未亡人、鞍馬栞

 私の夫は神戸市の外れで大衆居酒屋を経営していた。神戸という地名を聞くと大抵の人は小洒落たまちを想像するが、私たちがいたのはそれほどいいところじゃない。アスファルトには何かの液体が染み込み、吸い殻が散乱するような小汚いところだった。香港の薄暗い路地裏の方がまだましだ。私たちはそのまちの雑居ビルの一階に狭い店を構えていた。どこにでもあるような居酒屋で、ありきたりのお好み焼きやたこ焼きを売り、行列のできるような名物なんて何もないような店だった。それでも、私たちは慎ましく、少ない売り上げと小さな幸せを抱いて暮らしていた。不自由や不満を感じたことはなかった。

 自分の店を持つことは夫の夢だった。貯金を切り崩し、借金をして開いた店がどんなに狭く汚い場所にあったとしても、夫には誇りだった。夢とはそういうものだ。他人には測れない自分だけの物差しがある。それは私にとっても同じだった。夫の夢は私の夢でもあり、誇りだった。だから、私たちは毎日幸せで充実した夫婦生活を送ることができた。

 夫は温厚で堅実、平均的な身長で痩せ型、風呂にもメガネをして入るような男で、暴力や悪事の対極にいるような男だった。スコッチとパイプ煙草を愛し、ギャンブルはしない本物の男だった。店を出すときの借金こそあったものの、返せないほど大きなものではなく、繁盛とは言い難い大衆居酒屋だけでも十分に返せるような額だった。だから、夫が誰かから恨みを買うなど考えたこともなかった。

 ある日、夫は死んだ。

 なんの前触れもなく。変わったところはなく、普段通りの日常だった。近所のスーパーに買い物に出かけ、その帰りに死んだ。事故だったそうだ。踏切を抜けきれなかった夫の車は走ってきた電車にはねられた。即死だったそうだ。どこにでも転がっているような悲惨な事故だった。

 私の世界は崩れた。

 ヒトは夢を失うと生きていく世界を見失うの。私の夢は夫で、夫と二人で開く店だった。私は改めて気がついた。私は夫を愛していた。最愛の人を亡くした気持ちが想像できる? 私はがらんどうで、なにもかもがどうでもよくなった。

 夫が事故死を疑うようになったのはしばらく経ってからだった。これまたよくあるようなことよ。夫の車は細工されていた。誰かが意図的に、夫の車が踏切内で動かないようにした。

 私は胸に火が灯るのを感じた。それまでがらんどうだった心に再び何かが入り込んだ気がした。それがどんなことでもよかった。善悪なんてものもどうでもよかった。私は私の夢を取り戻すことを誓った。

 死んだ人間はなにをどうやったって戻らない。復讐なんて虚しいだけだ。

 くだらない。そんなたわ言は平和の丘に立っている愚か者の台詞だ。大切なヒトの死を体験したことがない無関係の傍観者が物知り顔で語る、無責任で薄情な戯れ言だ。殺したいほどの復讐心は、心に宿って初めてわかる。他人の言葉で抑えられるようなものじゃない。

 私は生きる意味を見つけた。

 夫を死に追いやった人間を見つけ出し、私の手で殺す。

 あんたに辿り着くまでに随分と遠い道のりだった。オレンジのジョー。いや、ジョウ・ハジメ。あんた、殺した人間のことを覚えてる? 覚えてるわけがないか。覚えているなら、クラマの名を聞いて平気でいられるはずもないものね。平気どころか、あんた、私を口説くつもりだったでしょう? 私とのロマンスを夢見ていた。

 ––––私は地面に唾を吐く。

 殺した男の妻に欲情するクソ野郎。私がどうやってあんたにたどり着いたのか、教えてやるつもりはない。あんたは、名前も顔も忘れた男の妻によって殺される。墓の下で悔い続けろ。

 銃声が鳴った。舞い上がった雪は星屑のように月夜に消えた。

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