第22話

 電車は程々に混んでいる。


 だから最初、裕太は勘違いかと思った。


 何かの間違いで、たまたま後ろの人のカバンか何かが当たっているだけなのだろうと。


 だが違う。


 とてもではないが偶然なんて頻度ではなく、故意にお尻を触っていた。


 ふわっと膨らんだスカートの上から、そわそわと指先で撫でるように触っている。


 その事に気付いた瞬間ゾッとした。


 まるで食べかけのラーメンから陰毛でも出て来たような気分である。


(き、気持ち悪い!?)


 そして怖い。


 今の裕太は女装をしていて、きっと相手はおじさんなのだ。


 そんな奴が、エロい事を考えながら、鼻の下を伸ばしなら、汚ねぇちん〇をおっ勃立てながら、公共の場で、電車の中で、他にもたくさん人がいる中で、裕太の事を可愛い女の子だと思って、無力な少女だと思って、恥知らずにもお尻を触っているのである。


 これは怖い。


 ものすご~く怖い。


 男の裕太でも怖くて泣きそうになった。


 悔しくて惨めで死にたくなった。


(僕のお尻は佳子ちゃんの物なのに!?)


 佳子を裏切ってしまったような気がして、汚されてしまったような気がして、胸が痛んだ。


 でも、裕太は何も出来なかった。


 それまで裕太は、痴漢なんか普通に注意すればいいじゃないかと思っていた。


 その場で「何してんだお前は!」と声をあげ、大事にして警察に突き出してやればいいのにと思っていた。


 だが、いざ自分が当事者になると、とてもではないがそんな事は出来なかった。


 怖かったし、色々な事を考えてしまう。


 電車は混んでいて、後ろにはいろんな人がいて、誰が痴漢をしているかなんてわからない。すぐ振り向いて指摘しても、とぼけられたらそれまでだ。


 大事になったら折角の佳子とのデートも中止になるかもしれない。


 上手く犯人を捕まえられても、事情聴取とかで、裕太が女装している事がバレてしまうかもしれない。そして、その事が家や学校にバレてしまうかもしれない。


 女装デートをした上に電車でおじさんに痴漢されたなんて知られたら完全におしまいだ。


 自分だけでなく、佳子にも迷惑がかかるだろう。


 もし痴漢が、裕太が女装している事に気付いていたら、その場でバラされるかもしれない。


 あるいは逆上して、大暴れするかもしれない。


 自分が怪我をするのはいい。


 よくはないけど、まだマシだ。


 でも、佳子を危険に晒すのは絶対にダメだ。


 そんな事をグルグル考えると、とてもではないが言い出せない。


 佳子にだって言えない。


 男の子の癖に痴漢され、自分でどうにも出来なくて、彼女に助けを求めるなんて格好悪すぎる。


 それに、言った瞬間佳子はブチ切れ、「私の彼氏に痴漢を働く糞バカ野郎は何処のどいつだ!」とか言って暴れ出しそうだ。


 自分だったらきっとそうする。


 〇ンメルだってそうするだろう。


 だから、佳子には言えない。


 大事になるくらいなら、黙って耐えて穏便に済ませたい……。


 間違った選択なのは分かっていた。


 でも、裕太は佳子に迷惑をかけたくなかったし、がっかりさせたくなかったし、危険な目にも合わせたくなかった。


 なら、こうする他に道はない。


 嫌悪感で全身に鳥肌を浮かべながら、気持ち悪さで吐きそうになりながら、惨めさで泣きそうになりながら、表面上裕太はなんでもないフリをして佳子と会話を続けた。


 程なくして、裕太は自分の過ちに気づいた。


 犯人が調子に乗り始めたのだ。


 電車が混んでいるのをいいことに、わしわしとお尻を揉み始めた。まさぐる様に乱暴に撫でまわし、尻の割れ目を指で開いて、その奥に触れようとした。


 堪えきれず、裕太の喉から嗚咽が零れた。


 快楽など一ミリもない、純度120%の嫌悪の雫だ。


 恐ろしさで全身が強張り、ガクガクと膝が震えた。


 それなのに、裕太は言い出せなかった。


 今更だし、これだけ我慢したのだから、もう少し我慢したら諦めてくれるかもしれないと、あり得ない希望に縋ってしまった。


「……佑香ちゃん。どうかした?」


 異変に気付いた佳子が尋ねた。


 それが最後のチャンスだった。


 言わなくちゃ。助けてって、痴漢されてるって、言わなくちゃ……。


「……なんでもないよ」


 言えなかった。


 バカだ。


 どうして……。


 言えるわけないだろ!?


 死にたい。


 誰か助けて……。


 情緒がぐちゃぐちゃになりながら、裕太はひたすら地獄のような時間が一秒でも早く過ぎる事を神に祈った。


 そして、この世に神などいないと知った。


 黙っていても、痴漢行為はエスカレートするばかりだ。


 痛いくらいに尻を抓り、かと思えば指先でくすぐる様に軽く降れ、焦らすように撫でまわし、割れ目の奥をねぶる様に愛撫する。


(やだ……やだ……やだ……やだぁ……)


 こんなの気持ち悪いだけなのに、気持ち悪さしかないはずなのに。


 段々裕太は気持ちよくなってきた。


 気持ち良くなりたくなんか絶対ないのに、否応なく気持ち良くさせられてしまった。


 その事が恥ずかしくて、情けなくて、恐ろしくて、自分の事が嫌いになった。


 それなのに、どうしようもなく裕太は感じてしまった。


 それくらい、裕太の尻を愛撫する痴漢の技巧は凄まじかった。


 完全に裕太の尻を知り尽くし、心と体の両方の性感帯を熟知して、どこをどのタイミングでどのように刺激すれば気持ち良くなるか分かっている者の仕業だった。


(………………ぇ?)


 天啓が降りたように、一つの疑念が胸に浮かんだ。


 まさかと思って隣を見る。


 先程から妙に口数の少なくなっていた佳子は、淫らに潤んだ目を爛々と輝かせ、蕩けた口元からハフハフと熱っぽい吐息を漏らしていた。


 太ももが触れ合うくらいピッタリと身を寄せて、自分のスカートで裕太の尻を隠すように立っている。後ろに回り込んだ右手の行方は、スカートに埋もれて定かではない。


 裕太は携帯を取りだし、隣の佳子にラインを送った。


『まさかとは思うけど。さっきから痴漢してるの、佳子ちゃん?』

『バレたか』

『バレたかじゃないよ!? なにしてるの!? 知らないおじさんかと思ってすごく怖かったんだよ!?』

『ごめんなさい……。さっきのキスでムラついて、どうしても我慢が出来なくなって。それに、前から一度、痴漢プレイをしてみたいと思っていたの……』

『思わないでよそんな事!? ていうか、やられる方じゃなくてやる方なの!?』

『やられる方も憧れるけれど。勿論裕太君限定よ! でも、自分から言い出すのは恥ずかしいし……。折角女装してくれているのだから、今日は心のおじさんを解放して、やる方に回ってみようかなと』

『言ってよ!? 本当に怖かったんだよ!?』

『ごめんなさい……。すぐバレると思ったら全然気づかないし、私にも助けを求めずに意地らしく歯を食いしばって耐えている裕太君を見ていたら、どうしようもなく興奮してしまって……。どこまでやったら気付くのか、降参するのか、試してみたくなってしまったの。おじさんだと思わせたまま、本物の痴漢だと思わせたまま気持ちよくさせたら、どうなっちゃうのか試したくなってしまったのよ……』

『変態! バカ! 人でなし! もう! 本当に! もう! もう! もう!』

『ごめんなさい……。でも、興奮したでしょう?』

『してないよ! するわけないでしょ!? 怖いだけだよ!』

『本当に? 相手が私だと分かった今でも? だとしたら、心の底から謝罪するのだけれど。裕太君を見誤っていた事を謝罪して、お詫びになんでもするのだけれど』


 裕太は答えに困った。


 携帯を握りしめたまま、頬をぷくっと膨らませ、悔しさでプルプル震えている。


 ごく自然にさり気なく、佳子の手がペロンと裕太の前を触った。


 思わず声が出そうになり、危うく飲み込む。


『嘘つき。正直者の裕太君に聞いたらすぐ分かるんだから』

『バカ! バカバカバカバカバカバカバカバカ! 酷いよ酷いよ! もう、バカぁ!』

『ごめんなさい。謝るわ』

『……ズルいよ。ズルい! ズルいズルいズルいズルい!』

『嫌だったなら、謝りますけどぉ?』


 悔しくて、恥ずかしくて、裕太は泣きそうだった。


 実際に、ぐすぐす鼻を鳴らしていた。


 それなのに、正直者の裕太は痛いくらいに張り詰めていた。


 紐パンなんか余裕で乗り越え、ドロワーズを突き破りそうになっていた。


『ねぇ。どうたったの? 嫌だったの? 嫌じゃなかったの? 教えてちょうだい。裕太君。もし嫌だったら、もう、絶対に、二度と、こんな真似はしないから』

『………………嫌じゃなかったです』


「――ッッッッ!」


 隣の佳子が携帯を握りしめた手でグッと口元を押さえ、ビクビクーッ! と身体を震わせた。


 そして、はふぅっ……、と蕩けた顔をして文字を打ちこむ。


『可愛すぎて、思わず達してしまったわ……』


 裕太は下唇をグッと噛み、羨ましそうにそれを見つめている。


『……女の子はいいよね。イッちゃっても困らないんだから。酷いよ佳子ちゃん! そりゃ、サプライズの痴漢プレイはドキドキしたけど! 色んな意味でドキドキしたけど! 今日は健全デートって約束だったじゃん! そりゃ、そんなの僕だって無理だとは思ってたけど……。でも、これは酷いよ! まだデートは始まったばっかりなのに! こんな事されたら僕、頭の中がおちんちんになっちゃうよ!』

『別に、裕太君だってスッキリしてもいいのよ? 替えの下着は用意してあると言ったでしょう? 急ぐ理由もないわけだし。途中下車して私が綺麗にしてあげるわ。大丈夫。怪しまれたら上手く誤魔化してあげるわよ』

『だめ! やめて! ……お願いだから、誘惑しないで……』

『うふふふふふ。うふふふふふふふふふ。可愛い裕太君。なんて可愛い裕太君なのかしら。頑張れ、頑張れぇ。最後まで我慢出来たらご褒美をあげるわ。実は今夜、うちの両親は不在なの。仲良しだから、泊りでデートをしてくるそうよ。私に彼氏が出来たと知って、色々と気を使ってくれたみたい』

『……それは、嬉しいけど』

『という事で、ここからは普通に痴漢するわね』

『ちょ、ま。だめ、やめて、そんな所、触らないで』

『裕太君がいけないのよ。いつだって、裕太君がいけないの。男の子の癖にそんなに可愛い裕太君が悪いの。私を誘惑する裕太君が悪いの。痴漢されても私を頼らなかった裕太君が悪いの。知らないおじさんに痴漢されているかもしれないのに、変な気を使って私に知らせなかった裕太君が悪いのよ。知らないおじさんに痴漢されているかもしれないのに、思わず気持ちよくなってしまった裕太君が悪いの。私は少し怒っているの。だってあんなの浮気だわ。私というものがありながら、私の目の前で、私に愛撫されながら浮気するなんて許せない』

『そ、そんなの、いいがかりだよ!? 自作自演のマッチポンプだよ!』

『そうね。その通りよ。でも嫉妬したわ。すごく嫉妬した。もし同じくらい痴漢の上手のおじさんがいたら、裕太君は同じように発情してしまうんだと思ったら、物凄くムカついてムラムラしたわ。気分はまるで寝取られよ』

『絶対違うし、そんなおじさんいたら怖いよ!? 佳子ちゃんだから気持ち良くなったの! 佳子ちゃんじゃなきゃあそこまで僕を気持ち良く出来ないよ! だからやめて! お願いだから前はやめて! お爺ちゃんに気づかれちゃう!? 途中下車しちゃうよぉ!?』

『学ばないのね裕太君。おバカさんなのね裕太君。そんな風にお願いされたら、逆効果だって言っているでしょ? それとも、誘っているのかしら。ねぇ、そうなんでしょう。嫌がっているのは口先だけで、本当は私にイジメられて恥ずかしい途中下車をしたいのでしょう。この変態! ドM! 女装男子!』

『ち、違うもん! 佳子ちゃんがやらせるからだもん! 佳子ちゃんの為にやってるだけだし! もう、怒ったからね! 後で絶対仕返ししてやる! 百倍にして返してやるんだから!』

『望む所よ。その為にやっているような物なのだから。裕太君は優しいから、こんな酷い事自分からは出来ないでしょう? だから先にやっているの。お手本を見せているのよ? だからねぇ。次は私よ。私にも、酷い事をしてちょうだい。これくらいは平気だから。遠慮しなくて大丈夫だから……』

『……頑張ります』


 変態カップルを乗せて電車は走る。


 奇跡的に、途中下車はしなくて済んだ。

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