傷ついた自尊心に追われ
〈エルク〉のカウンターでビールを飲み始めた頃には、日が暮れ始めていた。十代の若者のような虚無の時間が過ぎ去ってしまった。睡眠だけで終わることほど無駄な時間はない。
誰かが隣の席に座った気配がした。ジョーには振り向かなくてもその相手が誰なのかがわかった。あるいは、淡い願望だったのかもしれない。
「ヒトと喋るのは得意じゃないの」咳払いした後、ハスキー・ボイスはざらざらとした声で言った。詫びのつもりなのだろう。
「俺もだ」
二人は並んで煙草を吸った。言葉はなかった。
「煙草」沈黙の後に女は言った。「やめたって言ってなかった?」
「やめていた。また吸い始めたんだ」
「へえ。身体に悪いのに」
ジョーは笑った。「君が言うなよ」
「でも、偽物よりはよっぽどマシ」
「偽物?」
「最新機械の棒をくわえて人工的な煙を吐く。偽りの喫煙。それなら、木の枝でもくわえていればいい」半分は冗談で半分は本気だというようなざらざらとした声だった。愛煙家の声だ。「それで? どういう心境の変化が?」
「さあ。自分でもわからないんだ」
再び沈黙。
身体は正面を向き、眼球だけを動かして相手を見た。彼女も同じ動きをしていた。まるで両想いの男女のような控えめな目配せ。居心地の悪かった沈黙はそれほど悪いものではなくなっていた。
ジョーは欠伸を咬み殺すように、口元が緩むのを必死で抑えた。
「夫を亡くしたの」女は言った。「戦争で殺された」
「戦争っていうのは、どの戦争を指すんだろう?」
ハスキー・ボイスは何か言ったが、咳が交じってうまく聞き取ることができなかった。ジョーは聞き返すべきなのか判断できず、結局黙ったまま短くなった煙草を吸った。
「嘘」
「嘘? どっちが?」
「夫は戦争には行っていない。オオカミに殺されたの」
「オオカミに? 本当なのか?」
「多分」
「随分と曖昧なんだな」
ハスキー・ボイスは左手の薬指を眺めていた。奥歯を噛み締める表情は憎悪と悲壮が感じられた。「答えを見つけるためにこのまちに来た」
「このまちにオオカミはいない。絶滅したんだ。森にも皆が恐る渓谷にも。オオカミはもういないんだ」
「絶滅したってどうしてわかるの?」
「どうしてって……」
「いないことを説明できるの?」彼女の瞳は蒼い炎で燃えていた。燃える瞳からは、今にも雫が溢れそうだ。
ジョーは煙草を消した。黙っていることしかできなかった。新しい煙草を手にとると、ハスキー・ボイスは彼の手を掴んだ。
「ねえ、少し歩かない?」ハスキーボイスが酷く色っぽく聞こえた。
ジョーは口元を緩め、立ち上がった。断る理由が見つからなかった。
外は雪が降っていた。風はなく、しとしとと降る雪は幻想的だった。寒さはあるが、澄んだ空気が心地よかった。
ジョーとハスキー・ボイスは腕を組んで歩いた。ボブ・ディランのアルバムのジャケットのようにロマンのある光景だとジョーは感じていた。会話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。会話があったのかさえ覚えていない。ジョーにはこの瞬間、この空間があるだけで満足するほど輝いていたのだ。
二人の足は自然とジョーの自宅へ向かっていた。小屋の前に着くと、ハスキー・ボイスはジョーの腕から離れた。
「悪いけど、今はまだ入れない」彼女は言った。「理由は聞かないで。今はまだ……入れないの」
「ああ」ジョーは言った。残念だとは思ったが、不思議と清々しい思いもあった。これを恋と呼ぶのかもしれない。「送って行こうか?」
「いいえ、ここで大丈夫」そう言って女はジョーの首に手を回した。
ジョーは彼女を抱き寄せた。雪の下で、二人はしばらくの間、抱き合っていた。もう少しでキスできる距離にいたが、二人は抱き合うだけで、互いにどんな顔をしていたのか見ることはなかった。
不意に、ジョーの視線に女が飛び込んできた。ハスキー・ボイスの髪の端、物陰に佇む寂しげな女の姿。マヤだということは考えなくてもわかった。
ジョーはハスキー・ボイスに顔を押し付けるように、強く抱きしめた。今は彼女だけを見ていたかった。
ハスキー・ボイスが去った後も、雪は降り続けた。ジョーは煙草を吸いながら、彼女が帰っていった道を眺めていた。
女の姿は亡霊のように消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます