第35話 蜂蜜色の劇薬②
伸ばした手はすぐに掴まれ、ぐいっと引き起こされる。そしてそのままの勢いで、私は公爵の胸の中にすっぽり包まれてしまった。
来てくれた。
今までの緊張が一気に緩み、じわりと目頭が熱くなる。どれだけ気丈に振る舞おうとしても、やはり圧倒的不利な状況で王子とやりあうのは心細かったのだ。
でもそれを正直に口にするのは悔しい。特に、私の事を逐一揶揄おうとするこの公爵にはまだバレたくない。
視界が滲み、目の周りに籠った熱が鼻にまで伝わってくる前に、私は公爵の胸を拳で叩いた。
「遅い!」
なかば照れ隠しの一撃は思いのほか強く当たった。けほっと軽くむせた公爵は、顔をしかめて抱きしめていた腕を緩める。
「お、遅いとはなんだ。君が黙って消えるからだろう。どれだけ探したと思ってる?」
こんな屋敷の奥まで、と続ける公爵の頬が差し込んだ月灯りでも分かる位ぱっと赤く染まった。
「君、ドレス……!」
「あ、これは、えっと、すみません高い物なのに。でもこれ私が壊したんじゃなくって王子がですね、力任せにえいってやって。そしたらホックと糸がぶちぶちいって外れちゃったんです。布自体に傷がなければ、後から私がなんとか直します。お裁縫はあまり得意ではないんですが頑張ってみますけど、えっと、もしだめだったら弁償はなかなか難しいので、お給料から天引きで――」
「そんなことどうだっていい! こ、これでも羽織ってろ」
首元まで赤くなった公爵は、慌てたように顔を背けると上着を脱いで私の肩に掛けた。
怒鳴らなくたっていいじゃないか、物凄く高いドレスだって知っているから弁償も視野に入れたのに。そう思ったけど、そこは黙っておくことにした。
改めて自分の姿を見ると、確かにこれはなかなかにあられもない恰好だったから。
ドレスの上半身部分、所謂ボディスの前身頃がはぎ取られ中に仕込んだコルセットが丸見えなのだ。しかもデコルテを盛るように着ていたはずなのに、かなりズレている。
「しかし、なんでこんなところまで迷い込んでいたんだ」
「マルガリータが居たんです」
なんだと、と公爵が真顔で振り返った。そうだ、私は彼女を追っていたのだ。
私は広間でそれらしき少女の後姿を見かけてからの経緯をざっと説明した。東屋の一件を口にするのは躊躇われたけれど、言わないわけにはいかない。
彼女を追いかけて屋敷の中をうろうろしていたこと、おそらく屋敷の私的な庭園にたどり着いたこと、そこで人影を見つけて近寄ったらその人影が王子とマルガリータだったこと、をざっくりと話していると、公爵の眉がどんどん吊り上がっていった。
「庭園で……アルベルトが……?」
うっかり王子を呼び捨てにするほど怒るのも無理はない。王子の婚約者は公爵の妹君である。かわいいアメリアを泣かせるような行為を聞くのは辛いだろう。激昂して、殴り倒されている王子に止めを刺しにいかないだけ大した自制心だと思う。
「で、私には王子が年端のいかない少女に強引に迫っているように見えたので、二人の間に割って入って咄嗟に彼女を連れて逃げてきたんですけど、その、ここまできたら振り払われてしまって」
「なんだと」
「余計なことをするな、っていうような意味合いのことを言っていました。その後すぐに癇癪を起したように怒鳴って、逃げて行ってしまって……」
「余計なことをするな、とは……」
「どうやら、自分の意思で王子に近寄ったようです。あと、もしかしたら彼女も記憶があるのかもしれません。私のことを知っていましたし、それを匂わせるようなことも」
「なんだって」
「彼女の言い分をもっとちゃんと聞いてあげられれば良かった。まだあんな子どもなのに、手を離してしまって……」
「それは仕方ないだろう」
最後に見た、地団太を踏むマルガリータの姿を思い出す。ちょっと激しすぎると思ったけれど、感情が高ぶりすぎて抑えがきかなかったのだろう。年齢を考えればまだそこまで強く自制できなくても仕方ない。
もっとちゃんと話を聞く体勢をとっていればよかった。咄嗟の事で何もできなかったことが悔やまれる。
俯き、私は唇を噛む。しかし公爵は首を横に振った。そしていからせていた肩をわずかに落とす。でも、と小さな呟きが漏れた。
「君が無事でよかった……」
低く、かすかな声だったけれど、ぽつりと零した公爵の声は確かに私の耳に届いた。その声音には安堵の色が滲んでいるのが分かった。
「公爵様?」
「すまない。マルガリータの事も任せすぎた。もっと早く来ることができれば君をそんな姿にしなくて済んだのに」
「すみません、遅いって言ったのは、その、弾みで……!」
「いや、遅かったのは確かだし、それは俺のせいだ」
勝手に飛び出した私が悪いのでは、と言うのは飲み込んだ。
ゆっくりと公爵の腕が私の肩を抱きよせた。吐息がかかるほどに顔が近くなるけれど、不思議と王子の時のような嫌悪感は湧かない。むしろ私の体の強張りが少しずつほぐれていくような、そんな感覚すらある。
「挨拶をしている最中にアルベルトが姿を消すと、すぐに君が居ないことに気が付いた。それで急いで大叔母上に頼んで探させてもらったんだ。なんとなく広間でのアルベルトの言葉が気になったのに、一緒に挨拶と言われて油断してしまった。離れなければよかった。大丈夫か? ドレス以外、本当に何もないか? 怖い思いさせてすまなかった」
「大丈夫です、頭突き喰らわせてやりましたから」
訥々と語る公爵の声を聞くのはやけに気恥ずかしかった。それを誤魔化すように私は拳を握って自分の額を叩く。
困惑したような表情をした公爵の顔が、くしゃりとなった。
「……君って人は。間に合ってよかった。君に何かあったと思ったら胸がつぶれるかと思っ……」
公爵の言葉は最後まで続かなかった。
急に肩に回された腕が強張り、力任せに突き飛ばされた。ぐらん、と揺れる視界のなかで、公爵が蹲っている。
その背後に、王子が立っていた。
さっきまで私を脅していたあのナイフを持って。
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