その日、仕事から帰ってくると、実家の母親から電話があった。

 ああ、あのね、あたしだけど、と言った母親の声は、暗かった。仕送り、ありがとうね、という母の声は萎れた花のようだった。晴恵を世話してもらっている分、黒瀬は給料からいくらかを差し引いて、実家に仕送りしている。黒瀬の負担を金で、肩代わりしてもらっているようで、心苦しかった。

 それでも、黒瀬には、毎日、妻と顔を合わせるだけの気概は、とうに失われていた。

 あの言葉は、それほどまでに、黒瀬の心を打ちのめした。

 その言葉は、黒瀬の心に、呪文のように取り憑き、いまもなお、生々しい迫力に満ちて、迫ってくる。逃げようとすればするほど、そこに絡めとられてしまうようで、妻がいない分、逆に言葉だけが鮮明になるのだった。 

 夜、眠る前には、その言葉を聞く。

 やめろ。

 やめろ。

 やめてくれ。

 もだえるようにしてして、体をよじり、呻く。そんなことを、寝入りばなの三十分ほどは続けている。

 そして、声に引きずられるようにして眠りに落ちれば、あの男がいるのだった。


 いつものように、ナイフを受け取ると、黒瀬は家に帰る。ナイフを箪笥にしまい、ああ妻はもういないんだな、と確認したあと、ナイフを取り出し、でかけるのだ。最寄りの駅。人混み。ポケットにナイフがあるのを、確認する。なまくらなナイフ。

 黒瀬は、電車に乗る。目は、まだ覚めることはない。ああ、今日はもっと先まで進むのだなと思いながら、黒瀬は周りの乗客を見渡す。みな、一言も喋らない。車内アナウンスだけが、空虚に響く。

 どこへ、行くのだろう? 

 この電車は、どこへ向かっているのだろう。

 そんなことを、ぼんやりと考えていると、いつの間に目覚めていた。

 気怠い、朝だった。

 寝た気がしない。まるで、いましがたまで、本当に電車に乗っていたかのような感覚がある。

 夢の中では、どこへ行くのだろうか、と考えていた自分であったが、最寄りの駅からあの電車に乗って行く場所は分かり切っている。

 黒瀬の実家は、隣町にあるのだ。

 妻への愛慕が、こんな夢を見させるのだろうか?

 否!

 違う。黒瀬は、心の奥底では分かっている。

 そんなことは、とても恐ろしくて、認めたくはないだけなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る