第37話 聖女の降臨②

 手に持ったランプでそれぞれが床や壁を照らし、そこかしこに点々と残る血痕を見つけだす。あっという間に室内は大騒ぎとなった。


「あああ。夫人の祭壇に血が! 穢れが!」

「直ちに清めねば災いが!」


 祭祀の場で血が流れた。そのことは信心深い貴族たちにとっては重大な問題と映ったらしい。日頃は血というものを見慣れないせいか、動揺はどんどん大きくなっていく。


「聖女を呼ばねば」

「いや、今、聖女は不在だ。豊作を祈る地方巡礼の最中のはず……!」

「なんということだ。それではこの穢れを祓うことができないではないか」

「ちょうどこんな時に不在とは、慣例に反して任期を延長するなどして衰えた聖女を据えているからこんなことが起こるのだ」

「何を言う、今までの彼女の功績があってこその任期延長だ」

「次が決まっていないのは仕方ない。不在中なのも仕方がないではないか。まずは公爵殿の手当てだ。誰か医師を呼びたまえ」

「神罰が下る前に早く、もうこの際候補生でいい。早く呼んで来い!」


 口々に騒ぎ立てる貴族たちだが、誰もその場から動こうとしない。夜会に集まっていたのは各家の主やその婦人たちで、普段の彼らは自ら動くことなく使用人に指示を出す係なので自分から走ろうという考えが出てこないのだ。

 そうこうしているうちに公爵の手が少しずつ冷えていくのが分かった。苦笑いを浮かべてはいるが顔に血の気はなく、見る限り傷は浅いけれどまだ出血は止まっていない。このままにしておくわけにはいかないし、早く医師に診てもらわなければいけない。

 黙っていた伯爵夫人が大きくため息を吐いたのが見える。夫人の隣に立っていた兵がわずかに足を踏み出した。


「ああもう! そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」


 たまりかねた私はそう言って立ち上がると、弾け飛んでスカートの上にぶら下がってしまっていた前身頃を思い切って引き裂いた。呆気にとられた外野を放置し、倒れている公爵の傷口に畳んだ布を押し当てる。


「これで押さえて止血します。あとは、えっと、これ」


 髪に編み込まれていたリボンを引っこ抜き、布の上から傷口を縛った。ぎゅっと力を籠めると公爵がわずかに顔をしかめるが、非常時だから我慢してもらおう。

 応急処置を終えた私は、王子を取り押さえるために連れてこられたらしい兵の一人に水と香油を持ってくるように指示を出した。

 伯爵家の兵は訓練が行き届いているらしく、私のような小娘の頼みも敬礼一つで引き受けてくれた。しかも、儀式用としてちゃんと聖女に祈祷してもらったという水と香油をもってきてくれたのだ。

 ありがとう、と礼を言い私はコルティス伯爵夫人に向き直った。


「只今から簡単ではありますが清めの儀式を行います。お許しいただけますでしょうか」


 伯爵夫人は小さく頷いた。それを了承として私は祭壇に向かう。水が入った小瓶を捧げ持ち、そしてゆっくりとその中身を祭壇の中央にある石に注いだ。

 前世で清めの儀式は何度となく、もはや日常的な作業として飽きるほど行っていた。動きも、手順も、祈りの言葉も、身体が覚えている。いや、身体と言うのは違うか。心に叩き込まれていると言ったほうが正しい気がする。だって今の私は、聖女候補生だったころの私の身体ではないのだから。

 空中にいくつも聖なる紋を描き、歌のような祈りの言葉を繰り返し、手に持った香油の瓶から一滴ずつ床に滴らせる。床に落ちたしずくは次第に一つの意味のある形となり、私はその中央で深く頭を下げて祈りを終えた。

 祈りの余韻に浸っているように、辺りは静寂に包まれた。私はゆっくりと立ち上がる。突如、大きな喝采が沸き起こった。

 目を開けて周りを見れば、野次馬となっていた貴族たちがそれぞれ思いのままに手を叩いている。


「素晴らしい、見事な祈りの儀式でした。これで穢れは祓われたでしょう」

「しかしどういうことだ、公爵の婚約者様は聖女候補生だった記録はないはずなのに」

「いや、むしろこれは本物の聖女なのでは。聖女の降臨だ!」

「新しい、真の聖女が現れた! 後継者問題もこれで解決だ」


 無責任な称賛を浴びせる貴族たちには、きっと悪気などないのだろう。でも私は激しく首を振って片隅に押しやられている公爵を指さした。


「それより公爵様を早く医師のもとへ。応急手当しかしていませんから!」

「おおそうだ、運べ運べ」


 しかし誰が、と言い出さない辺り、本当にお貴族様というのは指示を出す側の人間らしい。


「伯爵夫人、夫人の警備の方々をお借りしても?」

「構いませんわ」


 にっこりと笑った伯爵夫人に一礼し、控えていたさっきの兵に公爵を預けた。屈強な体躯の兵はお任せくださいとささやいて、公爵を抱えて走っていく。その後姿はたくましく、お姫様抱っこよろしく抱えられた公爵は情けなさそうな顔しながら手を振っていた。

 がやがやとした野次馬が兵たちの後を追うように部屋を出ていくのを見送ると、伯爵夫人が私の方へとやってきた。彼女の後ろには、まだ別の兵に羽交い絞めにされている王子もいる。


「見事な手際でした」


 満足げな表情で頷いた伯爵夫人に、私は慌てて頭を下げた。


「勝手をいたしました。どうぞお許しください」

「謝るのはこちらのほうです。危ない目に遭わせて申し訳なかったわ。現国王のただ一人の男子と思って甘やかしすぎたようですね。わたくしからも王へこの件、詳細に報告しましょう」

「聖女が行うべき儀式を勝手に執り行った件については、どうぞご内密にお願いできますでしょうか」

「それは難しいのではなくて? わたくしが黙っていても、あの連中がこぞって王に進言するでしょうから」


 ですよね、と私は肩を落とす。


「でも大丈夫。今の聖女に対する王の信頼は厚いと聞いています。地方に祈りに行かせているのは、彼女の力が十分に保たれていることの証です。しっかりとした適任者を正規の手順で決めるまで、今の方が務め上げることになるでしょう」

「で、ですよね。聖女って、別に王の、その、公妾とかいう目的で選別されるんじゃないですよね?」


 信じてはいなかったものの、やっぱりどこかで引っかかっていたことがぽろりと零れる。それを聞いた伯爵夫人はじろりと後ろの王子を睨みつけた。


「全く、貴方はまだそんな馬鹿げた妄想を……恥ずかしくはないのですか」


 心底呆れたような伯爵夫人の言葉に、王子はまた暴れ出した。


「くそっ! 黙れ! 黙れババア!」


 口汚く王子が罵り声をあげる。

 しかし王子を捕らえているのはさっきの兵と同じくらいに屈強な兵である。成人男性を一人捕まえてびくともしないその上腕、一体どれだけ鍛えればいいのか後から聞いてみたいくらいだ。

 暴れようともがく王子に対して、伯爵夫人はゆっくりと手に持った扇を開いた。そして再びそれを閉じると、ぱちんと掌で打ち鳴らす。


「アルベルト、貴方、自分が現王の唯一の王子だから次期国王になると思っているようですが、王位には継承順位が存在していることをお忘れのようね」

「な、なんだと……?」

「たとえ継承順位が一位であろうとも、その者が王座にふさわしくないと判断されれば継承権ははく奪され、二位以下のものが繰り上がるのですよ。アルベルト。継承権はわたくしも持っていますが、さて、継承順位で二位はどなたか、ご存知?」

「……!」


 ひゅっと空気を裂く音をさせて、伯爵夫人の扇が扉の外を指した。かかとを打ち付けて兵が応答する。次の瞬間、言葉にならない叫び声をあげる王子は兵に抱え上げられた。

 継承権があり、それには順位が決められていることは知っている。前世では誰だったっけ、と記憶を探る。そして、あ、と声が漏れた。


「ユリウス・ガイ・ヴォルフサイン公爵……先王の王女様のお子様……」

「その通り。報告を聞いた国王陛下が、この件をどう処理するのか見物ですこと」


 今度こそ王子は絶叫した。しかし既に兵に抱えられているため表情はうかがい知れない。きっととんでもなく悔しい顔をしているに違いないが、おそらく醜悪だろうから見ないほうがいいかもしれないな、と思いながらそれを見送る。

 参りますよ、と言いながらコルティス伯爵夫人は踵を返したのだった。


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