ランフォーザセンス

琉生

ランフォーザセンス

 たった数秒の出来事。後から思い出せば、一瞬にも満たない記憶かもしれない。

 そんなものの為に途方も無いほどの熱を注ぐなんで、正直バカみたいだと思ってた。


「用意」


 静寂が訪れる。赤いユニフォームに包まれた身体が引き締まる。

 青いあいつは俺の一つ隣でクラウチングを取っている。

 インハイ予選男子100mは、景気の良い発砲音により幕を開ける。


 大地を蹴り上げ加速する。誰よりも早いスタート。風切音が強くなる。朱と白のレーンばかりの視界は、広がる世界と共に色づいていく。

 俺の前には誰もいない。今この瞬間は世界に自分しかいない、そう錯覚できる程に。

 けれどその幻想は、深い衝撃と共に崩れ去る。まるで高音で構成された優美な曲の中に、重い不協和音が捩じ込まれたかのような。淀んだ刹那の衝撃は、しかし美しい機能を伴って俺の一つ隣を走り去っていく。


 あいつだ。


 またあいつだ。


 俺の景色をあいつがいつも走り抜けていく。

 俺の前にはいつも、あいつがいる。




 全身の細胞が水分を求めている。風一つ吹かない蒸し暑さの中、急速に体へ注がれていく恵の水の前には、塩素と金属が混じった、訳のわからない水道の臭いなど存在していないかのようだ。


「とりあえず、全国だな」


 飛山葵とびやまあおい。同じ陸上部の一年で、目つきが悪くて性格も悪い。俺からすれば羨ましいとさえ思えるその高い身長から一度睨まれれば、関わっちゃいけないタイプの人間だと避けられる程だろう。加えて周りの奴なんて気にしていないような、暴君みたいなやつだ。

 ただ全国の頂点に最も近い人間は、俺の知る限り間違いなくこいつだった。

 鋭い視線でこちらをじっと見てくる飛山に気押されて、思わず背筋を正す。


はやて、スタート前と走ってる最中、お前俺の方見てただろ」


「だったらなんだよ」


「俺より遅い奴が、周りのこと気にしてる暇なんてあんのかよ」


「……うっせえな」


 口を開けばいつもこれだ。軽口のつもりでも、飛山は冗談を言わない。

 予選の結果は飛山が1着で、俺が2着だった。

 決して悪い結果ではない。でも、あの天才に辿り着くには余りにも差が大きすぎることを、俺が誰よりも理解していた。だから、返す言葉も無かったのだ。

 その代わりに、次はあいつが飲むであろう水道の栓を全力で閉めてやった。


「颯、俺は金を取る」


 飛山は、空の向こう側を見ている。


「俺の視界に誰も入れさせない。誰の影も見ないまま、俺は金を取る」


 まるで決意を刻み込むかのようだ。ただ飛山なら出来ると心のどこかで思っているだけに、俺の熱意も引っ張り上げられていく。

 だけど。


「お前は?」


 金を取れるのは、一人だけだ。


「俺だって負けない、負けたくない。絶対お前より、早くゴールしてみせる‼︎」


 今度こそ俺は、お前に勝つ。


「……颯、お前は俺に勝てねえよ」


「はっ、なんで⁉︎」


「自分の走りも出来ないような奴が、俺に勝てると本気で思ってんのかよ」




「あー、クソッ! 飛山の奴、好き勝手言いやがって」


 地面を飛山だと思って蹴ると、キックアップでも良いストレス発散になる。

 空はまだ暗い。まっすぐ伸びた土手道にただひとり。

 どこまでも広がる無限の星を瞬かせる夜空と、両手いっぱいの大地。

 この景色を見ると思い出す。

 中学の頃に出会った、あの理想の走りを。




 周りの友達が入るから、流れで陸上部に入った。

 走るのは好きだ。走っていると気持ちがいい。

 でも、たった数秒の出来事。後から思い出せば、一瞬にも満たない記憶かもしれない。そんなものの為に途方も無いほどの熱を注ぐなんで、正直バカみたいだと思ってた。


「用意」


 耳を裂くような発砲音に一瞬目を細めた。

 友達と見に来た中学最後の県大会。

 スタートと同時に気づいた。彼のその走りは、あまりにも美しすぎた。

 極限まで無駄を削ぎ落とした、只速く走る為だけの機能。洗練された一挙手一投足。

 その瞬間、俺はあいつの走りに夢中になった。

 『飛山葵』。その名と走りは、俺の脳内に明確に刻まれた。

 あいつと一緒に走りたい。あの煌めく美しい走りを俺もしたい。

 そうしたら。そうすれば。


「俺、高校でも陸上続け」


「あんな走り、できるわけないよなぁ」


「……え?」


「才能だろ、あれ。走るために生まれてきましたって身体してんじゃん。あんなのに勝てる訳ないって。颯もそう思うだろ?」


 そうだ。


 何思い上がってんだ俺は。


 あいつはきっと、俺の何百倍も悔しい思いをして、何千倍も努力して、あの走りになったんだ。


 そんなやつに、俺が勝てるわけない。


 それどころか、隣で走る資格すらない。


 走るのが好き? 走っていると気持ちがいい? 


 何言ってんだ。マジで。




 瑠璃色の空。地平線から茜が覗く。

 クラウチング。薄明はくめいのコンクリートはまるで氷だ。

 イメージするのは最速の走り。手の向き。腰の位置。ピッチの速さ。目線。少し窮屈に感じるけれど、あいつのフォームは全部頭に入っている。

 理想の走り。なのに、あいつの言葉がまだ頭の中にこべりついている。


「俺の、走り」


 でも俺の目指してきた理想は。

 俺の知っている最速の走りは。




 先生が何を言っているのかわからなかった。

 しかし飛山の席が空いていることが、現実を突き付けてくる。

 飛山が、ケガで入院した。




「飛山‼︎」


「よ」


 病室の扉を勢いよく引いたが、片手で返してきた飛山に拍子抜けした。


「顔ぐちゃぐちゃにして泣いてると思ったのに、何だよ」


「はあ?」


 見舞いついでに持ってきた、飛山の好物のバウムクーヘンを不機嫌に手渡すと、怪我人の泣き顔見に来るために見舞いにくる奴なんか聞いたことねえよと軽口を叩かれた。

 いつもと何も変わらない。その普段通りの飛山が、どうにも空元気にしか見えない。

 右足だった。

 病名とか何でケガしたとか、そんなことはどうでも良かった。


「いつ治るんだよ、それ」


「……知らね」


 言葉が出なかった。

 その答えだけは、飛山葵なら絶対しない。


「……知らねって、お前な」


 目が合わない。

 飛山は、今にも降り出しそうな空を見つめるばかりだった。

 どこか遠くへ行ってしまうのではないか、そんなふうに。

 息を吸うのすら、何故か苦しかった。


「インハイ、もうすぐだろ。やることやんなくていいのかよ」


「いや、それは。そうなんだけどさ」


「じゃあもう帰れ。間に合わなくなっても知らねえぞ」


「お前はどうすんだよ。早く治れば来れんのか?」


「……」


「おい飛山」


 飛山は黙ったままだ。


「なあ!」


「俺、走るのやめるわ」


「……は?」


 飛山は冗談を言わない。


「俺、もう走れねえんだってさ。だからやめる」


「何、勝手に決めてんだよ」


「あぁ? お前には関係ねぇだろ」


「……ざっけんなよ、お前‼︎」


 抑えられなかった。気づけば飛山の左肩の病院服を引き上げていた。


「おい!︎ 颯‼︎」


「走るのやめる⁉︎ そんな簡単に言っていいことじゃねぇだろ‼︎ お前が‼︎」


 その言葉に苛ついたように、飛山は下唇を噛んで。


「じゃあどうしろってんだよ‼︎ このままインハイ出ろってか⁉︎ できるわけねぇだろ‼︎」


 俺の胸ぐらを捻るように掴み、引き寄せながらそう叫ぶ。


「それでも、『やめる』なんて言うな! 取り消せ、今すぐ取り消せ‼︎」


「だから関係ねぇっつってんだろ! 俺より遅ぇくせに、他人のこと気にしてんじゃ」


「……ッ‼︎」


 違う。そんなことどうだっていい。

 言いたいのは。俺が言いたいのは。


「お前はもう‼︎ 走りたくねぇのかよ‼︎」


 飛山の腕を振り払って、両手で胸ぐらを掴み返し、言葉をぶつける。

 答えを待った。

 ただ一つの答えを。


「……走りたい。走りたい」


 しかし、待っていたはずの答えは、あまりにもか細くて。


「なのに、出来ない」


 掠れて上擦った声が、飛山を掴む腕を力無く落とした。


「動かすだけでも痛むんだ。この足のせいで、俺は……」


 自分の右足を捻り潰すように掴んでそう言った。


「もう、走れない。……もうお前と、走れない」


 そう言ってただ俺を見て首を横に振り、声を殺して肩を震わせた。

 何も言えなかった。こんな飛山は初めてだった。

 けれど、どこか似ていた。この絶望に似たものを、俺は知っている。


「俺本当はさ、中学で陸上止めようと思ってたんだ。たった数秒の為に、死ぬほど努力するなんて、正直バカみたいだと思ってた」


 飛山はゆっくりと、腫れた目で俺を見る。


「でも中学最後の大会で見たんだ。最速の走りを。そいつはきっと、誰よりも悔しい思いも努力もして、あの走りに辿り着いた。だけど俺が本当にすげえって思ったのは、美しいだとか、速いだとか、そんなことじゃなくて」


 その時の飛山の顔を鮮明に覚えている。


 大会だ。

 誰だって真剣だ。

 誰だって緊張だ。

 それなのに、あいつだけが。


「笑ってたんだ、走ってる時に。なんて楽しそうに走る奴なんだろうって、そう思った。俺もあんなふうに走ってみたいって、あいつと一緒に走りたいって」


 あぁ、そっか。


 今やっとわかった。


 何で俺が飛山に勝ちたかったのか。


 何で俺が飛山のフォームを真似しているのか。


 何で俺が、陸上を続けたのか。


「憧れたんだ、お前に。お前が俺の、走る理由になったんだ」


 ずっと、追いつけないと思っていた。

 ずっと、お前の背中を見て走るんだと思っていた。


 だけど。


「今度は俺の番だ。インターハイ、俺が全国金を取る。俺の走りでお前が、また走りたいって思えるように。だから見てろ。俺の走り」


 その時の飛山の顔は、少し潤んだ視界のせいでよく見えなかった。




 川沿いの、あのまっすぐな土手道。


 いつか見た理想が、俺の隣を走っている。


 それが嬉しいような気がして、鼻腔を抜けた空気と共に少し笑みがこぼれた。けれど、何故か涙が止まらなかった。


 その時思った。


 俺、何で走るのが好きになったんだっけ。


 何であいつに、憧れたんだっけ。


 金色の光芒が灰色の空を切り裂いて、何十層にも重なる束になっていく。それがいつもよりとても綺麗に見えて、とても懐かしい気がした。


 あぁ。思い出した。


 いつの間にか前が塞がれるようになって、景色が背中で見えなくなって、忘れていた。


 でも、あいつが笑いながら走る姿を見た時、あの走りならまた味わえると思った。前には誰もいないあの澄んだ景色と、今この世界には俺だけしかいない優越感が混じった、気持ちのいいあの感覚を。


 走ることに、溺れたかったんだ。


 いつの間にか、隣を走っていたはずの飛山は消えていて、この世界にいるのは俺だけだった。


 速く走るためじゃない。誰かに勝つためじゃない。


 そうだ。俺は、この感覚に溺れるために走りたかったんだ。


 これが、俺の走りだ。




 今の時間帯なら人が少ないと聞いてやってきたのは、大きな運動公園だった。

 冬空に似合う、青と白のレーンだった。


「颯」


 飛山葵は、そこにいた。


「わり、遅れた」


「病み上がりの人間待たせる奴がどこにいんだよ」


「仕方ないだろ遠かったんだから」


 溜め息を吐きながら、飛山が上着を脱いだ。


 すでに青いランニングウェアを着込んでいる。


「やるだろ?」


「あぁ」


 上着を脱ぎ捨てて、アップに入る。


 飛山が身体を動かす姿を見て、胸の辺りが少し温まった気がした。


「身体、鈍ってんじゃないの? 飛山くん」


 それは、誤魔化しから出た軽口だったかもしれない。


「はぁ? 舐めんな3位」


「うっせ」


 位置に着く。


 今までのどの大会、どの走りよりも、今日は胸が躍っている。


「颯」


 飛山が、前だけを見て俺を呼ぶ。

 飛山の方を見たわけじゃないけれど、きっとそうだと思った。


「来年。全国金、取るぞ」


「……ッ‼︎ おう‼︎」


 それが合図であるかのように、俺たちは走り出した。



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