第18話 戸惑いと曇り空①

 結局、一睡もできないまま朝を迎えた私の顔は、鏡で見る限り最悪の状態に近かった。


「……ひっどい、凶悪なクマが出来てる……」


 大学在学中も勉強に研究にと徹夜を繰り返していたけれど、好きなことに熱中していたからか疲れもクマも気にならなかった。だけど今回は違う。意に添わない精神的負荷のおかげで眠れなかったんだから、疲労感も半端ない。

 ベッドから泥のように重たい体を引きずるように起きだし、着替えを終えた私は大きなため息とともに化粧道具を取り出した。

 さすがに今日の顔はだめだ。どんよりと曇った空のように、顔色も唇もくすんでいる。

 ハンナが見たら顔を真っ赤にしながら怒っていつもより明るい色の粉を叩こうとするだろうな、なんて思いながら化粧をしていると扉を叩く音がした。


「エルネスタ様、じきに朝食のご用意ができますので食堂へおいでください」

 

 取次ぎをしてくれる侍女さんの声だ。

 食堂で食事、と聞いて私の体は強張った。起き抜けなのにまるで全力でそこらへんを走ってきたかのように心臓がバクバクと音を立てる。昨日の今日で、公爵とどんな顔をして会えばいいというのだろう。

 私は熱くなった頬を押さえた。

 しかし夜通し眠れず、もぞもぞとベッドの中で寝返りを繰り返したおかげでお腹はぺこぺこだった。朝食という言葉に意識が向くと、ぐるぐるぐるっと腹の虫が鳴る。

 気まずさと、そして空腹を天秤にかけると、わずかに空腹が勝ってしまった。

 扉の外で待っている侍女さんに今行くと返事をし、とっ散らかった髪に櫛を入れ一束にまとめる。眼鏡をかければ、下瞼にできた盛大なクマは多少は誤魔化せるだろう。

 ぱあん、と眠気覚ましに自分の頬を叩き、私は部屋の扉を開けたのだった。


――と、無駄な気合を入れて向かった食堂では、問題の公爵はおらずアメリアが一人にこにこしながら私を待っていた。


「おはようございます、エルネスタ先生」

「おはようございます、アメリア様。よくお休みなりましたか?」

「はい。今朝もよいお天気だといいなと思って早起きをしてしまいました。でも……」


 ちらりと走らせた視線の先は、生憎の雨模様である。ああ残念、と大抵の子どもであればがっかりした顔を見せるだろう。しかしアメリアはちょっと照れたような笑みを浮かべた。


「昨日のお庭での授業がとても楽しかったのです。またお天気が良い日にはお外で虫のことを教えていただけますか?」

「もちろん。お天気が悪い日は、雨や水が好きな生き物が喜んで姿を現しますよ。今度図鑑で見てみましょう」

「はい!」


 なんて天使だろう。私が彼女の目を見て頷くと、金色の前髪を揺らしてアメリアも満足そうに頷いた。やはりこの子は生き物全般が好きなのだ。もう少し文学や数学の基礎を終えたら、自然現象に関わる科目を増やしてみるかと頭の中で検討する。

 良家の子女に必要な教育かどうかは分からないけれど、好奇心には可能な限り答えてあげたい。そのためには公爵に確認を取るべき、なのだろう。しかし肝心の公爵の姿が見えないのはどうしたことか。

 私はアメリアの向かいの椅子に腰を下ろし、給仕の人が添えてくれたお茶に口を付けた。


「そ、そういえばっ、公爵様は?」


 つとめて何でもない風を装ったが、ややつっかえた。動揺を悟られたかと思えば、アメリアはそれには気が付かなかった様子で首を振る。


「本日は早い時間から国王陛下の御前会議が予定されているとのことで、もうお出になったそうです」

「ま、まあ。お忙しいこと……」

「昨日もアルベルト様がおっしゃっていましたが、どうやら次の聖女様が決まらないとかで……」


 そういえばそんなことを言っていたっけ。次、つまり前世の私がいないのであれば次席の聖女候補生が繰り上がりそうなものだけれど、試験でみんな失敗していて呪われているとか言われ出すとうかつに任命するのも難しいのかもしれない。

 現在の聖女は既に五年勤め上げ、任期満了目前のはず。どうしても新しい聖女が決まらなければ、任期を一、二年延ばすこともありうる。しかしすでに二十を大きく超えた聖女なら結婚適齢期を逃すといって実家も嫌がるだろうし、本人や実家に権力が集まるからといって嫌がる貴族もいるだろう。

 私が処刑されたのも、王子の心変わりが大きな原因だろうけれどそういった裏事情もあるのかも、と考えると背中にちょっと冷たいものが走る。

 しかし公爵が聖女の任命に関することで早朝から駆り出されるなど、よほど切羽詰まった事態になっているのだろうか。そんな仕事に関わらざるをえなくなり、公爵も相当疲れてるに違いない。

 そうだ。疲れていたんだ。昨夜は公爵も寝ぼけてしまうほど疲れていたんだ。

 うん。そうに違いない。

私が自身を落ち着かせるためにうんうんと頷いていると、少し不安そうに眉を下げたアメリアはコップに注がれたミルクをこくりと飲んだ。


「エルネスタ先生、聖女様とは一体どんなお仕事をなさっているのでしょう」

「ええっと……。国のために神様へ祈りを捧げたり、神様のお言葉を国王様や国民の皆様にお知らせするために占いをしたりするんですよ」

「神様とお話ができる方なのでしょうか」

「直接お話ができるわけではないのですが、占いや祈祷をしている最中に神様のお声が聞こえる瞬間があったりするんです。なんというか、頭の中を真っ白にして自分の身体とそれ以外との境界がなくなるまでお祈りをしていると、びびっと心に何か降りてくるというか、なんというか……」

「先生は、聖女様の修行をされていたのですか?」

「え……? あ!」


 いけない。

 うっかり前世の記憶を口走ってしまった私は、慌てて首を横に振った。


「いえ、違います違います。これは、えっと、その、聖女候補生の方とお話したことがあるんですよ。ええ、大学で!」

「候補生の方が、大学に?」

「そうです、あの、早々と適性がないということになって進路変更をした友人がいるんですよ!」

「まあ……。聖女様の修行って、とても厳しいと聞いていましたが本当なんですね……」


 アメリアはますます顔を曇らせた。申し訳ないとは思ったけど、こんなことで前世で聖女だったとかいう話はできない。絶対信じてくれないだろうし、おかしな人と思われては職を失ってしまう可能性もある。

 なんとしても王都に留まり、公務官になって自立したいのだ。


「そ、そうなんですよ。なんか、とっても、とっても厳しくて年に何人も候補生から外されていくそうです」


 これは嘘ではない。前世の話でいえば私の同期も、毎月少しずつ姿を消して最終的に残った候補生は数人だったはずだ。

 去っていく少女たちは、一様に悔し涙を浮かべていた記憶がある。家や地域の期待を一身に背負って候補生になる子が多く、「なれませんでした」はその期待を裏切ることになるのだろう。


「若く、聖女の証が発現した女性のみが就けるお仕事ですが、本当に聖女になれるのはほんの一握りです。適性がなければ国の安全を託すことはできません」

「聖女の証とは……」

「十歳前後で身体に特別なあざが浮かんだ少女が候補生になります。修行は厳しいのですが、試験に通らない未熟な方を聖女に据えることを考えると心配です。おそらく、今の聖女様にもう少し頑張っていただくことになるのでしょうね」


 なるほど、という顔でアメリアが頷いた。どうやら私の「友人」の話から気が逸れたらしい。


「さあ。アメリア様が聖女についてご興味をもたれたようですので、それでは今日はこの国の歴史についての授業にしましょうか」


 そういった私の提案に、公爵令嬢は元気よく返事をしてくれたのだった。

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