第17話 不要な愛に溺れる序章
私はぐっと唇を噛んだ。頭に上った血はなかなか降りてこない。理性と感情の折り合いが付かず、はけ口を求めて力いっぱい拳を握り締めた。爪が食い込んで、痛い。
ふーっと細く長く息を吐き、またゆっくり吸い、そしてまた細く吐く。何回か繰り返し、少しずつ沸騰した頭を冷やした。
試験対策や学友の嫌味で興奮したときに、ハンナとともに編み出した鎮静法である。十回ほど繰り返したとき、公爵と目が合った。
貴族の末端ではあるが男爵の娘という身分で公爵を怒鳴りつけるなど、滅多にある事ではないだろう。私の剣幕に公爵は目を丸くしてこちらを見つめている。
「……断って、いいのか? 女性にとっては、いい話と思わないのか?」
「もちろんです。公爵様、ご自身で何を仰ってるか理解してます? アメリア様が聞いたらどれほど悲しまれることか。兄上が自分の婚約者に別の女をあてがおうとしているなど、実に酷い裏切りです」
「裏切り……?」
「そうです。貴方はアメリア様の兄君として、国王様の臣下として、王子の暴挙を止めるべきお立場の方じゃないんですか!」
ぴしゃりと言い放つと公爵の目が泳ぐ。
「そもそも私にしたって、官職を得たいと昼に言いましたよね? お金も暮らしていければいいんです。大学に行ったのだって、この国では聖女になるか結婚して家に入るかっていうだけが女の人生みたいに言われるのが嫌で、別の仕事をちゃんとやり遂げたいと思ったからです」
「聖女?」
「ああもう、ものの例えです!」
「あ、ああ……」
「それを今更、また女という性別で決まっているような役割に押し込められたくありません。今のお話自体、私に対して失礼です。アメリア様だって虫や自然が大好きな、勉強熱心なお嬢様です。きっと本当はご自身の夢もおありでしょう。やりたいことももっとたくさんあるでしょう。それを家や国の都合で未来の王妃になれと押しとどめているというご自覚、公爵様にありますか? 女の身体を使って権力を得ようとか、そんなのを誰もが望んでいるとか思わないで!」
失礼、というならばもはや私が失礼だ。公爵に対する口の利き方ではない。
はっとして口を噤むがもう遅いだろう。アメリアの事だって、彼女がどう思ってるかなど本当のところは分からない。が、こうなったら開き直って言いたいことを言ってやろう。そう思って拳をまた握り締めた。
「悪かった」
私の追撃より、公爵が口を開くほうが早かった。
素直でまっすぐな謝罪に毒気を抜かれ、私の肩から力が抜ける。
「そうだった。君は公務官に就いて仕事をしたいと言っていた。それを王宮に居場所を作りたいのだと曲解した俺が全面的に悪い。すまなかった」
「え……いえ……あの、分かっていただけたのでしたら……」
「良かれと思って余計なことをしてしまったようだ。妹の気持ちについても、恥ずかしい話だが王妃となるのだから栄誉と思えと、押し付けていたのかもしれない。夫の愛人くらい、王妃になるならその位我慢するべきだと、ついつい男の側の政治を優先させてしまった」
ふ、と公爵は鼻を鳴らした。苦笑いを浮かべたその表情は、不敵さではなく寂しさを漂わせている。
アメリアの気持ちはあくまで私が勝手に想像してしまったけれど、何か思い当たる節でもあるのだろうか。そういえば、この兄妹の年齢はかなり離れている。お父君もお母君も早世されたらしいし、家族としての話し合いが足りていなかったのかもしれない。
本当はアメリアの気持ちも考えていて、でも王子の命令だから仕方ないとわざわざ露悪的な言葉を選んでいたのかも、とさっきのらしくない口調を思い出す。
「口が、過ぎました。申し訳ございません……」
「いや、気にしないでくれ。むしろこちらが失礼だったのだから。君に言われて目が覚めた気分だよ。意に添わないことをさせようとして申し訳ない」
「王子殿下にお目にかかれたのは光栄でしたけれど、お断りさせてください……」
「分かった」
公爵はそう言って立ち上がった。弾みをつけていたのか、残された椅子がガタっと鳴る。それを片手でそっと抑えて振り返る公爵の顔は、さっきとは打って変わって明るくなっていた。
気分が変わったのだろうか。それならばまあ、よかったかもしれない。前世のイメージに縛られていたが、こんなふうにこちらの意を汲んできちんと気をつかってくれるところは評価したい。いや、本当の公爵がどちらなのかは分からないから、現時点では、ということだけれど。
ほっと胸をなでおろしながら私も見送りのため立ち上がった。話はおしまい。であればこの屋敷の主が離れに長居する理由もない。しかし立ち上がったまま公爵は動かず、じっと私を見降ろしたままだ。そしてうんうんと頷き始めた。
「しかしなるほど。それにしても、君は面白い女性だな」
「え?」
「金にも、身分にも興味がなく、たぐいまれな学識と公爵に食ってかかる胆力。今までも官職に就きたいという女性がいると聞いたことはあるが、いや、面白い。あの日から今までずっと君を誤解していたようだ」
「は?」
「これはあのぼんくらにやるにはもったいない。俄然、興味がわいた」
にやり、と公爵の口の端が持ち上がる。
「なにを……?」
言っているのという言葉は私の口から外へは出なかった。視界が一瞬暗くなり、何か柔らかいもので唇を塞がれる。次の瞬間、視界にランプの灯りを反射した公爵の顔が飛び込んできた。
あっという間の出来事だった。
「これで俺も君から興味を持ってもらえる対象になれるといいんだがね」
そう言った公爵の顔はあまりに近い。
訳が分からず呆然としている私が、口づけをされたのだと気が付いたのは彼が背を向けて部屋を出てからのことだった。
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