罪なき者は石を投げる
クラマは立て続けに三本の紙巻き煙草を吸った。無性に腹立たしい。眼に映る全てを蹴り飛ばしたい気分だった。雪のないどんよりとした曇り空も苛だたしい。コートが意味をなさないほどに冷気を送り込んでくる。精神が濁っている。その理由は明白だ。元凶を断つことはそれほど難しくはないだろう。すぐに実行することもできる。それでいて、あえて距離を置いた。それが最善に思えた。
「そないな仏頂面しとると美人が台無しやで」ジャーキーは大きな声で笑いながら、路地裏に佇むクラマの側に寄った。「えらい寒いのお」そう言って煙草に火をつける。
老犬がジャーキーの足元に寝そべった。
「さっきまで雪が降っていたからね」クラマはコートからスコッチのスキットルを取り出して、ジャーキーに向けた。「飲む?」
ジャーキーはそれを受け取ると、多すぎる一口を喉に通した。「寒い日はこれやな。心の底がぬくうなる。スコッチは心のストーブや」
クラマは肩をすくめてそれに応えた。
「寒い中、こないなとこでボケーッとなにしてんのや?」
「空を見ながら煙草を吸っているだけよ」
「飲み屋でもええやろ?」
「酔っ払いの顔を見たくない日だってあるでしょう?」
「その代わりがしょんべん臭い路地裏か? けったいやな。空を眺めんのやったら、もっとええとこあるやろ」
「隙間から見える空が綺麗なときもある。ねえ、これ以上の議論は不毛よ」
「そうみたいやな」ジャーキーは煙草を路地に放った。排水の水たまりで、灯火が消える。「なんや、今日はやけに無愛想やな」
「愛想よくした記憶はないけど」
「はっ!」老人は一際大きな息を吐いた。「ちいとわしに付き合えへんか?」
クラマは眉を顰めた。
「今日も演奏はなしや。どうせ暇やろ? ちいとばかし老人に付きおうてもバチは当たれへんで」
「狩りの誘いならこのまま去って。殺してしまいそうだわ」
「阿呆。そんなん誘うかいな」老人が路地に背を向けると、老犬は立ち上がった。
思えば、老いたロットワイラーの首には、首輪もリードもない。二人の間にはそんな縛りは必要ないのだ。
クラマは唾を吐いた。
遠くなっていく二つの老いぼれの背を少しだけ羨ましいと感じながら、彼女はゆっくりと後に続いた。
「一体どこに連れていくつもり?」時代遅れのオンボロに乗りながら、クラマは言った。前と同じように助手席に座り、膝の上には老犬がいる。
「失われた楽園や」ジャーキーは陽気に笑った。「きっと気に入るで」
「そうだといいけど」クラマは噛み煙草を口に含んだ。
雪景色が流れていく。腹立たしいほどの曇り空がどこまでも続いていく。雪は降らない。降り積もり、世界を白く染めた雪がいろんなもので汚れていく。濁った景色が飛んでいく。
まちからは随分と離れた場所だった。山も森も谷も、全てを越えた先にあった。かつて遊園地であったであろう施設がそのまま朽ちて行き、時の流れによって姿を変えていった場所だ。長い年月を経て朽ち果てた人工物は、自然の一部になっていた。
動かなくなったコーヒーカップの側に、ジャーキーは車を止めた。エンジンは切ったが、鍵もかけずに廃墟の奥に歩いていく。老いたロットワイラーは軽快に飛び降り、尻尾を振って老人の後を走る。
老いた二人は振り返らない。
クラマだけが取り残されてしまった。
頭部のもげたメリーゴーラウンド。タイヤをなくしたゴーカート。全てのものに何かが足りない。地球に降った隕石という厄災の影響だ。
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