ジョーカーマン

 ジョーは太陽が照りつける荒野を走っていた。雨はもう何週間も降っていないようで、大地はひび割れていた。

 ジョーの跨る青虎毛のミズーリ・フォックス・トロッターは器用にサボテンの間を抜けて行く。

 チョコレート色のギャンブラーハットの下が汗で湿っていた。真冬とは思えないほどの気温で、汗をかくのも無理はなかった。そして、彼はその理由を疑問には思わなかった。それが夢というものだ。

 やがて、ジョーはまちへとやって来た。近代的な高層ビルが立ち並ぶ大都会だ。最新型の自動車が列をなし、空には鳥のようにマシンが飛んでいる。彼はその中を馬に乗って進んだ。

 誰かが暴言を吐いた。他の誰かが下品な笑い声をあげ、また別の誰かが下劣な冗談を言った。

 ジョーは腰のリヴォルヴァーを抜く。撃鉄を起こし、シリンダーの回る音がする。銃弾は込められた。あとは指をほんの少し動かすだけだ。命を奪うにはそれだけでいい。だが、弾は飛ばない。

 次の瞬間、彼は森の中にいた。見覚えのあるような、一度も訪れたことがないような霧の深い森だった。馬の姿はどこにもなく、腰のガンベルトと拳銃も消えていた。

 どこからか獣の声が聞こえ、霧の中から獣が姿を現した。立派なツノを生やしたヘラジカだった。懐かしさと切なさを与える顔だった。昔どこかであったことがあるのかもしれない。

 ジョーは記憶を遡る。が、生まれてこの方、野生のヘラジカを見たことは一度もないことを思い出す。これが初めての出会いであるはずだった。

 ヘラジカは威嚇するようにジョーに忍び寄った。ジョーは仁王立したまま動かない。

 ヘラジカはジョーの前に倒れこんだ。随分前から死んでいたように。

 ジョーはヘラジカの死骸に触れた。額の真ん中に古い銃痕があった。片方の目玉も撃ち抜かれているようだ。ジョーは涙を流した。まるで、自分の行いを悔いるかのように。

 やがて、ジョーは目を覚ます。酒で重くなった頭を支えながら、コーヒーを沸かし、新しい一日が始まる。夢の内容は目覚めたらすぐに消えてしまうだろう。彼は毎晩同じような夢を見ていたが、内容はいつも朧げで、夢を見たという感覚だけが後に残っていた。

 本当は忘れたいのだ。

 ヘラジカ、ウサギ、イタチ、クマ、ヘビ、ワシ、タヌキ、イノシシ、キジ、そして、オオカミ。それは毎晩、姿を変えてやってくる。消えていった命がもう一度消えて行く。死の追体験。ジョーは毎晩悪夢にうなされ、目覚めると小便の後に必ず吐いた。胃液しか出せなくなるとやっとコーヒーを飲めるようになる。新しい今日が始められるようになる。

 彼は眠るのが怖くて仕方なかった。


 その日も、ジョーは一匹の獲物も仕留められずにいた。

 正午前から夕方まで、時間にして約六時間、彼は深林を徘徊した。鳴き声や足音が聞こえると、それらしくライフルを構えてはみたが、彼の指が引き金に触れることはなかった。

 また鳴き声が聞こえた。ジョーはライフルを構えた。すぐに、鳴き声の正体が自分の腹の虫だということに気がついた。思えば、朝食の一切れのパンとオレンジ一個を食べた後、昼食は何かの豆の缶詰めだけだった。今日に限った話ではない。毎日、同じような食生活の繰り返しだった。

 ジョーは水筒のコーヒーを飲み、ライフルを担いでまちへと歩いた。

 また、あの危険な渓谷で撃てもしないライフルを構える。恐怖に震えながら、毎晩、あの渓谷を歩く。そして、いつもの酒場でいつものようにしみったれた酒を飲む。


 その晩、ジョーは自宅の小さな小屋の前で女と会った。

 彼女はマヤといって、数年前に夫に先立たれた未亡人だった。彼女はジョーの住む小屋の近所に住んでいて、毎日顔を合わせ慎ましい挨拶を交わす程度の間柄だった。独り身の女がどうやって生活費を稼いでいるのかジョーは知らなかったが、知りたいとも思わなかった。彼女は近所に住むただの未亡人。それだけだった。

 「おかえりなさい」とマヤは言った。酒に酔っていると聞き漏らしそうなほどか細い、遠慮がちな声だった。暗がりで、表情はよく見えなかった。

 「ただいま」ジョーは彼女の影に向かって言った。

 「成果はありましたか?」

 「成果?」ジョーはそう言った後で、狩りのことを言っているのだと理解した。「ああ。いや、この通り何もない」

 「そうですか」マヤは悲しそうな声で言った。「でも、誰も何も殺さないのはいいことだと思います」

 ジョーは控えめに笑った。

 「あのう」マヤはジョーに一歩近付いた。あたたかな匂いがジョーの鼻を撫でた。彼女は手に何かを抱えていた。匂いを嗅がずとも、目で見なくとも、ジョーにはそれが何なのかわかっていた。「シチュー、作りすぎちゃって。食べてくれませんか?」

 「シチューなら、長く保存しておけるんじゃないか? 急いで俺が食べなくとも。ゆっくり時間をかけて食べれば毎日の料理の手間も省けると思うが」

 「そうかもしれませんね」マヤの瞳が暗闇で星屑のように光った。「でも、料理の手間を省く必要がないので」

 ジョーは気づかれないようにため息をついた。「すまない。失礼なことを言って。シチューいただいても?」ジョーは容器を受け取った。手袋の上からシチューの温もりが伝わってくる。その一瞬だけは、あの鉄の感覚を忘れることができた。

 ジョーは礼を言い、小屋の中へ入った。マヤはその姿を何か言いたそうな目で眺めていた。


 ジョーは一度も使わなかったライフルを丁寧に磨きながら、マヤのことを思った。

 彼女が食事を持ってくるのは初めてではなかった。週に二、三度ほど夕食を手にジョーの小屋を訪れた。いつも同じような時間で、同じように暗がりから現れた。まるでジョーの帰宅時間がわかっているというように。

 最初は子供の頃のバレンタインデーのように浮かれていた。異性から好意をもたれるのい悪い気はしない。深い理由がなくとも、それだけで意味もなくわくわくと浮遊感があるものだ。が、どれだけの日数を重ねても、ただ食事を持ってくるだけでこれといった男女の関係に発展することはなかった。彼女は惚れた男にチョコレートを作る女というよりは、決まった時間に囚人のための料理を運んでくる看守のようだった。

 どれだけ思考を巡らせてどれだけ精神の迷宮を彷徨っていても、彼の手は効率よく的確に動く。

 ライフルを分解し、磨き、組み立てる。熟練された手つきだ。ジョーにとっては包丁を手に台所へ立つよりも日常的な動作だった。

 流し台の上のシチューがジョーを見ていた。いや、正確に言えば、シチューの具材に見られているような気分だった。

 ジョーは諦めてシチューをスプーンですくった。少し冷めていたが、身体が内側から温まるのを感じた。牛肉は噛みごたえがあり、それでいて柔らかくとろけるようだ。じゃがいもや人参との相性もよく、控えめに言っても「すげえうまい」シチューだ。

 いつもそうだ。マヤが持ってくる料理はどれも家庭的で美味しかった。それでも、ジョーが彼女の料理を食べたがらないのにはいくつか理由があった。いや、本当は理由などなく、無理やりにでも言い訳を考え、人の善意を受け取りたくないだけだったのかもしれない。

 ジョーはシチューの皿を洗い、玄関の外に出しておいた。明日、ジョーが外出する頃にはその皿はなくなっているだろう。

 シャワーを浴び、浴びるように酒を飲みながら眠りにつく。やがて、悪夢が襲ってきて朝になる。そしてまた、新しい日がやってくる。

 もううんざりだ。ジョーは牛革のダスターコートを羽織り、ギャンブラーハットをかぶって外に出た。何もかもうんざりだ。


 〈エルクの耳〉に戻ったのは日付が変わる少し前だった。酒場はいつも通りの賑わいで、天井のテレビでは戦闘機レースが流れていた。

 ジョーは壁際のテーブル席に座り、ルーヴィル・ビールとナッツを注文した。それから食事のメニュー表を開いた。

 〈エルク〉で食事のメニューを見たのは初めてだった。いつも酒とつまみしか頼まないから。羊肉のブラウンラグー、小エビのフリッター、シマアジのカルパッチョ、大葉のマルゲリータ……。どうやら、思っていた以上に小洒落た料理を出す店のようだ。

 ジョーはそっとメニューを閉じ、ナッツを二つ口に放った。食事をする気力は残されていなかった。

 「こんな時間にここで会うなんて、珍しいな」

 ジョーは顔を上げて、声の主を見た。メガネの太った男だった。名前は……忘れてしまった。そもそも知っていたのかどうかも怪しい。"エリマキ・デブ"ジョーが心の中で呼んでいる彼の名前はそれだった。彼の見た目が『ジュラシックパーク』でエリマキトカゲのような恐竜に食い殺されたデブに似ているからだ。

 "エリマキ"は待ち合わせに遅れてきた友人のようにジョーの向かいに座った。手に持ったビールのボトルは醤油瓶のように小さく感じられた。

 「夜食か? 食い過ぎは良くないぜ」エリマキは指紋で汚れたメガネを押し上げた。気の利いたジョークのつもりだったのか、メガネの下には得意げな笑顔が見えた。「向こうでカードでもやらないか?」彼の指差したテーブルには三人の男たちが座っていた。映画の中から出てきた時代遅れのカウボーイのようだった。

 「俺はいいよ」ジョーは言った。「今夜はツイてないんだ」

 「ツキってのは待ってたって来ないもんだぜ」

 ジョーは肩をすくめた。

 「そうかい。邪魔したな、ジョー」

 「代わりにわしが入ろうか?」そう言ったのは"軍人"と呼ばれる初老の男だった。いつも安物のウォッカをラッパ飲みしているせいか、両手が痺れているように震えたぎこちない動きで、片足をひきずって歩いていた。

 「イカサマはごめんだぜ」エリマキは下顎の肉を更にたるませた。

 「わしがいつイカサマをした?」軍人はジョーの隣に腰を下ろした。

 「いつもだよ。あんたが入ると勝負にならん」エリマキは飲み干したビール瓶を置き去りに、カウボーイたちの元へ帰っていった。

 「まったく、酷い奴だ。年寄りを労わるってことを知らん」軍人は震える手でウォッカを飲んだ。いかにも不味そうに。「わしの若い頃は違った。あの戦場ではな……」

 また始まった、とジョーはため息をついた。彼は口を開けば戦争の話をした。ありそうな話もありえないような話もあり、同じ話を何度でも口にした。彼の言う戦争がいつの時代の何を指しているのかはこのまちの誰にもわからない。誰も酔いどれの老人の言葉に耳を傾けることはないのだ。

 酒場の者たちは面白可笑しく、嘲笑を込めてこの老人を"退役軍人"と呼んでいた。

 「オレンジ、オレンジ! 聞いてるのか?」

 ジョーは曖昧に頷きながら、オレンジが自分のことを指しているのだと気がついた。小汚い老人にオレンジと呼ばれる筋合いはないが、面倒だったので黙って、軍人の言葉を待った。

 「まったく、年寄りの話は聞いておくもんだぞ。ほれ、あいつらを見てみろ」軍人はビリヤード台の若い男女を顎で指した。「あの小僧、トベのせがれだ。自分じゃ何もできないが、親が金持ちだから大概のことはどうにかなる。不公平な世の中だ。生まれた時から人生ってのは決まってるんだ」

 「そんなもんだろうか」ジョーはくすんだ茶髪の男女を見た。「彼らも彼らなりに悩みを抱えているのかもしれない」

 「そんなもん、取るに足らない悩みだ。金持ちの悩みなんてのは悩みのうちに入らない。悩みってのは貧乏人のことをいうんだ」

 ジョーは肩をすくめて、都会に行きそびれた若者たちを眺めた。田舎に取り残されたガキ大将たちは幸せそうな顔をしていたが、どこか哀愁漂う背中をしていた。きっと、彼らも彼らなりの青春の葛藤の中にいるのだ。ヒトの心の中など誰にわかる? 他人が他人の心を議論するなど野暮なことはしたくはない。

 ジョーは軍人の話に適当に相槌を打ちながら、ポケットに手を入れた。煙草の箱を探しながら禁煙したことを思い出した。でも、どうして禁煙しようと思ったのかは、思い出せなかった。

 しばらくすると軍人はウォッカのボトルを手に席を立った。小便をしに外へ出て(軍人はトイレへは行かず、路地裏の茂みに小便をする習性があった)帰ってくるとカウンター席に座った。

 カウンターには白髪の老人が座っていた。白髪の老人はまちの外れに住んでいて、時より犬を連れて酒場へやってくる。ジョーは何度か言葉を交わしたことがあった。孤独で変わり者の老人、というのが彼の印象だった。軍人は同士を見つけたような顔で彼に話をしていた。概ね、ジョーにしたのと同じ話を。

 「ちゃうねん」白髪の老人は言った。ちゃうねん。便利な接続詞だ。「"羨ましい"っていうのは救いがある。"憧れ"に近付こうとする感情やからな。誰もが一度は思うことや。でもな、"狡い"ってのはちゃうねん。それは"妬み"や。ヒトの成功を憎むようになんねん。人間、他人を妬むようになったらしまいや」

 軍人は何か口にした。が、すぐに白髪の老人に打ち消されてしまった。

 「まあ、わしは他人を羨ましいと思うことも、狡いと思うこともやめたんやけどな。そんなもん意味ないねん」

 彼らはその後も少しばかり会話を交わし、やがて軍人は悔しそうに足を引きずって席を離れた。

 ジョーはビールのお代わりを頼み、テレビの向こうのレースを眺めた。なんの感情も湧き上がってはこなかった。

 ふと横を見ると、またあの男がいた。ブルーリボンズのベースボールキャップをかぶったあの男が。

 彼はルーヴィルの黒ビールを飲みながら、食い入るように戦闘機レースを観戦していた。

 「贔屓の選手でもいるのか?」ジョーは思わず声をかけた。そしてすぐに後悔した。見ず知らずの他人とどういう顔をして話せばいいのか。

 「まあね」男はテレビ画面を向いたまま答えた。若者特有の混じり気のない声だった。彼の年齢は、当初の予想よりも更に若いのかもしれない。少し前まで少年だったのではないだろうか。

 「ここでは誰もレースなんて見ない。だから、珍しかったんだ。邪魔をしてすまない」

 「邪魔ではないよ」彼は帽子の下で薄っすらと笑みを浮かべた。無重力のような笑みだった。「地球生まれ?」

 「ああ、旧南米の南国で生まれた」

 「僕はね、星の向こうで生まれたんだ。はっきりとは覚えていないけど、きっと火星だったんだと思う。ニューカラント州都サン・トゥアンヌの写真を見るとね、どこか懐かさしさを覚えるんだ」彼はサン・トゥアンヌ・ブルーリボンズのロゴマークに触れた。「おかしいよね。記憶なんてないのに。ブルーリボンズが勝ってもそれほど嬉しくないし、負けても特別悔しくはない。サン・トゥアンヌの郷土料理がなんなのかも知らないし、地区の名前もピンとこない。僕は故郷について何も知らないんだ。愛郷心なんてものを抱いたことはない。それでも、魂はあそこに帰りたがっている」

 「一度行ってみたらどうだ? 惑星間旅客機の航空券はそんなに高価なものじゃないだろう? レンタルマシンだってある。火星なんてあっという間だ」

 「怖いんだ」

 「怖い?」

 「僕は飛行機が怖いんだ。旅客機も戦闘機も空を飛ぶものが怖いんだ」彼は黒ビールを一口飲み、ラビットフットの煙草をくわえた。紫煙が重力に逆らう。

 「飛行機事故は、自動車の事故に比べると格段に少ない。珍しいから大々的に報じられ、記憶に残りやすい。それで、飛行機事故の恐ろしいイメージがこべりついてしまう。昔からそうだ。確かに、百年前に比べ事故そのものは減ったがゼロじゃない。でも、飛行機事故に遭う確率は宝くじの当選よりも低いよ」

 「事故に遭うかどうかは問題じゃないんだ。僕が怖いのはそこじゃないよ」

 ジョーは続きを待った。

 「昔は空までだった。大気圏を抜けるのは、限られた宇宙船と限られた人間だけ。でも、いまは誰でも宇宙へ出られる。どこまでも、どこまでも昇っていける。無限の領域。僕はそれが怖い。無限の中をどこまで進めばいい?」

 「なんだか哲学的だな」

 「そうかもしれない」彼は自嘲気味に笑った。「精神の問題なんだ。火星までの旅が安全なことはわかっている。旅客機に乗れば、操縦するのは僕じゃない。僕はただ座っていればいい。星を数えて目を瞑って。そうすれば目的地に到達する。そのための金を払うだけでいい。頭ではわかってる。でも、精神はそれを拒んでいる。恐怖という信号を出して」

 ジョーは返す言葉がみつからずにいた。

 テレビの画面では、アステロイドベルトと呼ばれる隕石群が映っていた。その間を何機ものマシンが飛び抜ける。

 「人間は宇宙へ出るべきじゃなかった」彼は言った。

 ジョーはまだ沈黙の中にいた。

 「隕石の雨で滅びるべきだった。僕はそう思う。それと同時に、宇宙への憧れも抱いている」彼は短くなった煙草の先をテレビ画面に向けた。「あんなにも自由だ。あらゆる縛りから解き放たれている。自由を望む思いと、人間は自由なんて手に入れるべきじゃないという思いが同居している。これっておかしいかな?」

 「いいや」ジョーは言葉を絞り出した。「わかる気がする」

 彼は無重力の笑みを浮かべた。

 それ以上、会話はなかった。二人の男は黙して、流れ星のようなマシンを眺めていた。

 レースが終わったことも、キャップの男が席を立ったこともジョーは気付かなかった。


 「ハスキー・ボイス!」

 酒場中に響き渡るような声が聞こえた。

 眠りかけていたジョーは身体が痙攣するように飛び上がった。目を擦り、声のした方に目をやった。あの白髪の老人が発した言葉だった。

 「そんなに大きな声を出さなくても聞こえているよ」ハスキー・ボイスと呼ばれた女が言った。

 初めて見る女だった。彼女はグリーンのシャツの上からメキシカンポンチョを羽織り、男物のカッター・ハットを被っていた。腰にガンベルトが巻かれていたとしても、違和感がないような女だった。

 白髪の老人は陽気な鬼のように笑った。「演奏はまだなんか?」

 「演奏?」ハスキー・ボイスは老人の煙草を取り、火をつけた。

 「バンドや言うてなかったか? もう五日くらいおんのに楽器やってんの見たことないで」

 「バンドとは言ってない」

 「ほんならなんや」

 「野暮なこと聞かないでよ」

 老人はまた、声をあげて笑った。まるで老人と孫のようだ。実際、そうなのかもしれない。孤独な老人の元に孫娘がやってきた。そういうことがあってもおかしくはない。

 ジョーは空想と現実の狭間から二人の会話を眺めていた。


 不自然に身体が揺れた。地震か? ジョーが初めに思ったのはそれだった。が、すぐに夢から覚めたのだとわかった。いつの間にか酒場の壁にもたれかかるように眠り込んでいたようだ。

 ジョーの目の前には女がいた。スクリーンから飛び出してきたような女を前にジョーは言葉を失った。

 「起きた?」彼女は言った。

 「ハスキー・ボイス」ジョーは思考よりも先に言葉を漏らしていた。

 「前に会ったことが? オレンジのジョー」ハスキー・ボイスは口をもぐもぐさせながら言った。

 「俺を知っているのか?」

 「ジャーキーから聞いた」

 「ジャーキー?」

 彼女は宙に絵を書くようにジャーキーの見た目を指で描いた。「白髪でロットワイラーを連れた大きな声のおじいちゃん。好物はビーフジャーキーで、まちの外れに住んでる」

 「ああ。わかりやすい説明だ」

 「あなた、何してるヒト?」

 ジョーは言葉に詰まった。撃てない猟師。その一言が出てこなかった。

 ハスキー・ボイスは唾を吐いた。「もう朝の五時すぎで飲み屋は閉店。雪の中に放り出すわけにもいかないから起こしたの。つまり、この辺に住んでるのかって聞いてるの。運転できそうな状態には見えないから」

 「ああ、すまない」ジョーは安堵のため息を漏らし、無意識に煙草の箱を探した。「近くの小屋に住んでるんだ。歩いて帰れるよ」

 「噛み煙草ならあるけど」

 「禁煙したんだ。もう何年も前に。いまだに煙草を吸おうとするのは癖みたいなものなんだ」ジョーは人差し指で頬をかいた。

 「そう」ハスキー・ボイスは唾を吐いた。

 バーテンダーの咳払いが聞こえた。床に唾を吐くなという意味なのか早く帰れという意味なのか判断できなかった。

 「帰るよ」ジョーは立ち上がった。

 「送っていこうか?」女はしゃがれた声で言った。ごく自然に。

 男と女の立場が逆転したようでジョーは静かに苦笑した。「大丈夫だ。一人で帰れる。俺の方こそ送らなくていいのか?」

 「必要ない。私はここに泊まっているから」

 「そうか」彼女は流れ者なのか。

 「そう」ハスキー・ボイスはそう言ってまた唾を吐いた。「帰り道での睡魔にご注意を」

 「気をつけるよ」

 ジョーは帰路についた。朝日に照らされた雪道がいつも以上にまぶしく映った。


 それから二日間、ジョーはいつもと変わらない日常を過ごした。だが、心は少しだけ若返ったように生き生きとしていた。その理由は考えるまでもない。恋をしているのだ。あのかすれた声の女に。噛み煙草を噛んで唾を吐く男前の女に。何十年も味わったことのないような感情だ。恋という単語だけですら、十代の若者のようで恥ずかしさを覚えるほどだ。どうしてだ? 彼女の何がそれほどまでに気に入ったというのか。どれだけ考えても答えは見つからなかった。ジョーは何もわからず、ただ、ハスキー・ボイスに恋をしていた。

 二晩ともジョーは〈エルク〉へ足を運び、朝日が昇るまで酒を飲んだ。酒場で朝を迎えればまた彼女に会えるような気がしていたから。

 しかし、現実はそううまくはいかず、彼女が現れることはなかった。もしかしたら、彼女はもうこのまちにはいないのかもしれない。雪以外には何もないところだ。多くの旅人がそうなように、彼女もまたどこかへ流れてしまったのかもしれない。

 三日目の夕方、ジョーは二日酔いの重たい頭を抱えながらまちのスーパーマーケットに食料の買い出しに出かけた。食料といっても大半は野菜や果物の缶詰だったが。

 そんな時、再会は訪れた。菓子売り場の端で、ハスキー・ボイスは牛乳瓶を片手に立っっていた。

 あ、と思考よりも行動よりも先にジョーは言葉を漏らしていた。

 ハスキー・ボイスは気だるそうな表情でジョーに向いた。

 「やあ」ジョーは裏返った声で挨拶するのがやっとだった。

 「動物でも飼っているの?」彼女は言った。噛み煙草は口に入れていないようだ。

 「いいや?」

 「それ」ハスキー・ボイスはジョーの買い物カゴを指差した。「とても人間の食料とは思えないから」

 ジョーは静かに苦笑した。苦笑するのが精一杯だった。

 「食事は大事だよ。人間は食ったもんで出来ている」彼女は表情を変えずに言った。

 「ああ、その通りだと思うよ。俺の身体は缶詰で出来ていて、君の身体は牛乳で出来ている。好物なのか?」

 「まあね。食事と酒は〈エルク〉で済ませられるし、喉が乾けば水道の蛇口をひねるだけ。だから買うのは牛乳だけ」

 「コーヒーは飲まないのか?」

 「飲むときは飲むし、飲まないときは飲まない」彼女はぶっきらぼうに言った。

 「うまいコーヒーを出す店がある。興味あるか?」ジョーは喉の奥が熱くなったように感じ、空咳をした。

 「酒はある?」

 「え?」

 「スコッチを少し垂らすのが好きなの」

 「そいつは気が合うな」ジョーの心臓は透けてみえるほど高揚していた。


 〈バレンタイン〉は昼食を食べ損ねた人たちで賑わっていた。都会では閑散という表現がふさわしいだろが、過疎化が進むこのまちでは賑わっていると表現しても差し支えないだろう。

 ジョーとハスキー・ボイスは一番奥のテーブル席に座り、壁を向くと額縁に入ったクリント・イーストウッドと目があった。二人はそろぞれチェリーパイとスコッチを垂らしたコーヒーを頼んでいた。

 「気に入ったか?」ジョーは言った。

 「悪くないね」

 二人は黙したままチェリーパイをつつき、コーヒーをすすった。居心地の悪い静寂だった。

 「このまちに来てどれくらい経つ?」沈黙に耐えかねてジョーは口を開いた。

 「一週間くらいかな」彼女はマグカップの表面を見つめたまま答えた。

 「そんなに長く? 何をしにこのまちへ?」

 彼女は小さく肩をすくめた。

 路地裏のような沈黙。

 店の有線からは微かにブルース・スプリングスティーンの歌声が聞こえていた。

 ジョーは咳払いした。「退屈なまちだろう?」

 「なんだか取り調べでも受けているみたい」そう言ったハスキー・ボイスは少し笑っているように見えた。「このまちは気に入っている。のっぺらぼうなまちだけど、何かがありすぎるまちよりはずっといい」

 「都会が嫌いなのか?」

 「嫌いになるほど都会を知らない。都会にも田舎にもいいところと悪いところがある。隣の芝生は青く見えるもの。だから田舎者は都会にでたがるし、都会人は田舎暮らしに憧れる。ただそれだけのこと。本当はどっちも大した違いはない」

 ジョーは黙って言葉の意味を咀嚼していた。無性に煙草が吸いたい気分だった。

 「あ」彼女は何か言いかけ、チェリーパイを口に入れ飲み込んだ。「あなたは? このまちが長いの?」

 「それほどじゃない。はっきりとは覚えていない。このまちにいる前は別のまちにいて、その前はまた別のまちにいた。流れ者だったんだ」

 「随分と格好いい生き方ね」

 「そんなにいいものじゃないさ」

 煙草を吸っているような間があった。実際には煙は流れていなかったが。ここは禁煙席だ。

 「ずっと猟師なの?」ハスキー・ボイスは言った。

 ジョーは少し間を置いてから言った。「どうして俺が猟師だと?」

 「酒場にいればまちのことは大体わかるものよ」

 ジョーはぎこちなく笑った。

 「動物を殺すのってどんな気分?」

 言葉が出なかった。ジョーはマグカップの水面を見つめた。黒い液体の中に吸い込まれて行くような気がした。

 「別に非難しているわけじゃない。純粋な疑問。生きて行くために仕方のないことだとはわかっている。それでも、動物を殺すことには変わりない。どういう気持ちで引き金をひくの?」

 ジョーの脳裏は、過去の映像を映し出していた。躊躇わずに引き金をひけた頃の、血に染まった景色が見える。

 ジョーは目を閉じてコーヒーをすすった。景色は消えることはなかった。

 「ジョー?」

 「ああ、すまない」ジョーは目を擦った。「思い出そうとしたんだがな。うまく思い出せない。無、だ。心を無にしていたんだ。何の感情も持たないように」

 ハスキー・ボイスはコーヒーをすすってそれに応えた。

 咳払いしてジョーは訊いた。「地球を出たことは?」

 ハスキー・ボイスは首を振った。

 「出てみたいと思ったことは?」

 「さあ」

 「火星はいいところだ。こんなしみったれたまちよりずっといい」そう言ってジョーは自嘲気味に笑った。「隣の芝は青く見えるせいかな。宇宙にはロマンチックが散りばめられている気がする」

 彼女はそれには答えなかった。黙ってコーヒーをすすっていた。その中のアルコールだけを摂取するかのように。

 路地裏のような沈黙。

 「私とヤリたい?」ハスキー・ボイスは表情を変えずに言った。

 ジョーはコーヒーを吹き出しそうになった。

 「子供じゃないんだよ。素直に言えば? 私と、よそ者の女と一夜限りの愛を育みたいって」

 「違う!」ジョーの言葉は思っていた以上に怒鳴り声となって響いた。

 カウンターで新聞を読んでいた太った男が振り返った。

 「違う」ジョーは声を落としてもう一度言った。そういうんじゃない。

 「じゃあ何? 美味しくも不味くもないパイを食べながらお洒落なデート? 放課後の高校生みたいに? 多くは語らず寡黙な男を演じて、哲学的な言葉で女を口説くの? ねえ、ずっと疑問だったんだ。若者を卒業した男がどうやって女と付き合うのか。文字通り、付き合ってって言うの? 肉体関係もなしに、そんな青臭いことするの? 好きなんだ、結婚を前提にお付き合いしよう。私にそう言うつもりだった?」

 ジョーは言葉に詰まり、奥歯を噛み締めた。どうなんだ? 一体、何を期待していたんだ? この胸の痛みはなんだ? 

 ハスキー・ボイスはコーヒーを飲み干し、噛み煙草を口に含んだ。

 「運命」ジョーはそう呟いたが、続きの言葉は出てこなかった。運命ってやつは若者だけに来るわけじゃない。何歳になったってヒトを好きになったっていいじゃないか。

 「女がみんな、ロマンチックだと思ったら大間違いよ」ハスキー・ボイスは空のマグカップに唾を吐いた。

 ジョーは静かに拳を握りしめた。女を殴りたいわけじゃない。殴りたいのは間抜けな自分自身だ。

 「私には旦那がいる。そのためにこのクソみたいに寒いまちに来た」ハスキー・ボイスは吐き捨てるようにそう言って店を出て行った。

 ジョーは拳を解いてマグカップを握り、額縁のイーストウッドを眺めた。無性に煙草が吸いたい気分だった。

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