第34話 蜂蜜色の劇薬①

 顔のすぐ横で、ぎらりと鋭く光を反射しているのがナイフだと気が付くのに時間はかからなかった。こんなものどこにあったのかと思ったが、そういえばマルガリータが何か持っていた気がする。

 鼻と鼻が触れ合うほど近い距離にアルベルト王子の端正で、しかし眦を吊り上げた顔を睨みながらそんなことを思っている私は余裕があるのか、それとも現実逃避か分からない。


「こんなところで、かくれんぼでもしていたのかな?」


 唇を掠める王子の吐息が気持ち悪い。身を捩って顔を背けようとするけれど、頬のぎりぎり、耳の近くにナイフがあると思うと迂闊には動けない。


「お戯れはそろそろお止めください」


 よし、と私は腹の中で拳を握った。思ったほど声は震えていない。それでまた勇気を振り絞って王子を睨み上げた。


「私は公爵様と婚約を」


 婚約者がいても他の女に声をかけられる男の道徳心に響くとは思えなかったが、僅かな期待を込めて告げる。しかし乳兄弟であり、腹心の側近である公爵を大切に思っているのなら、という期待はすぐに打ち砕かれた。

 ふふっと王子は鼻を鳴らし、さもおかしいと言わんばかりに口を開いた。


「女に疎いあの男が、こんなに短時間で君と婚約なんて信じられるものか。どうせ、虫よけ程度で連れてこられたというところだろう。噂もユリウスが流したものに決まっている」

「そこはたとえどうであれ、この国の王子殿下が人様のお屋敷で同意なく女性を組み敷いて良いという理由にはなりません」

「なるさ。僕は次期国王だ。そんな僕を誰が諫めて、誰が止められる?」

「ご命令されれば誰も表だって逆らえないでしょう。しかし確実に民の心は離れます。謀反の種をご自身が蒔いてどうするのです?」


 王子はこらえきれなくなったのか、体を起こして笑い出した。


「どうとでもなる。ユリウスの屋敷で君を見て気に入った。紹介しろといったのに、あいつは断ってきたが、どうしてももう一度会いたいと思ってここまで来て正解だよ」

「公爵様は誠実に私に話してくださいました。私自身の意思でお断りしたんです」


 間近に迫っていた顔が遠のき僅かにほっとするものの、体自体は床にあおむけにされたままだし王子は私に馬乗りになったままだ。何とか逃げられないかと思うが、体格差、体重差はいかんともしがたい。

 もう少し体を鍛えておけばよかった。

 もう少しとはどの程度? 馬乗りになってきた成人男性に対抗できるようになるまで、とするとどの程度かかるのだろう。

 頭のなかで一生懸命打開策を考える。けれど、現状では王子が自主的に降りてくれるか誰かが来てくれなければ、この体勢からひっくり返すことは困難である。

 時間を稼ぐか、それとも大声を出すか。

 しかしマルガリータがあれだけ騒いでもこの屋敷の使用人が現れなかったことを考えれば、大声を出して騒いだところで見つけてもらえる可能性は低い。

 であれば、なんとか時間を稼ぎ、広間に私が居ないことに気が付いた公爵に見つけ出してもらうしかない。


「私は、男爵の娘という立場ですけれど、可能な限り自分の力で生きていきたく、大学を卒業し、職を得ました。そこへいくら王子という身分の高い方にお声を頂いても、はいそうですかとお受けするなんて主義に反します」

「ならばユリウスとの婚約も、嘘ということになるかな?」

「それは……!」


 しまった。いつもの癖できっぱり自分の主義主張を言い切り過ぎた。

 にやりと笑う王子に、私は心の中で歯噛みする。


「まあ、そんなこともどうでもいい。要は僕が、君を気に入ったということが大事なんだ」

「……お褒めに預かり、光栄ですわ……」

「こうしていても怯えない、気の強いところも良い。どうだ、ユリウスの妹の家庭教師よりうんと金を弾もう。欲しいものはなんでも与えよう。ドレスか? 宝石か?」


 相変わらず男というやつはこうだ。女は金をかけてやれば良いようにできると思っている所が腹立たしい。

 ふんっとわざと大きく鼻を鳴らし、私は顔を背けてやる。


「不要です。わたくし、既に自分で十分な収入を得ておりますので」

「そんなはした金で満足できなくしてやるさ。そうだ、君の美貌があれば聖女にしてやってもいい。この国における女の名誉職だ。どうだ、僕のものになれ」

「聖女にしてやるって、聖女になるには修道院で修行して試験に合格しなければなれないはずでは」


 さすがに聞き捨てならずに問い返せば、王子はそんなものどうともなると言い放った。

 不遜すぎる物言いに私は身震いした。神に仕える職である聖女を「どうとでもなる」とはどういうことか。

 しかし王子は本当にそう思っているのだろう。悪びれもせず、さも当たり前のことを言っているといった風の目で私を見降ろしている。その目の奥には、黒い何かが揺らめいているように見えた。冷たい床に押し付けられているせいだけではない悪寒が全身を這いまわる。


「今時聖女なんて伝統の名のもとにあるただのお飾りだ。歴代の聖女が裏で何をしていたと思う? 父も、祖父も表立っては言わないが。王の公妾だったに違いないさ。だったら見栄えがいい方がいい。しかし今期の候補生は不作だった。いい女を育てろと修道院に莫大な寄付をしてやったというのに、顔も身体もいまいちだ。だから裏で試験を妨害する動きがあったのを見逃した」

「……そんな!」


 試験の妨害とは、先ほどマルガリータが何か口走っていた。その不正を王子は気が付いていて止めなかったということか。

 腐ってる、と思った。

 引退した聖女が、貴族や王族に見初められて引き取られることがあるのは知っていた。そもそも前世の私もそうだと言える。

 しかし諸先輩方が表立って公妾として権力を振るったという話は聞いたことがない。裏でそんなことをしていたというのも、聞いたことがないので本当か嘘かは分からない。ただ、自分が聖女だったころはそんなことができるほど暇ではなかった。

 毎日毎日、国の安寧と繁栄を祈って儀式に明け暮れていたのだ。

 もう二度とやりたいとは思わないけれど、あの時はその仕事に誇りをもって従事していた。こんな風に、何もわかっていない軽薄な男に侮辱されるのは我慢がならなかった。

 公正であるべき試験をないがしろにし、権力で何事も思いのままにしようとする王子の振る舞いは許せない。

 こみ上げてくる吐き気と、生理的嫌悪感を抱く相手に馬乗りになられている不快感に私の顔は相当歪んでいたに違いない。


「修道院が質のいい女を集めなかったのが悪いが、年によっては仕方ないこともあるだろう。君が僕のものになるなら、将来は公妾として権力も握り放題だぞ?」


 さあ、とまた王子の顔が近づいた。


「僕のものになれ。君の艶やかな銀の髪を一目見たときから欲しかったんだ」

「お断りします」


 きっぱりと私は王子の目を見据えて言い放った。


「女がみんな、金や顔や地位で騙せるとか思わないで。婚約者がいるくせに、一度しか会った事のない女を押し倒したり、年端のいかない子どもにも節操なく手を出そうとする男なんて願い下げ。しかも、そんな国家の秘密をべらべらと。本当か嘘かもわからない話を第三者に言うほど頭も中身も軽々しい男、私には釣り合わないわ!」


 そう言うが早いか、勢いよく私は頭を振り上げた。

 ごつっという鈍い音とともに、額を中心に頭部全体に痛みが広がる。ぐらんぐらんと脳が揺れる錯覚に陥るが、左右にぶれる視界の中で王子が鼻を押さえて悶えているのは分かった。

 渾身の頭突きは見事に王子の美しい顔面を強打したらしい。ざまあみろだ。

 しかしこの隙にと体を捩るが、さすがに成人男性を頭突き一発で昏倒させることはできなかった。鼻を押さえたまま、王子は私のドレスの胸もとを乱暴に掴んだ。

 びりっと布が裂ける音がする。

 高かったのに、と喉まで出かかったけれど言葉は出なかった。

 じっとりとした王子の目線に、怪しい光が宿っているのに気が付いたからだ。


「……この僕に、そういう態度をとるのか……」

「……女性に断れたら潔く身を引くものです。心変わりなど期待するほど恰好が悪いですわ」

「そうか……では、いつまで強がれるか、試してみよう」


 ぎらりと王子の冷たい瞳が炎のように揺らめく。まずい、挑発しすぎたかもしれない。そう思ったけれど遅かった。

 ドレスを掴んだ王子の手に力が籠められた瞬間、ぶちぶちっと盛大な音を立ててドレスの縫い糸とホックが弾け飛んだ。下に着ていたコルセットが露わになったことに絶句していると、無遠慮な手がスカートの中に入ってくる。


「な! や、やめ!」


 手足をばたつかせて抗おうとすると、目の前にナイフを突き出された。


「おとなしくしておいた方がいい。が、どこまで強がれるか、僕を楽しませてくれてもいい」

「ふっざけないで! どいて! 離して!」

「君が悪い。僕を、怒らせるから」


 くっくっく、と王子は私から目を離さないまま肩を揺らした。そうしている間にも、スカートの中に入った手は腿を撫でまわしどんどん上に上がってくる。身の毛がよだつほどの気色悪さに喉が詰まった時だ。


「ごっ……!」


 奇妙な音とともに体が軽くなった。それとほとんど同時に私の上に馬乗りになっていた王子の身体が横に吹っ飛んで視界から消える。

 それと入れ替わるように、黒いもので視界が覆われた。いや、覆われたのではない。これは黒い髪だ。


「無事か、エルネスタ!」


 ――来てくれた。

 私は声に向かって手を伸ばした。


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