世捨て人
ジョーは〈バレンタイン〉を出るとすぐに〈エルク〉へ向かった。ハスキーボイスの女を追ったわけではない。酒が必要だった。喧騒の中で孤独に浸り、どうでもいいテレビ画面を眺めて酒を飲む必要があった。
どれだけ酒を流し込んでも心の平穏はやってはこなかった。迫って来るのは過去の景色で、己の行動が作り出して来た映像だった。目を閉じても、その景色は瞼の裏側に焼き付いて剥がれない。きっと夢の中でも剥がれることはないのだろう。ジョーにはその予感があった。悪夢に襲われる予感が。
まちは暗くなり、雪が降り始めた。
ジョーはキャップの男を探した。レースを見ながら、彼と語り合いたい気分だった。けれども、彼の姿はどこにもなく戦闘機レースも放送されていなかった。
代わりに声をかけてきたのは軍人だった。
ジョーは黙っていたが、彼は構わず隣の席に腰をおろした。きっとかつての戦争の話でもしていたのだろう。軍人は息を吐くように何かを口走っていた。が、その言葉の一つもジョーの耳には届いていなかった。
「ここだけの話なんだがな」軍人は言った。いつになく落ち着いた声をしていた。
ジョーはゆっくりと彼の顔を見た。神妙な面持ちはまるで軍服を着ているかのようだった。
「退役軍人ってのは嘘なんだ」
ジョーは言葉の続きを待った。
「俺は戦争には行っていない。足が悪いのは生まれつきでな、ずっとからかわれて生きてきた。俺は神を恨んだよ。どうして俺なんだ。どうして俺はまともに歩けない。俺じゃなくて別の誰かでよかっただろう、ってな。今でもたまに思うことはある。前ほど神を恨んじゃいないがね」軍人は空咳をしてから煙草を吸った。「大人になってこのまちにきてな、変えてやろうと思ったんだ。この足は名誉の負傷なんだって。戦争を乗り越えたからこの平穏な世界がある。悲劇の先に平和を築いたのはお偉いさんじゃない。俺たちだ。俺みたいな泥まみれのしみったれがいたから、いまの世界がある。そう思って欲しかったんだ。こんな俺でも誰かに必要とされたかった。誰かの憧れになりたかった。わかるか?」
「わかるかよ」
軍人は笑った。泣いているのか笑っているのかわからないような声だった。「俺はただの世捨て人だ。クソにまみれた人生だった。それでも、俺はまだ生きている。これからも生きていくんだ」軍人は立ち上がった。
ジョーはカウンターの椅子を回して、軍人の方を向いた。彼の背がいつもより高く感じた。
「俺の話をまともに聞いてくれたのはあんただけだよ、ジョー」
「……煙草、一本くれないか?」
軍人は優しい表情で煙草のパックを取り出し、ジョーが一本くわえると火をつけた。ジョーは風もないのに手のひらで火を囲った。
紫煙が天井に昇っていく。
「禁煙するんだ。全部やるよ」
ラビットフット。昔、ジョーが吸っていたのと同じ銘柄の煙草だった。
「ありがとな」
「礼を言うのはこっちの方さ」ジョーは去っていく軍人の背中に言った。
久しぶりの煙草は雑草を燃やしたような味がした。
粉雪の帰り道を歩いていくと、家の前で女が座っているのが見えた。粉雪の中で震える女はコートの上からポンチョを羽織っていた。
ハスキー・ボイス。
ジョーは危うく声を出しそうになった。
しかし、彼女はあの噛み煙草の女ではなく、シチューを持って来る女だった。
「グラタンを作ったの。冷めちゃったかもしれないけれど」とマヤは言った。月明かりに照らされた彼女は赤鼻のトナカイのようだった。
「こんな雪の中、俺を待っている必要はない」俺にそんな価値はない。
「ごめんなさい」マヤはポーチにグラタンの皿を置き、ふらふらと歩き出した。
「コーヒーでも飲むか?」
マヤは足を止めて、振り返った。「いいの?」
「コーヒーはなかったかもしれないが、紅茶ならあったはずだ」ジョーは玄関の戸を開けた。「雪がやむまであったまっていけよ」
マヤは少女のように軽快な足取りで小屋の中に入った。どんな顔をしていたのかは、見なくても見当がついた。
ジョーは後ろ手にドアを閉めると、後ろから彼女を抱きしめた。彼女の腰に手を回し、抱き寄せてキスをした。彼女は抵抗することはなく、全てを委ねてきた。
二人は小さなシングルベッドに潜り込み、夜が明けるまで眠らなかった。雪は朝になっても降り続いていた。
目覚めるとマヤの姿はなかった。狭い空間に女の匂いが残り香のように漂っていた。ジョー身体を起こし、もう一度倒れた。ベッドの隣側には女の温もりが残っていた。朝も昼もとうに過ぎ去っていた。
起き上がって煙草を吸った。無意識の動作で、つい先日まで禁煙していたとは思えないほど習慣的な動きだった。
テーブルの上には、玄関に置き去りにしたグラタンがラップに包まれていた。その隣にはメモが置かれていた。ジョーは目を細めてその小さな字を読んだ。
「仕事に行ってきます。六時には帰るので、晩ご飯に食べたいものがあれば作ります。いつでも私のうちに来てください。マヤ」
ジョーは吸い殻と一緒にメモを捨てた。部屋の中は燃やした雑草の臭いにまみれた。
日没後の〈エルク〉のテレビでは、戦闘機レースが流れていた。ということは。
カウンターの片隅に、彼はいた。名前も知らぬ、ブルーリボンズの帽子の男が。
「やあ」ジョーは彼の隣に腰をおろした。
彼はルーヴィルのグラスを掲げてそれに応えた。
「君の贔屓の選手をまだ聞いていなかったね」ジョーは彼と同じ宇宙一の黒ビールをオーダーした。
「ミヅキ・ロマノフ」彼は選手紹介が映し出された画面を指差した。
「女じゃないか」
彼は僅かに眉を顰めた。「アステロイド・スピードウェイのレースは五十五回大会から男女混合になったんだ」
「そうか。すまない。恥ずべき無知だな」
「大げさだよ」彼は笑った。
その無重力の笑みが、ジョーはどうしようもなく心地よかった。オオカミを抱きしめているような安らぎを感じていた。
「彼女はね、機体をほとんど傷つけることがないんだ」彼は少年のように饒舌に語り出す。「隕石の間を飛んでいるわけだから、傷が付くのは当たり前なんだ。猛スピードで駆け抜ける選手や隕石を弾きながら飛行する選手はいる。ダイナミックなのが主流なんだ。そんな中、ミヅキは軽やかで優しいんだ。繊細なタッチで自分も隕石も傷つけずに飛ぶ。こんな選手は他にはいない。まさに無重量の走りだよ。自由にのびのびと飛ぶ彼女が、僕は好きなんだ」
「俺もこれからは彼女を応援するよ」
そんな気なんてないくせに。
誰かの声がした。キャップの彼ではない。しかし、他には誰もいない。酒場の酔いどれたちは随分と離れた場所にいる。
おまえに自由なんてない。
烏滸がましい。
憧れを抱いて何になる? そんな権利などないだろう?
おまえは他人と精神の関わりを持つべきではない。
「大丈夫?」
彼の声でジョーの精神は現実に引き戻された。
「ああ。すまない。時々、オオカミの声が聞こえるんだ」ジョーは目頭を押さえ、煙草を燻らせた。
「それってどういう意味?」
「自分でもよくわからないんだ」
「猟師という職業を恥じているのかい?」
ジョーは目を見開いた。「俺が猟師だと?」
彼は小さく笑った。「酒場にいるとね。嫌でもいろんな話が耳に入ってくる。オレンジのジョー。あんたのことなら知っているよ」
「そうか」ジョーはテレビ画面に向き直った。
マシンは隕石の手前に並んでいた。これから始まる熾烈なレースを前に、武者震いしているようなエンジン音が星の彼方から聞こえてくるような気がした。
「猟師は立派な職業だよ。恥じることなんて何もない。誇り高い仕事だ」彼は連なるマシンを見ていた。「人間っていうのはね、自尊心の塊なんだ。自尊心があるから自分を保っていられる。それはつまり生き方だ。自分の生き方に誇りを持てるかどうか。生き方が自己肯定にも自己否定にも繋がる。そして、生き方を決めるのは仕事だ。どんな仕事をして、どんなふうに生きるか。つまりね、どんな仕事をして、その仕事に誇りを持てるかどうかが、自尊心に繋がるってわけ。アステロイドベルトのレーサーたちを見てみなよ。みんな自信に満ち溢れている。レーサーの誇りを持っている。
オレンジのジョー。あんた、誇りはあるかい?」
「そんなもん、随分前に失くしちまったよ」
「オオカミの声が聞こえるのは、そのせいなんじゃないかい?」
そうかもしれない。でも、それだけじゃない。
ジョーは声を出せずにいた。
キャップの彼はカウンターに身を乗り出した。
マシンが流れる。流れ星よりもずっと速く。どこか遠い場所で、精神の誇りを懸ける者たちがいる。
「実は、俺は猟師じゃないんだ」ジョーは独り言のような声を出した。
「知っているさ」彼は言った。「このまちの人々が猟師に対して厳しい目を向けていることは知っている。でも、そのこととあんたの精神が傷ついていることは関係がない。あんたが抱えている罪の意識について、僕は知っているつもりだよ」
「どうしてだ? どうして君にわかる?」
「僕はあんただからだよ、オレンジのジョー」
「意味がわからない」
「あんたは、猟師なんかじゃない」
「だからそう言ったじゃないか」
彼は首を振った。「いいや、あんたは本当の意味で理解していない。だから、いつまでも精神の牢獄にいるんだ。牢獄を出るには、理解して受け入れなくてはいけない。脱獄を望んでいるなら無駄なことだ。そんなことは絶対にできない。あんたは未来永劫、牢獄に縛られ続ける」
ジョーは彼の言葉の意味を咀嚼した。
しばらくしてジョーは言う。「君は牢獄を出たのか?」
彼はそれには答えなかった。
遠い星のレースは流れるように進んでいく。眩しすぎる光を放ちながら。ジョーは手を伸ばしたが、そこには永久にたどり着けない。
「地球を出ようと思うんだ」レースが終盤に差し掛かった頃、キャップの彼が言った。
ジョーは黙ってレースの決着を見守っていた。
一着でゴールしたのはアマガサキという名の選手だった。ミヅキ・ロマノフの結果はわからない。
キャップの彼は残ったビールを飲み干すと立ち上がった。
「宇宙の果てで会おう。僕らの存在が、まだ許されるとするならば」
ジョーは黙ったまま、背中で彼を見送った。
二人が交わることは、もう二度とない。
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