夢の、始まり方は、いつもとは違っていた。そして、それは、かなり大きな欠落のようにも思えた。

 男が、出てこないのであった。いつも、黒瀬にナイフを渡す男が現れなかったのだ。どうも奇妙だな、という感情は、しかしすぐに忘却された。

 黒瀬は、最初から、家の中にいた。黒瀬は、漫然と思っている。ああ、もう妻はいないんだな。妻の晴恵はもう・・・・・・。

 それから、箪笥の抽斗の中に入った、あのナイフを取り出すのだ。

 そこからは、いつも通りの段取りを踏む。ナイフをズボンのポケットに入れると、最寄りの駅まで歩いていく。ホームに立って、ポケットのナイフを確認する。

 ぞぞぞっと鳥肌が立った。何かが、決定的に違う。

 黒瀬は、そのしこりのような違和感を抱きながら、電車に乗り込んだ。電車の中は、無言だ。車内全体が、沈黙している。人がいるのに、音がしない。話し声がない。いつも通りだ。

 と、音は、突然に鼓膜を破るように聞こえてきた。車内アナウンスではない。人々の雑多な会話の奔流だ。女子高生、サラリーマン、老人、彼らの雑多な会話の波。騒々しいものではない。みな、マナーの範囲内で会話している。だが、黒瀬には、それは異様な音の洪水に思えた。いつもは、沈黙していた空間が、破られているからだ。

 汗が、異様なほどに、肌を伝う。それほど、暑くはないというのに、額から伝い落ちる汗が、目に痛い。いままで、心臓の鼓動を感じたことは、あったか?

 車内アナウンスが、隣町の名を告げた。黒瀬の夢の、最終地点は、いつもここだった。ここから、先には進まなかった。ここが、この夢の終着点だと、思っていた。

 だが、今日は、違った。

 電車の扉が開き、乗客が、次々と降りていく。黒瀬は、その波に逆らうように、外に出るのを拒んでいる。

 だが、自分の意志とは裏腹に、押し出されるようにして、電車の外に放り出されていた。

 黒瀬は、呼吸困難に陥った老人のように、ハアハアと息を吐き出す。空を見上げた。青空からは、朝の太陽が微笑むように、黒瀬を見下ろしていた。

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