第36話 聖女の降臨①
ぽたり、と王子の持つナイフの先端から黒いしずくが落ちる。
公爵が私を庇うために突き飛ばしたのだと気が付くのに時間はかからなかった。仁王立ちになる王子の足元で、公爵が右腕を押さえて蹲っていた。白いシャツの右腕部分が、赤黒く染まっていくのが見える。
「公爵様!」
駆け寄ろうと腰を浮かせた私を、公爵が掌を突き出して制した。
「ア、アルベルト……」
よかった、生きている。ナイフは小ぶりだし、致命傷にはなっていないと信じたい。早く手当をしなければ、と気が焦った。
しかし公爵は突き出した掌を下ろさなかった。斬りつけられたと思われる腕はだらりと下げたまま、顔だけ上げて立っている王子を睨みつけている。傷が痛むだろうに、呻き声一つあげない。
そんな公爵を見下ろしていた王子は、ナイフをひと振りして滴るしずくを払った。あたりの床に点々とした黒い染みが生まれ、壁に設えられた祭壇にもそれが飛び散った。
神聖な場所を穢す行為をものともしない男の顔は今まで見たことがないほどに歪んでいて、直視するのが辛いほどだ。
その頬を歪めて笑みを作った男は、蹲る公爵の肩に足を乗せた。ゆらゆらと上体を揺らしながら公爵を覗き込む。
「……ユリウス。お前、こんなことをしてタダで済むと思うなよぉ? この国で唯一の王子を殴り飛ばしてくれたんだ。それ相応の処罰を与えてやるよ」
「アルベルト……! お前こそ、自分が何をしているのか分かっているのか? ここはコルティス伯爵夫人の屋敷だ。すぐ大叔母上や警備の者が来る。このことは国王陛下にも報告させてもらうぞ……!」
「口を慎めよ、公爵殿。王に報告? それがどうした」
ひ、と私の喉が鳴る。
王子の足が公爵の腹をえぐるように蹴り上げたのだ。もんどりうって倒れる公爵を、二度、三度と蹴りつける。
「お、お止めください!」
「く、来るな、エルネスタ……」
あまりの一方的な暴行にたまりかねて私は公爵に駆け寄った。二人の間に割って入ると、両手を広げて公爵を背に隠す。蹴られたら蹴られた時だ。公爵も言っていた。もうすぐきっとコルティス伯爵夫人や屋敷の人が来てくれる。それまでの辛抱だ、と腹をくくる。
しかし王子はくすくす笑って足を下ろした。くすくすという声は次第に大きくなり、ついには高笑いに変わる。異様な雰囲気に、私の体は知らずに一歩後ずさった。
「王など、あんな老いぼれ、五年もしないうちにくたばるさ。そうしたら僕が国王だ。未来の国王に逆らえる奴なんていない。お前も、そしてその奥で転がっているだけの公爵如きが口答えするな。身の程を弁えろ! 僕はこの国の主だぞ!」
高笑いから表情が一変した。血走った眼を見開きながら、王子がナイフを振りかぶる。
エルネスタ、と公爵の叫び声がした。
避けるべきか。でも私の後ろにはけがをした公爵がいる。避けたら彼が危ない。大学でも当たり前だがナイフを捌く訓練はしていない。
受け止めるべきか、どうするか。ほんの一瞬の逡巡の後、私は王子の振りかぶったほうの腕の付け根を目掛けて突っ込んだ。ナイフそのものは受けられないけれど、動きの起点を封じれば、少しは――。
その時だ。
ばん、と大きな音が室内に響き渡った。
それと同時に大勢の足音がなだれ込んでくる。固い金属を打ち鳴らす音が直ぐ近くで聞こえ、私の突き出した腕は宙を切った。
はっとして目を上げるとそこには革鎧を着た警備兵が数人いて、既に王子は両腕を拘束されているではないか。
ぺたりと私がその場にへたり込むと、目の前の兵たちが敬礼をした。彼らの目線を辿ると、毅然とした足取りで一人の年配の女性が姿を現した。
アリアドナ・コルティス伯爵夫人は室内を一瞥し、そしてじろりと王子に視線を移した。羽交い絞めにされた男はその冷たい視線を受けてもまだじたばたともがいている。伯爵夫人はそれを見てため息もつかずに口を開いた。
「アルベルト、貴方には失望しました」
あまりにも低く、冷たい声だった。およそ肉親に、血のつながった甥の子にかけるような声音ではない。自分に向けられている言葉ではないのに、ぞくりと背筋が寒くなり自然と姿勢を正してしまう。
「何を言う、この無礼者! 離せ! 離さんか!」
まだ抵抗を諦めない王子は自由になる首を伸ばしたり足をばたつかせたりしてコルティス伯爵夫人に食って掛かる。しかし往年の女傑はものともしなかった。
ここは、とさらに底冷えする声が響いた。
「ここはわたくしの屋敷です。そしてわたくしは貴方の父上の叔母」
「な……! そ、それがどうし……」
「年長者を敬うこともせず、ただただ周りに気を遣ってもらっているというのに物事はすべて自分の思うまま、か。思い上がりも甚だしい。王城の中でしか生きられぬ小僧っ子如きが、知った口を利くな!」
耳を劈かんばかりの一喝だった。さすがの迫力に、王子も目を見開いて言葉を飲み込む。もちろん私も。そして床に転がる公爵も、だ。
一瞬訪れた静寂の後、大勢の野次馬が部屋になだれ込んできた。夜会に招かれていた貴族たちだ。それぞれが持つランプのおかげで、室内がさあっと明るくなっていく。
灯りが入ると、その部屋が本当に小さな祭祀場だということが分かる。こんなところで暴れていたなんて、神様に叱られてしまうのではないだろうか。
倒れたままの公爵も同じような気持ちだったのか、目が合うとわずかに苦笑いを浮かべた。明るくなってみれば、彼の着ているシャツの右腕部分は真っ赤に染まっている。手当を、と駆け寄ると野次馬――いや客の一人が床の一点を指さし叫んだ。
「これは、血ではないですか!」
その一言で人々の間に動揺が走った。
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