第2話 傾国のハンサム吸血鬼

 その屋敷は月明かりに照らされる山並みとは対照的に黒々とした闇を背負って建っていた。

 雨樋に彫られた傲然ごうぜんたる怪物の彫像達は100年このかた、遥か真下に広がる町の灯を眺めていたし、これからまだ100年先にもそうしているのかもしれなかった。


 大昔には要塞としての役割を果たした、威圧感のある黒鉄の大扉を抜けた先には、天井まで美しい装飾が施された巨大なホールが広がり、壁に設えた屋敷の歴史を物語るモザイク画は割れたガラスから差し込む月光を反射し、怪しい影を落とす。

 城の中は時が止まったかのようにひっそりと静まり返っている。

 ただ一つ、城の東側の奥、寝室へ繋がる渡り廊下を除いては——。

 

 町から続く道は、何日か前の荷馬車がつけたわだちが何度もサラのつま先を奪わんと進路に立ち入ってきたり、ゴツゴツの岩が道を塞いでいるという酷いものだった。心配していた雨も降り始め、やっとのことで『丘の屋敷』についた頃にはもうサラはくたくたのドブネズミのようだった。


——もー!疲れたっ!あの人どうしてこんなに道が悪いの教えてくれなかったのかしら?


 教会で宿を訊ねた青年の不親切さを改めて腹立たしく思いつつ、崩れ落ちた壁の穴から、屋敷の敷地内に侵入する。石塀に埋め込まれた扉のかんぬきには何重にも荊棘いばらが絡みついていた。


 屋敷の入り口まである広場には首が折れた馬に乗った騎士の彫像や、濁った水を湛えた瓶を抱いた女神達をかたどった噴水の跡など、豪華な装飾に溢れていたが現在の荒れ果てた屋敷の佇まいはサラをこの先に進ませるのを躊躇ちゅうちょさせるだけの畏怖と恐怖を感じさるものに過ぎなかった。


 頭上からは眩しいほどに輝く満月がサラを見下ろし、鬱蒼と茂った林からは地の底から響くような獣の咆哮が聞こえる。


「さすがは地元でも有名な幽霊屋敷ね……」

 暗闇に並んだ木立の下、サラは自分を勇気づけるために独り言を言いながら建物へと続く道を恐る恐る進む。建物に辿り着くと冷ややかなレンガの壁に手を掛けつつ屋敷の周りを探索し、やっと人間が入れそうな隙間が開いている窓を見つける。


 窓から侵入することは決して褒められたことではないと思ったが、そんなことよりも早く今夜の寝床に辿り着いてしまいたかった。

 お尻を押し込む際に窓枠からバキッという何かが壊れたような大きな音が鳴ったが、サラは気にせずに無理やり身体をねじ込む。

「ゴギャンッ」

 とたんに窓枠が壊れ、サラは押し出されるように屋敷内に侵入することになった。腰をしたたかに床に打った衝撃で、野良猫を踏んづけたような声が漏れる。


「大丈夫か?」


 突然頭上から耳に心地のいい声が降ってきて、飛び上がるほど驚く。

 ゆっくりと声のした方向へ目線を移動させると、暗闇の中、黄金に光る石が宙に浮いているのを見つける。


 それが自分を魅了してしまいそうなほどに妖しい光を放つ双眸だと気づいた途端、サラの時が止まる。


 ——傾国の美男。そんなものがもし存在するのなら、目の前にいるこの男のことを言うのだろうか。


 引き締まり均衡のとれた体躯に、さっぱりとした輪郭。長いまつ毛と直線型の整った鼻梁、黄金の瞳は強く真直な視線を放ちサラの胸を射抜いた。その周りで銀色に煌めく緩い巻毛の長い髪。


「眩し……」


 存在全てがこの世のものとは思えない美しさに、サラは思わずつぶやいていた。

 思考はふわふわと熱に浮かされたようになり、力の抜けた身体でフラフラと男に近づいてゆく。


 美しい男はとまどう様子も見せずサラに手を伸ばし、サラの身体を受け入れるように優しく腰に手を添える。男の妖艶な眼差しがサラの身体を愛おしむようにゆっくりと撫で、細くなめらかな指で触れられた場所から、サラの身体は溶けてなくなってゆくようだった。


 男の唇がサラの首筋を捕らえた時、突然、首から掛けている銀の十字架が突然火を吹いたかのように熱を帯び、男の接触を防いだ。


「!?」

 我に返ったサラは、瞬時に身を翻した。


 十字架は旅立ちの時に修道院長が手渡してくれた破魔の力を宿す装飾品で、道中に万が一魔物と対峙することがあったら使うように言われていたものだった。


「それは、破魔の十字架……?」

 男は眉根を寄せ呻くが、十字架が視界に入らないように顔を背ける仕草にさえ、風情を感じてしまう。


「魔物を払うという破魔の力で除けられるとは……もはや私のやっていることは魔物の所業だということか」

  その男の美貌と哀愁がみなぎる物言いに、サラの心はわけもなく震え、なんとかこの男の役に立つことはできないかと考える。


 男はサラの血を吸おうとしていた——。男はおそらく人間を攫って生き血を啜ると伝えられている吸血鬼と呼ばれる魔物だろう。


——であれば、男は空腹なのかもしれない!

 サラは急いで十字架を首から外した。


「あ……あのっ、魔物であっても、お腹は空きますよね?さすがに全部は無理ですが、少しならどうぞ召し上がって下さい」


 サラは目の前の吸血鬼に向かって自分の頸部がよく見えるようにし、自分は目を硬く目を瞑った。


 ……しばらくそのままで待つが、何も変化はない。


 うっすらと目を開けて様子を伺う。

 吸血鬼は、そこにいるはずのない動物か何かを見つけたかのような驚きの視線をサラへ向けている。


「ぷっ……くくっく……」


 しばらくすると、まるで谷の湧水のような澄んだ声で笑いはじめた。その様子にサラの気持ちはより一層高揚する。


「わっ私……何か役に立てないかと思って」

 顔を真っ赤にしたまま、わたわたとうろたえる。


「おっと、女性に恥をかかせるべきではないな。その通り、私は空腹なんだが貴女の血を少しもらえないかだろうか」

 場をとりなして優雅な所作で差し出された右手に、サラはぎこちなく自分の親指を除いた指を重ねる。

 ひんやりとした絹のような指がサラの手を優しく包み匂いを確かめるように、吸血鬼は顔を近づける。瞬間、サラの右手には鋭い痛みが走ったが、吸血鬼のかがめた身体から匂い立つ薔薇のような甘い香りに、痛みなど徐々に麻痺し、次第に深い酩酊感に襲われてゆく。


 どのくらい時間が経ったのだろうか、吸血鬼の高貴な瞳がサラを見つめ、サラの亜麻色の髪を愛おしむように撫でる。


「——どうもありがとう。とても美味しかった」


 言いながら、吸血鬼はハンカチを取り出し、傷口の血を拭うように素早くサラの手に巻きつける。

 ほろほろといい気分のサラの意識はまだ混濁していた。


 つと吸血鬼は何かの気配を察知したかのように突然気忙しくあたりの様子をうかがい始める。


「……面倒な奴が来たから今日のところは退散するよ。君も、もうこんな所へは来てはいけない」

 そう優しく言い残すと、サラが入ってきた窓から外の闇に姿を消した。


バン!

 吸血鬼と入れ違いに昼間教会で会った青年が、大きな音を立てて部屋に入ってくる。

「おい!お前、ここに今誰かいなかったか?」


「……男性が居たような気がします」

 まだ夢見心地のサラが曖昧に答えると、青年は激昂した。


「お前、何かされなかったのか?」

 何かって?なんですか?とまだ意識のはっきりしないまま問い返す。


「今、ここに吸血鬼が来てたんだろ?お前、どうして無事なんだよ」

 青年はサラの意識を戻すかのようにブンブンとその細い身体を揺さぶる。


「なんで無事かって……どういう意味です?」

 サラは少しハッキリとしてきた頭で考える。


——この教会服の青年は吸血鬼を誘き出すための囮に自分を使ったのではないか?

だとしたらこの青年は見かけによらずかなりの鬼畜だ。


「もしかして、私のこと囮に使いました?」

 侮蔑の感情をこめてじっとりと青年を見ると、いともあっさりと認める。


 青年はオルファと名乗り、この廃墟では若い女性が行方不明になる事件が多発していて、町人も教会も困り果てていたこと、自分は教会にいる祓魔師で、この屋敷に巣食う魔物どもを退治するために見張っていたことを白状した。吸血鬼は若くて魅力的な女性の前にしか現れないから、サラを餌におびき寄せようとしたと言いながら、慇懃に頭を下げた。

 オルファのあまりの正直さにサラは怒る気にもならなかったが、お詫びに今日は町の教会に泊まってもらってかまわないというオルファの申し出には「私も聖職者の端くれですから」と丁寧に断った。

 

 屋敷に留まるというサラを見つめ、オルファはしばらく考えるような仕草をしていたが

「お前、なんだかがついていそうだから大丈夫そうだな。何かあれば教会へ来いよ」と言い残して町へ帰っていった。


 やっと元通り静かになった屋敷の一室で、サラは適当なベットを見つけて荷を下ろした。

廃墟という割にはベッドなどの家具や寝具も揃っていて、今までにしたどんな野宿よりも快適に寝られそうだと思った。

 ベットに入ると、さっきまでこの部屋にいた吸血鬼のことを思い出す。

 透き通るような白い肌に、どこか儚げでありながら美しい眼差し。からかうようにサラに向けられた視線。


——すごく、綺麗な人だったな……。


 心を奪われるとは、こういう事かとサラは納得した。

 久しぶりに高鳴る鼓動。同時に胸の奥に覚えたわずかな痛みをはぐらかすようにサラは深呼吸する。


 少々カビ臭いが、身体を確実に支えてくれるスプリングの心地よさにうとうとしながら、今日あった他の出来事を思い出していた。


——そういえば、オルファが言ってた守護霊って……。


思えば、旅立ちのときにも修道院長から「貴女にはから、一人旅でもきっと大丈夫」と言われたことを思い出し、オルファにはまた会った時に聞いてみようと考えて眠りに着いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る