オレンジのジョー
ジョーは牧場主や猟師の経験を持っていた。それ故、夜間にこの渓谷を歩くことがどれだけ危険な行為なのか十分理解していた。盗賊に襲われるようなファンタジーがあるわけではない。むしろ、その方がいくらかマシだとさえ思う。
イノシシだ。この渓谷は大型で獰猛なイノシシの縄張りだった。知能の高い彼らは、人間の仕掛けた安っぽい罠には捕まらず、人間を恐れることなく向かってくる。突進だけが武器ではなく、巧みに使うその鋭利な牙も立派な凶器だ。イノシシに指を噛み切られた人間たちはこの近辺に数多く存在する。
もちろん、恐ろしいのはイノシシだけではない。クマもその一つだ。寒い冬の時期だが、気象変動の影響で、この地域では春や夏であっても、クマたちは十分なエサを確保することができない傾向にあった。冬眠は本来、それまでに栄養を蓄え眠ることで消費を抑える行為だ。冬になる前の暖かい季節に十分な栄養が取れなければ、彼らは空腹を満たすことができない。冬場であっても冬眠することができず、食料を求めて彷徨うようになっていた。そのため、ここは冬であってもクマによる被害が絶えない地域だった。
ジョーは両手でしっかりとライフルを握っていた。弾は込められていて、気配がすればいつでも引き金をひける状態だった。装備は万全だ。
銃の腕が立ち、猟師としてはベテランの域だ。だが、それは自分が狩る側である場合だ。獲物との距離を一定に保ち、気づかれる前に狙撃する。狩人の基本だ。気付かれる前にやる。だが、今は状況が違った。相手は姿を隠した獣で、いつどこからどれだけの数で襲ってくるのかもわからない。ジョーは今狩られる側の気分だった。もっとも、不安の原因はそれだけではなかったが。
毛糸の手袋をしていてもライフルの金属は冷たかった。
粉雪の間を風が通り抜ける。
目の前の景色一つ一つに目を見張り、耳をすませた。自分の鼓動だけが大きく響いていた。
ジョーはまちに着くと真っ先に酒場に向かった。酒場はいつも通り賑わっていて、まち中の男たちが集まっているようだった。女性の姿もあったが、圧倒的に数は少なく男たちの荒っぽい気配に埋れてしまっていた。
天井に取り付けられたテレビには、戦闘機レースの映像が流れていたが、賑わいの理由はそれではなさそうだった。テレビを見ている者は誰もいなかったから。彼らはただ酒を飲み、会話をしているだけだ。会話の集合体が賑やかな酒場を作り上げていた。
ジョーはいつものようにカウンターの左端に座ると、オレンジの添えられた樽生のホワイト・ロイズとピスタチオを注文した。ひどく喉が乾いていたことも合間って、最初の一口で三分の一パイントほどを胃袋に流し込んだ。オレンジの残り香が鼻を撫でる。
ピスタチオの殻を剥きながら、酒場の酔いどれたちの視線がジョーに注がれているのに気がついた。胸ぐらを掴まれているような視線だった。
ジョーはこのまちに流れ着いて日は浅くないが、親しい隣人は持ち合わせてはいなかった。それでも、よそ者扱いされない程度には近所付き合いがあった。一緒に酒を飲む間柄の男たちさえいた。彼ら酔いどれたちは、ジョーのことを"オレンジのジョー"と呼び、ジョーはそれに対して苦言を呈したことはなかった。そのあだ名が何を意味しているのか知りはしなかったが。とにかく、ジョーは彼らから敵視されるような謂れは一切持ち合わせていなかった。
ジョーはピスタチオを口に含み、ビールで流し込んだ。グラスを掴む右手にはまだ冷たい銃器の感触が残っていた。
テレビ画面から流れる無音のレースを凝視してみたが、内容は全く入ってこなかった。
酔いどれたちのヒソヒソ話が耳に流れ込んでくる。幾つものヒソヒソ声が重なり、そのどれもをまともに聞き取ることはできなかったが、よくないことを言われているのだけはわかった。ジョーはその理由に見当がついていた。
このまちの人間は猟師が嫌いなのだ。野生動物たちに農作物や家畜を襲われ、被害にあっている者は大勢いる。まちの暮らしを守るための猟師だって、ジョーの他に何人も存在する。それでも、どんな理由があろうとこのまちの人間は猟師が嫌いだった。猟師たちもそれは例外ではなかった。同業者の間だけでしかライフルの存在を示すことはなく、決して自ら猟師と名乗ることはなかった。このまちの猟師は路地裏に隠れるように暮らしていた。それが暗黙のルールだった。
しかし、物事には必ず例外が存在する。それがジョーだった。彼は路地裏で隠れるような男ではなかった。人に何を言われようがそれを気にするような性格の男ではなかった。とはいえ、いい気はしない。家に帰ってライフルを置いてくるか、あるいはそのまま家で飲み直せば一件落着だ。でも、ジョーは酒場に居座り続けた。彼の不器用な、不細工ともいえる自尊心がそうさせた。
星の間を流れるマシンを眺めながら、ジョーは意識を過去に戻していた。
ジョーがまだ別のまちで狩りをしていた頃、彼は腕利きとして有名で誰からも信頼されていた。彼自身も自分の技術を信頼していて、迷いを感じたことはなかった。
生きるために他を狩る。ただそれだけの行為。ただの仕事。自分がやらなければ他の誰かがやるだけのありふれた仕事だと思っていた。特別な感情を抱いたことはなかった。
どんなものにも終わりはくる。ジョーとてそれは例外ではなかった。
ある日を境に彼は引き金をひけなくなった。いつも通りの仕事。いつも通りの狩り。記憶の限りでは特別変わったことは何もなかった。
だがどういうわけだか、それまで何も感じていなかった心に変化が現れた。彼は他の命を奪うことを躊躇った。それまで無いと思っていた感情が溢れ出した。いや、本当はただ閉じ込めていただけなのかもしれない。全くの無などということはありえない。
一度溢れてしまったら、その先はあっという間だった。壊れた蛇口からは止まることなく水が流れた。ジョーの心は壊れてしまった。そうなってしまっては、彼の居場所がなくなるのは必然だった。狩りのできない狩人は誰にも必要とされない。酒の出せない酒場が繁盛しないように。
やがて、ジョーは旅に出た。誰にも別れを告げず、行き先も決めずに。使い古されたバックパックと時代遅れのライフルだけを持って。
このまちに来たのは偶然だった。たまたま通りかかったまちで、たまたま借りた小屋に居座っているだけのことだ。またいつ旅に出るのか、それは彼自身にもわからない。少なくとも、いまはまだその時ではなかった。いまはまだ。
歓声が上がった。その小さな雄叫びでジョーの意識は現実の酒場に戻された。声の主はカウンターの右端に座る一人の男だった。ブルーリボンズのベースボール・キャップを目深にかぶった男だった。若者。ジョーは直感でそう判断した。が、すぐに考えを改め直した。影の走る顔はのっぺらぼうのようで、そこから正しい年齢を推し測ることはできないように思えた。
野球帽の男は声を出さずに笑うと、テレビ画面に向かってグラスを掲げた。たった一人、激闘を制したレーサーを讃えていた。
いつから座っていた? 思い返しても、ジョーの記憶に男はいない。それは酔いどれたちも同じだった。酒場の誰も野球帽の男には気がついていなかった。
ジョーがその男を見たのはこれが初めてだった。よそ者なのかもしれないし、いままで意識していなかっただけで、ずっとまちに住んでいる男なのかもしれない。透明人間のような男だった。
男の前には、ルーヴィルの黒ビールとラビットフットのパックがあった。
ジョーは反射的にポケットに手を入れ、煙草の箱を探した。が、そのあとで禁煙したことを思い出した。煙草をやめてもう二年になるというのに、いまだに無意識で煙草を求めてしまう。それほど吸いたいと思っているわけではないというのに。
ジョーはひっそりと自嘲気味に笑った。
二杯のロイズ・ビールを飲み干すと、自宅用のブレンデッド・スコッチを一瓶買い、バックパックにしまった。
ライフルケースを担いだ時、酔いどれたちの視線が刺さった。ケースに入っていても、その姿が見えなくともライフルはライフルで、猟師は猟師なのだ。
ジョーはケースの上からライフルの重みを感じた。
仕事を引退して以降、一度もライフルを使っていなかった。もちろん、このまちに来てからも。一度だって引き金をひいていない。空の瓶ですら撃ち抜いてはいない。だが、それを言って何になる? そんなこと誰が信じるというのだ。誰に信じてほしいというのだ。
外に出ると、星屑が降ってきた。
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