許しを請うなかれ

 ハンドルを握ったのはいつ以来だろうか。ジョーは火のついていない煙草をくわえながら車を走らせた。軍人から借りた時代遅れのマニュアル車だった。

 このまちに来て随分経つが、軍人が車に乗っている姿を見たことは一度もなかった。彼は一体、何者なのだろうか。答えを尋ねるように助手席のハスキー・ボイスを見た。

 彼女はダッシュボードに長い足を乗せ、噛み煙草を噛んでいた。軍人の車のことなどこれっぽっちも気にしていないようで、目の前に広がる雪景色を睨んでいた。

 「君も猟師の経験があるのか?」ジョーは言った。

 「いいえ」彼女は短く答えた。「これは夫の銃」

 「君の旦那は猟師だったのか」

 「あるときは」ハスキー・ボイスは年期の入ったライフルを抱え、カッターハットをかぶり直した。その姿に映画の中のジョン・ウェインが重なった。「ヒトは誰でも猟師になるときがある」

 ジョーはその問いには答えず、くわえていた煙草に火をつけた。

 ハスキー・ボイスは助手席の窓を開け、飛んで行く風景に唾を吐いた。


 ジョーは渓谷に差し掛かると車を止めた。「ここからは徒歩で行こう。このまま進めば、獣に出会う前に斜面に車ごと食われちまう」

 彼女は小さく頷くと素早く車を降りた。いつも以上に言葉数が少なかった。

 渓谷は薄気味悪かった。今までも、そしてこれからもそれが変わることはないのだろう。ジョーは両手が小刻みに震えるのを抑えられなかった。怯えているのか? いや、違う。これは寒さのせいだ。ジョーは自分の心に嘘をつく。

 隣を歩く女を見た。ライフルを握る手には力が入り、普段よりも緊張した表情だった。が、怯えているようには見えなかった。彼女の目に浮かんでいるのは覚悟だった。きっと彼女は何が出てきても引き金をひくだろう。例え、それがオオカミであっても。

 「クマを撃ったことはあるか?」ジョーは言った。白い息も震えているような気がした。

 「クマどころか鹿も兎も撃ったことはない」ハスキー・ボイスは唾を吐いた。「そんなことより、道はこっちであっているの?」

 「そのはずだ」

 「どうしてわかるの? ヒトが通ったような足跡は見えないけど」

 「俺にはわかる。マヤが山に行くとしたら、きっとこの道を進む」

 「そんなに親しい間柄なんだ」

 「さあ、どうだかな」ジョーはあの夜を思い出そうとした。女の肌の温もりを。

 「今朝、彼女に会った」

 「彼女? マヤのことか?」

 「朝早くにスーパーで女の人に声をかけられた。彼女はマヤと名乗った。このまちに何人のマヤがいるのか知らないけど、もしかしたら、私たちが探しているマヤと同一人物なのかもしれない」

 「彼女と何を話したんだ?」

 「たわいもないことを」

 「例えば?」

 「気になるの?」ハスキー・ボイスは小さく笑った。「あなたのことを少し」

 「俺のこと?」

 「彼女、マヤはいつかの夜の私たちを見ていたんだって。二人で歩き、あなたの家の前で抱き合う私たちを」

 「それで?」

 「あばずれ」ハスキー・ボイスは唾を吐いた。「尻軽女と罵られた。ジョーは私の男だって。だから私も言ってやった。ジョーがあんたになびかないのは、私のせいじゃなくてあんたに魅力がないから。それに、私はあんな情けない男に興味はないって。おっと、失礼、悪気はないの」

 「いいんだ」

 「その後も、あの女は泣きそうな顔で私を罵った。私は笑い飛ばしてやったけど、唾を吐きながらこう言ったの。見苦しい女の嫉妬はクマにでも食われちまいな、って」

 ジョーは黙って木々の間を通り抜けた。遠くで動物の声が聞こえる。

 「マヤが山に行ったのは私のせいなのかもしれない」

 「それは違う」ジョーは言った。木の枝に積もった雪の塊が落ちてくる。「俺のせいだ」

 「どうして? 愛する女の前で私を抱きしめたから?」

 「違う。俺はマヤを愛してなどいない」ジョーは煙草をくわえた。

 冷たい唇に、あの夜重なったマヤの唇を思い出す。否、あの温もりはもうどこにもない。消えてしまった温もりを思い出すことはできなかった。

 ハスキー・ボイスは唾を吐いた。「それ、やめた方がいいんじゃない?」彼女はジョーの煙草を指差した。「人間と煙草の臭い。動物が警戒するんじゃない?」

 「そうだな」ジョーは煙草をパックに戻した。

 「無駄話もここまでね。狩人は黙って忍び寄る」ハスキー・ボイスは噛み煙草を吐き捨てた。

 風が木々の間を通り抜けた。雪が花びらのように舞い散る。


 雪山は闇に包まれた。狩人の時間だ。夜空には月と星のカーテンが敷かれ、木々の間から明かりが降り注いでいた。懐中電灯がなくても視界は良好だったが、静寂の中、時折物音が聞こえ、ジョーは何度も腰にぶら下げた懐中電灯に手をかけた。

 進む道に確証はなかった。広い自然の中、なんの手がかりもなく一人の女を探すことなど本当にできるのだろうか? 目指す場所に、本当にマヤはいるのだろうか。

 ジョーが目指しているのは、山の反対側だった。まちからは見えない場所で、まちの酔いどれたちは、その場所を月の裏側と呼んでいた。

 「どうしてこっちだとわかるの?」ハスキー・ボイスは言った。「マヤがいる確証があるの?」

 「俺たちが出会った場所だからだ」ジョーは息を切らしながらやっと声を出した。「雪解けの季節だった。俺とマヤは〈月の裏側〉で初めて出会ったんだ」

 「あら、随分とロマンチックね」

 「そんないいもんじゃないさ。〈月の裏側〉っていうのは……」

 「知ってる。酔っ払いどもがつけた呼び名でしょう」ハスキー・ボイスは唾を吐いた。「なるほど。愛する男との始まりの場所へ行ったってわけね」

 ジョーは、はあはあと必要以上の息を吐き言葉を飲み込んだ。息が上がっているのはいい訳だった。

 「終わりの場所がないだけ、彼女はましね」

 それから、二人は再び無言で歩き続けた。木々の間からは月の光がさし、星が煌めく神秘的な自然が続いていた。雪は降らなかったが、深林を吹き抜ける風は寒さを運ぶことを忘れなかった。

 深林の先に雪野原が見えた。ジョーとマヤが出会った場所が近づいている。その場所が近づくにつれ、ジョーは疑念が深まっていた。

 本当にマヤはそこにいるのか? 

 自分が言い出したことではあるが、なんの根拠もない、勘がジョーを動かしたにすぎない。雪山を歩き思考を整理するうちにその第六感は的外れなのではないかという思いが強くなっていた。

 きっと、その思いが表情に表れていたのだろう。ハスキー・ボイスは心配そうな瞳を向けていた。

 「少し休息が必要かしら?」ハスキー・ボイスは大木に寄りかかった。

 「そうだな」ジョーはやっとの思いでそう言った。言葉の後、地べたに座り込んだ。冷たい雪がズボンの上から尻を冷やす。服の下でじんわり湿る汗が凍っていくような感覚が押し寄せてくる。

 ジョーは煙草をくわえた。「吸わせてくれ」

 ハスキー・ボイスは噛み煙草を吐き出した。「私にも一本もらえる?」

 紫煙が星空へ昇っていく。

 ジョーは目を閉じて女の姿を思い浮かべた。行方不明になった女の姿を。だが、瞼の裏に現れた女には顔がなかった。のっぺらぼうの女はジョーを見ていた。目は見えなかったが、ジョーにはそれがわかった。彼女が何を思っているのかはわからない。

 「なあ」ジョーは目を閉じたまま煙を吐いた。「ハスキー・ボイス、まだ名前を聞いていなかったな」

 「ハスキー・ボイス。私はそれで構わないけど」女はざらざらした声で言った。

 「俺の名前はジョウ」

 「知っている」

 「いや、オレンジのジョーじゃない。それはどっかの酔っ払いが勝手に呼び始めたあだ名だ。俺の名前はハジメ・ジョウ」

 ハスキー・ボイスは煙草を投げ捨てた。「クラマ。私を名前で呼びたいのならどうぞお好きに」

 「クラマ」ジョーは聞いたばかりの言葉を口にした。ずっと前から知っていたような気がした。「フルネームを教えてくれないか?」

 クラマは唇に人差し指を当て、大木の根にしゃがんだ。「静かにして。何か聞こえる」

 ジョーは煙草を雪に埋め、言葉とともに息を止めた。

 風が木々を撫でる。自然と無数の生き物の気配がする。だが、目立った音は聞こえなかった。

 クラマはライフルを構えていた。「見て」クラマはしゃがんだまま特殊部隊のように動き、枯れた樹木の幹をさした。

 ジョーはクラマの後を這うように進み、樹木に目をやった。暗がりだが、幹に傷があるのがわかった。

 「クマはここにいた」クラマは静かに言った。

 「クマ?」ジョーは樹木の傷跡に触れてみた。クマのつけた傷というよりはヘラジカがツノで削ったような跡に思えた。

 「あれ」クラマは樹木の先を指差した。「何か落ちてる」

 「どこだ?」ここからでは何も見えなかった。

 「あれよ。何かある。先に見て来てくれない?」クラマの声は心なしか震えていた。

 ジョーは懐中電灯をつけ、クラマの指の先へと歩いた。樹木の間は雪が深く、歩くのに苦労した。

 雪の中に黒い輪が見えた。輪の端で何かが光る。

 ジョーは黒い輪を手に取った。光の正体はキューブだった。キューブがついた髪留めのゴムだ。

 「なんだった?」後ろからクラマの声が聞こえた。

 「髪留めのゴムだ。マヤのものかもしれない」

 「あなたの勘は正しかったようね。音が聞こえたのはその先よ。追いつけるといいけど」

 「ああ、そうだな。先へ進もう」ジョーは深林の先をライトで照らし、雪の中へ踏み出した。

 何かがおかしい。

 ジョーは深い雪を踏みながら深くなる疑念と戦った。疑念はもやもやとしていて、何がおかしいのかはわからなかった。でも、確実に何かがおかしかった。

 振り返ってクラマを見た。彼女は雪に足をとられ、雪に埋まった。

 「大丈夫か?」ジョーはクラマへ駆け寄ろうとした。

 が、足を止め、振り返って、深林の先を見た。綺麗な雪景色が続いていた。足跡一つなく真っ白だった。

 「クラマ。君はどうしてあそこから髪留めが見えたんだ?」ジョーは美しい雪景色を見ながら言った。

 クラマの声はなかった。代わりに聞こえたのは銃声だった。

 澄んだ空気の中に、乾いた銃声が響く。銃声は二発続いた。

 雪景色が反転した。

 ジョーは空の上に立っていて、頭上には雪の斜面があった。次に激痛が走った。腹の中心から全身へと駆け巡る言葉にならないほどの激痛だ。実際に叫び声をあげていたのか、内なる声が叫んでいたのか、どちらが現実なのかは判断できなかった。

 痛みの中心に触れると、手は赤黒く染まった。未成熟のワインを樽ごと割ったような色で現実味がなかった。でも、それは現実だった。ジョーは撃たれたのだ。

 もう一度銃声が鳴った。

 ジョーは右膝を撃たれたのだと理解した。粗悪な薬物を過剰摂取したかのように、頭はぼんやりとして、叫び声はどこか遠くの方から聞こえていた。

 涙で霞んだ景色の先に女が見えた。女は掠れた声で言葉を吐いた。刺すように、撃つように投げつけられる言葉は他人事のように乾いて聞こえた。

 「ずっと願っていた。この瞬間を待っていた」クラマは叫んだ。自分の声ではないように透き通った声に聞こえた。「私の名前はシオリ・クラマ。この名前に聞き覚えはあるか?」

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