5
その日、仕事から帰ってくると、実家の母親から電話があった。
ああ、あのね、あたしだけど、と言った母親の声は、暗かった。仕送り、ありがとうね、という母の声は萎れた花のようだった。晴恵を世話してもらっている分、黒瀬は給料からいくらかを差し引いて、実家に仕送りしている。黒瀬の負担を金で、肩代わりしてもらっているようで、心苦しかった。
それでも、黒瀬には、毎日、妻と顔を合わせるだけの気概は、とうに失われていた。
あの言葉は、それほどまでに、黒瀬の心を打ちのめした。
その言葉は、黒瀬の心に、呪文のように取り憑き、いまもなお、生々しい迫力に満ちて、迫ってくる。逃げようとすればするほど、そこに絡めとられてしまうようで、妻がいない分、逆に言葉だけが鮮明になるのだった。
夜、眠る前には、その言葉を聞く。
やめろ。
やめろ。
やめてくれ。
もだえるようにしてして、体をよじり、呻く。そんなことを、寝入りばなの三十分ほどは続けている。
そして、声に引きずられるようにして眠りに落ちれば、あの男がいるのだった。
いつものように、ナイフを受け取ると、黒瀬は家に帰る。ナイフを箪笥にしまい、ああ妻はもういないんだな、と確認したあと、ナイフを取り出し、でかけるのだ。最寄りの駅。人混み。ポケットにナイフがあるのを、確認する。なまくらなナイフ。
黒瀬は、電車に乗る。目は、まだ覚めることはない。ああ、今日はもっと先まで進むのだなと思いながら、黒瀬は周りの乗客を見渡す。みな、一言も喋らない。車内アナウンスだけが、空虚に響く。
どこへ、行くのだろう?
この電車は、どこへ向かっているのだろう。
そんなことを、ぼんやりと考えていると、いつの間に目覚めていた。
気怠い、朝だった。
寝た気がしない。まるで、いましがたまで、本当に電車に乗っていたかのような感覚がある。
夢の中では、どこへ行くのだろうか、と考えていた自分であったが、最寄りの駅からあの電車に乗って行く場所は分かり切っている。
黒瀬の実家は、隣町にあるのだ。
妻への愛慕が、こんな夢を見させるのだろうか?
否!
違う。黒瀬は、心の奥底では分かっている。
そんなことは、とても恐ろしくて、認めたくはないだけなのだ。
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