北風のエルク

 彼女は象牙色のノコタ・ホースに乗っていた。雪解けの野原で星に手が届きそうな空の下を走っている。

 彼女の隣をジャーキーが並走している。彼が乗っているのはアパルーサだろうか。斑点模様の奥でロットワイラーが走っている。暖炉の前で寝そべっていた時より、随分と若返ったように見える。

 「彼の名前はなんて言うの?」彼女はかすれた声でロットワイラーの名を尋ねた。

 ジャーキーが彼の名を叫んだ。

 いい名前ね。ジャーキーの声はよく聞こえなかったが、彼女はそう答えた。

 しばらく馬を走らせると、彼女たちはまちに着いた。

 味気なく、のっぺらぼうなまちだった。彼女はそのまちがとても気に入った。

 彼女は馬から降りる時、鞍にライフルがしまってあることに気がついた。使い古されたジェンキンス・ライフル。時代遅れのライフルだ。

 彼女は地面に唾を吐き、ライフルを担ぐ。額の汗を拭い、カッターハットを被りなおす。

 ジャーキーのアパルーサがいなないた。

 目を凝らすと、彼の腰にガンベルトが巻かれていることに気がついた。ホルスターに収まっているのは、ピース・メイカー。彼女はその銃を映画の中でしか見たことがなかった。

 ボレロハットの下で、ジャーキーの目が不敵に笑った。

 彼の手にはリヴォルヴァーが握られ、口元には煙草がくわえられていた。

 老人は撃鉄を起こす。

 オオカミの遠吠えが聞こえてきた。


 目を覚ますと、クラマは全身に汗をかいていた。毛布を払いのけ、サイドテーブルにあったタオルで裸体を拭った。どれくらい眠っていたのだろう。寝室に窓はなく、外の景色は見えなかったが、朝になっていることは感覚でわかった。

 壁の向こうから薄っすらとカントリー・ミュージックが聞こえていた。

 クラマは脱ぎ捨てていた下着を身につけ、服を着た。夢を見るほど眠ったのは久しぶりで、肉体はいつになく絶好調だった。そして、空腹を感じた。

 リビングにジャーキーの姿はなかった。ロットワイラーの姿も。テーブルの上にはスコッチの空き瓶とコーヒーポットが置かれていた。

 クラマは戸棚のマグカップを取り、コーヒーを注いだ。クリスマスの朝のような匂いがした。

 キッチンに置いてあったパンを一切れ齧った。口の中の水分が一瞬でもっていかれるほどパサパサした無味無臭のパンだった。空腹だった彼女は、味のしないパンを一心不乱に頬張り、胃袋の中に押し込んだ。

 「おいおい、正気か? そのパンを焼かずにジャムもハチミツもつけずに食うやつは初めてやで」戸口に現れたジャーキーは、おはようよりも先にそう言った。

 ロットワイラーは尻尾を降りながら声も出さずにクラマを見ていた。彼女は咀嚼しながら肩をすくめてそれに答えた。

 「不味いやろ」そう言うジャーキーの手には野うさぎがぶら下がっていた。クラマの視線に気づいた老人は、肩の雪を落としながら言った。「残酷やと思うか? うさぎは可愛いからな。でもな、それは都会の話やねん。この辺りじゃ、野うさぎも作物を荒らす害獣に認定されとる。駆除の対象やねん。わしは駆除したうさぎを自分で食うけど、猟師の中には都会の料理屋に売る奴もおる。そこへ来た洒落た都会人がスープやソテーを食べんのや。可愛いうさぎの肉をうまいうまい言うて食べんのや。そうやって人間は生きとんのや」

 クラマは味のしないパンを飲み込んだ。「害獣って言葉も駆除って言葉も嫌いだ」それを言うなら言葉自体が嫌いだった。床に唾を吐きつけたい気分だ。

 ジャーキーは笑いながらボレロハットを壁にかけ、流しの上にうさぎを置いた。「こいつを捌いたら出かけんで。それまでくつろいどって」

 クラマはラビットフット・クラシックの缶から煙草を一本抜きとり、外へ出て吸った。

 陽の光が白い地面に跳ね返り、彼女の瞳を刺した。春には程遠い北風が吹いていた。


 クラマは古いワンボックスカーの助手席に乗り込んだ。どうやらそこはロットワイラーの定位置だったらしく、彼はクラマの膝の上に何事もないように乗り込んで来た。彼女が首をかいてやると、ロットワイラーは気持ち良さそうに目を細め、ハアハアと舌を出した。

 ジャーキーがエンジンをかけるとボブ・ディランの歌声が流れてきた。

 「今時マニュアル車に乗っている人がいるなんてね」クラマは噛み煙草を口に含んだ。

 「今も昔もあれへん。これこそがロマンや。車がただの移動手段でどないする?」ほんまは馬車に乗りたいんや。クラマにはジャーキーの言葉の続きが聞こえた気がした。

 車が動き出すとすぐに、膝の上の老犬は気持ち良さそうに眠ってしまった。夢でも見ているような安らかな寝顔だった。

 クラマは彼の名を尋ねようとしたが、思いとどまった。彼の名を聞けば自分も名乗らなくてはいけない気がしたから。

 「晩はようけ眠れたか?」

 クラマは頷き、窓を開けて唾を吐いた。

 「そら何よりや。ほんなら寝んでええな。わしに付きおうてくれ。なんせまちまでは一時間もかかんねや。喋り相手がおらんと退屈で死にそうや」

 これだから他人と旅をするのは苦手だ。煩わしくて足手纏いだ。クラマは帽子を被りなおした。

 「それ、男もんやろ。そらあ似合っとんで。クールビューティって言うんかな。せやけど、流石に大きすぎひんか?」

 「夫が出て行く時、唯一残して行ったものなの。ぶかぶかで小汚い帽子だけど、私には大事なもの。だから、風で飛ばされないように首にかける紐まで縫い付けた」クラマは窓の外に唾を吐いた。北風がハットのツバを揺らした。「売れない小説家だった夫は、夢の中を生きているようなヒトだった。ロマンに生涯を捧げるような馬鹿な男。彼を感じられるものなんてこれくらいしか残ってないの」そう、それともう一つ。

 ジャーキーは笑った。「わしの家内とよお似とる」

 「あのまちへ行くのは夫に会うためなの。夫はきっとあのまちにいる」

 ジャーキーは鏡越しにクラマを見た。「あんたはクールや。せやけど、嘘をつくんはあんまりうまないのお」

 二人は笑った。クラマは唾を吐き捨て、帽子で顔を隠して眠たくもないのに目を瞑った。

 車の中のボブ・ディランはシルヴィオを歌っていた。


 まちに着き、ジャーキーが車を止めたのは〈エルクの耳〉という酒場の駐車場だった。まだ昼下がりだというのに、酒場には酔いどれたちの姿があった。

 クラマは店の前に噛み煙草を吐き捨てた。「こんな時間から飲むつもり? 運転だってあるのに」

 「一泊や二泊で帰るつもりはないんやろ? だったらここが一番安いんや。〈エルク〉の二階と三階は宿泊施設になっとってな、長期で借りると安なんねん」ジャーキーは老犬を連れて、クラマを宿の受付まで案内してくれた。

 受付の女は背が低く、女のクラマでも思わず見入ってしまうほど胸が大きかった。

 「姉ちゃん、部屋を一部屋借りれるか? このハスキー・ボイスが一人で泊まんねん」ジャーキーは受付嬢の胸を見ながら言った。

 「何泊の予定ですか?」彼女は努めて事務的に答えた。

 「そうね、とりあえず二週間。さらに泊まりたいときは追加することはできる?」クラマはできるだけ胸を見ないようにして言った。意識しないようにすると、余計に気になって仕方がなくなった。

 「はい、大丈夫です。お部屋は二階になります。料金は前払いで、予定より早くにチェックアウトする場合でも返金はできませんが、よろしいですか?」

 構わない、とクラマは答えた。

 「当店は全室喫煙室ですが、よろしいですか?」

 「全室禁煙よりはありがたい」クラマは羊毛コートからマネークリップを取り出し、現金で紙幣を払い、受け取った釣銭をジーンズのポケットにねじ込んだ。

 「時代遅れで男らしい女やな」ジャーキーが楽しそうに笑った。

 「財布は持たない現金主義なの」クレジットカードも神も信用しない。目に見えるものだけを信じているから。

 受付嬢は機械的な笑みを浮かべると、部屋番号のついた鍵を渡した。

 「わしはここで待っとる。荷物を置いたら降りてきい」

 クラマは眉を顰めた。

 「阿呆。酒場に来たら酒を飲むんが礼儀やろ。一杯くらい付きおうてくれや」老人はカウンターに腰掛け、老犬のために水を入れるボールを置いた。

 この店の常連なのだろう。老人が座ると、店の店員は何も言わずに犬のボールに水を注いだ。

 「車で帰るんでしょう?」

 「せや。何や、自分、わしがビールで酔うと思とんか? ビールはな、水と一緒や。ちょっと飲んだところで酔えへんのや」

 「シャワーを浴びてからね」クラマはそう言い残して階段を登った。

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