アイツひねくれてるようで結構単純だからな」


 ふたりは嗤いながらサラに語りかけたが、あまり面白いと思える話でも無かったので、二人の仕事を中断してしまったことを簡単に詫びてその場を後にした。


 朝の教会には、ぽつぽつと信者が出入りしていて、皆、各々に祈りを捧げていた。その中に信者達を優しく見つめる腰の曲がった老尼の姿があり、サラはなんとなく気になったので近寄って挨拶をしてみた。

 サラに丁寧に挨拶を返した後、どこからきたのか尋ねられたので『丘の屋敷』から来たと伝えた。その瞬間、怒ったことなど生涯で一度もないというような深い笑い皺の刻まれた老尼は、細い眉を少し曇らせて言った。


「あそこには以前から忌まわしい噂がたくさんあります。悪魔崇拝の根城になっているだの、野盗の巣窟だの。古い建物には必ずその歴史の中に人の生死があります。だから、あの場所に幽霊が出ることはあまりおかしなことではないのです」


 老婆は表情を険しくしながら続ける。


「問題は、人に害を為さない彷徨える幽霊だった者たちが、いつの間にか『魔物』になって人間を襲うようになっていたことです。幽霊を魔物に落とすほどの邪悪がなんなのか……まだ教会ではわからないのだそうです」


 正体がわからないのなら、そんなものを祓えるわけないのだからあの場所は早く出ていった方がいいと老尼はサラに忠告した。


 サラは昨日の寂しそうな吸血鬼の姿を思い出し、彼も人間に害をなす「魔物」なのだろうかと考えた。

 自分はわずかながらも吸血されたのは事実だが、無事に朝を迎えられたのもまた事実だった。


——彼はなぜあの場所にいるのか。


 サラは今夜も丘の上の屋敷に行くことを決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る