第19話 戸惑いと曇り空②
午前、午後の授業が終わると、アメリアは歴史年表を抱えて部屋へと戻っていった。この国の歴史は古く一日で終わる内容ではなかったので、あと何日か通しで授業をする必要がある。それを聞いた少女は嫌な顔一つせず、予習と復習をしたいから年表を読むのだというから大したものだ。
さすがの私も十歳や十一歳ころなどにあれほど意欲的に学んでいたとは言い難い。前世の記憶に頼りきった成績で上位に食い込んでいた時期でもあるから、むしろ自ら進んで勉強していなかったんじゃないだろうか。
質問があればいつでもどうぞ、とだけ伝え私も自室のある離れに戻った。朝から続く雨のせいで離れへと続く渡り廊下は薄っすらと暗い。
視界が良くないとそれを補うように想像力が活発になるのは誰しも同じだろう。暗がりをぼんやりと歩いているだけで、物凄く至近距離にあった公爵の顔が脳裏に浮かんでは消えるのが繰り返されていた。
暗がりでランプの灯りを反射した少し鋭角気味な輪郭と端正な顔。私を正面に捉えた瞳。額にかかる黒髪。綺麗な顔だった、と思う。
でも王家の血が少なからず流れているはずの公爵の顔は、従兄弟の関係であるアルベルト王子とはあまり似ていない。
王子の柔らかい金髪と滑らかな輪郭は少し女性的だった。私に触れる唇も薄くて歯が当たらないように静かに口づけてくれたっけ、と思い出して足が止まった。
待て。何を考えている。
今の私は王子とは関係ないところで生きていくと決めているのに、今更王子の唇なんて思い出したっていいことはない。あの唇が処刑を告げたときの恐ろしさを思い出すと、今だって背筋に冷たいものが走る。
未練がましく恋しいと思う気持ちより、やっぱり恐怖の方が強い。ぶんぶんと頭を横に振って王子の残像を記憶の彼方へ追いやった。
「やめやめ……。だって結局後々に若い子に乗り換えられちゃったりするんだもの。それでぽいっと捨てられちゃったらせっかく」
「誰が若い子に乗り換えるって?」
「ひっ!」
誰もいないと思っていた離れで聞こえた突然の声に、私の喉から変な音が漏れた。しかもその声は聞き覚えがあり、そしてこの場にいてもおかしくはないけれど居てほしくない人物のそれである。
「なんだその声は。化け物の声でも聞こえたか?」
そう言われては振り返らざるを得ない。恐る恐る首を回すと、そこにいたのはもちろんこの屋敷の主である公爵その人だった。
「随分大きな独り言だったな」
「こ、公爵様っ、な、な、なんでこちらへっ?」
「これでも一応、この屋敷の主なのでね。どこにいくのも俺の自由だろう?」
「それはっ……確かにそうですが……」
それでも「離れは好きに使うと良い」って言ってくれたんだから、少しは遠慮するのが普通ではないだろうか。こちらは曲がりなりにも結婚前の若い女なのである。……結婚する気はないけれど。
「わざわざ離れへいらっしゃったので驚いただけです。御用があればお呼び下されば私の方から出向きますものを」
「妹の授業の邪魔になってはいけないと思ってね。今日はこの後、授業の延長はあるか?」
歴史年表を持って行ったアメリアが質問に来なければ、今日の業務は終わりのはずだ。明日は久しぶりの休日で、街へ本でも買いに行こうか筆記用具を新調しようかというところである。
「今日のアメリア様はとても意欲的に歴史の授業に取り組まれておりました。ご質問はいつでも、とお伝えしましたが今日の様子であればおそらくこの後に延長授業はないと思います。年表につきっきりになるでしょうから、夕食の時間を忘れてしまわないようにしないと……」
ふむ、と言って公爵は髭の生えていないつるりとした顎を撫でた。指先を見ていると、そういえば昨夜はあの顎の上に乗っている唇に、と思考が飛ぶ。
途端に頭が沸騰した。かあっと耳まで熱くなる。想像がそこから先に進まないように、ぎゅっと瞼を閉じた。
だめだ、だめだ、考えるな。昨日のあれは、公爵が疲れていただけ。寝ぼけていただけ。事故、事故よ、あれは事故。
そもそも前世でも幼いうちから隔離されて修行に明け暮れ、世に出たら王子に言い寄られて囲われた私には世間一般でいう男性との交際経験はなかった。今生でも大学では男子生徒と机を並べてはいたものの、見栄えを気にせず成績向上にまい進したせいか色恋ごとには全く無縁であった。
前世とは全く違う人に見えるからといって公爵にときめくなどありえない。事故にびっくりしただけ。色恋に免疫がないからこそ、事故にあった驚きによる心拍数の上昇を脳が何かと勘違いしているだけの状況に違いない。
実際いきなり唇を奪うなど、きちんとした手順を踏まない失礼なやり方だ。地位もある公爵が、妹の家庭教師ごときといえどそこまで失礼な行為をするものだろうか。だからきっと公爵はあの時疲れていたんだ、寝ぼけていたんだ。だからあれは事故である。
呪文のように頭の中で事故という言葉を繰り返す。そうこうしているうちに、公爵はまた口を開いた。
「特に何もないようであれば、今夜は俺に付き合ってもらえないだろうか」
え、と言葉に詰まる。
付き合ってって、何? 何をどうするの? え、事故じゃないの? 何するつもりなの?
疑問の波が一斉に押し寄せたが、公爵の次の言葉で私は目を丸くした。
「夜会に付き合ってくれないか?」
「や、夜会……?」
「ちょっと一人じゃ体裁が悪くてね。口うるさい王の叔母君に当たるコルティス伯爵夫人に招待されたんだ」
「ご招待って、え? コルティス伯爵夫人とは、アリアドナ王女様ですか?」
「そうだ」
うわあ、と声が出そうになって私は慌てて口元を押さえた。大混乱で興奮した脳に、また違う興奮が湧き上がる。
コルティス伯爵夫人、アリアドナ王女といえば先々王の御年六十を数える御長女で、広大な領地を自ら治める女領主さまだ。歴史上、慣習で夫や息子の陰で補佐をすることが女性の役割であると言われていたけれど、降嫁されたアリアドナ様が辣腕を振るって税収改革、産業改革を行ったおかげで女性にも職業選択の自由が叫ばれるようになった。
私も感化された一人といっていい。そんな、ある意味憧れの人が主催する夜会と聞いて胸がときめかないわけがない。
「わ、私も連れて行っていただけるんですか?」
思わず前のめりになりながら尋ねると、公爵は意外そうな顔をして頷く。
「いいのか? こちらとしても付いてきてもらえるとありがたいんだが」
「行きます! 行きたいです! ぜひアリアドナ様にご挨拶したいです!」
「あ、ああ……は、話が早くて助かった」
「あ! でも夜会に着ていくようなドレスが……あ、卒業式の祝賀会に着たものがありました!」
「祝賀会の?」
仕事は屋敷の中だけだし、外出する機会は身の回りのものや本などの買い物だけだからと、ドレス関係はほとんどハンナに持って帰ってもらってしまっていた。王女主催の夜会となればさすがに着るものにも格式が必要だ。母のお下がりだけれど祝賀会に着ていたドレスなら問題ないだろう。
よかったと胸をなでおろしていると、不服そうに公爵が唇をへの字に曲げた。
お誘いを断ったわけではないのに何を怒っているのだろう。訳が分からず公爵を見つめていると、その視線にも何か言いたくなったのだろう。憤慨したように公爵は腕組みをして唸りだした。
「あ、あの、申し訳、ございません?」
勝手に怒りだされてはどうすることもできない。何か気に障ることを言ったのかもしれないので、ここは先に謝っとくかと思ったのについ語尾が疑問形になってしまった。
まずい、けどもう仕方ない。
全く、と公爵がため息を吐いた。
「君を連れて行こうと言い出したのはこちらなのだから、心配せずとも着るものくらいこちらで用意する。その位の甲斐性がないと思われるのは不愉快だということさ」
「え? で、でもそんな準備をしている時間なんて……」
「いいから。任せておけ」
そう言うと、戸惑ったままの私の手を取り公爵は母屋へと向かって歩き出したのだった。
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