第12話 五年先の前世の婚約者②
「あれより大きな蜂で毒性が強い種類のものに会ったら逃げますが、蜜蜂くらいであれば平気です。彼らの仕事の邪魔をして怒らせなければ、とても温厚な虫ですから」
「……虫に温厚とか、そんなことが」
「あるんですよ、意外と。慣れると可愛い顔をしている種類の虫も多いんです。公爵様は虫はお嫌いですか?」
「……すごいな、君。俺は、その、蜂は……いや、虫全般がダメなんだ」
一度刺されてから怖くなったんだ、と物凄く疲れたような顔をして公爵は机に突っ伏してしまった。これはいけない。
「あ! あの! 蜜蜂って蜂だからみんなに怖がられてますけど、あの子たちはただ花の蜜を吸って巣に持ち帰るだけの良い子たちで! いじめない限り向こうから攻撃してくることはないんです。あと、それからえっと、あの子たちが蜜を吸うときに花に潜り込むからちゃんと受粉ができて果物や野菜ができるんで、とっても役に立つ子たちなんです。あと、あと! えっと、おいしいはちみつを作ってくれて、それに実はすごく賢くて仲間内で羽の音や巣の中での動きで暗号みたいなことを……!」
「もういい、分かった。もう分かったから……」
一生懸命説明をしていると、目の前に公爵が掌を広げ遮った。
……しまった。またやってしまった。謎の使命感に駆られて蜜蜂を擁護してまくし立ててしまった。
ああ、と今度は私が頭を抱えて突っ伏した。呆れられただろうか、それとも余計なことを話し過ぎと叱られるだろうか。
うるさいから解雇とか言われたどうしよう。内心ビビり散らかしていると、頭上でぷっと吹き出す声が漏れた。
「公爵、さま……?」
恐る恐る目を上げると、そこには顔を真っ赤にして口元を押さえている公爵がいた。目が合うと、またぷぷっと吹き出し、そして今度はこらえきれないように笑い出した。
「公爵様?」
「いや、すまない……。君があまりにも蜂を擁護するもので、それがおかしくて」
「す、すみません。公爵様はお嫌いでしょうに、無理やり聞かせるような真似を……!」
「気にしないでくれ。むしろ勉強になったよ。もっと聞かせてほしいくらいだ」
笑いながら話す言葉は少しつっかえていて聞き取りにくかったけれど、とにかく公爵の気分を害していないということは伝わった。目の端に浮かんだ涙をぬぐいながら笑う様子に嘘は無さそうで、ほっとした私は肩の力を抜いた。
前世の印象で必要以上に緊張していたけれど、この世界では公爵も普通の、いや意外と可愛いところもある男性なのだろう。カップに残ったお茶に口を付けると、僅かに甘い風味が鼻に抜ける。
「そういえば君の卒業研究は虫による人の病気の媒介現象だったか。それなら虫が怖くないのも納得できる」
「苦手なものもないわけではないですが……虫にも害虫とされるもののほかに益虫と言われるものもいまして――いえ、なんでもありません」
「少なくとも俺より虫は平気だろう? そうだ、屋敷に入る時に虫に出くわしたら追い払ってもらおうかな。その業務にもちゃんと給与を払おう」
またなんか言い出した。
は、と公爵を見ると、まんざら嘘を言っている風でもない表情を浮かべている。私は慌てて首を振った。
ただでさえもらいすぎているのだ。これ以上など怖くて受け取れない。ここはしっかり断ろう、と私は公爵に向き直った。
「要りません、そんなのいただかなくても追い払うくらいしますから呼んでください」
「そうはいっても、それも仕事だと言えば対価が発生するだろう」
「しません、その位ならすれ違った赤の他人にもやります」
「君は金が欲しいのではないのか?」
「暮らしていけるだけあれば十分です。逆にお伺いしますが、なぜ公爵様はそんなに給与として私に下さろうとするのですか?」
そうだ。なぜそんなにお金を払いたがるのか、ずっと尋ねてみたかったのだ。相場の何倍もの給与を支払って家庭教師をさせる上、さらに増額するなどいくら公爵家といってもおかしい。
私は姿勢を正して公爵を見つめた。和やかなはずの昼下がりの庭園で、私たちのいる東屋の周りだけ少し温度が下がったような気がする。私を見つめる公爵の目から笑いの成分が消えた。冷たさを増したその瞳は、前世で私を睨みつけていたあの目と重なる。怯みそうになるが、でもこの世界での私はあの時の私ではない。
見つめあったお互いの視線は、それぞれが相手の心の内を探るように交わり続けた。
先に唇を動かしたのは公爵だ。
「金が要らないということは、公爵家とつながりが持てればそれで良い、ということかな?」
「……は?」
「あのような不躾な招きにほいほいと応じたのには理由があるだろう。金か、それとも公爵夫人や愛人の身分か、と考えていたんだがね」
ふっと公爵が鼻を鳴らした。肩をすくめて首を振ると、その顔には苦い笑みが浮かんでいる。
なぜかその表情をみると胸が痛くなった。何度か公爵の笑顔は見てきたけれど、それらはいつも不敵で、何か悪戯を企んでいるようで、自信に満ちていたものだと感じていたのにこれは違う気がする。
「恥ずかしい話、これまで俺が関わったどこぞの貴族のご令嬢たちはみんなそんな目的ばかりだったようでね。こちらとしても自衛をせざるを得ないと考えていたんだが、どうやら君は本当にそういう目的じゃないらしい。教えてくれないか?」
そう問いかける声はいつもより重かった。でも、今までより頑なな声音ではない。
「先日申し上げた通り、私は大学卒業後は官職を得たかったのです。試験を受ければ採用されると思って、大学でも必死に勉強をしていました。しかし今年と来年と採用がないとなると、実家の男爵領に戻れば結婚させられてしまうという危機感がありました」
「ふむ」
「なんとしても王都に留まり、何かしらの職を得て食いつなぎ、次回の公務官の試験を受けたい。そんなところに家庭教師のお話をいただけて、それでお受けしました。ただそれだけです」
姿勢を正し、きっぱりと言い切ってやると、私たちの間には沈黙が訪れた。
祝賀会の時も、これまで面談してきたときも、きっと公爵は私の話を半分疑っていたのだろう。それは公爵のそれまでの経験から仕方ないことかもしれないし、前世の記憶が中途半端に邪魔して落ち着きなく狼狽えていた私にも原因があるかもしれない。
ちゃんと話して誤解を解こう。その結果、相場通りの待遇になったって問題はない。解雇さえされなければ――。
そう思ってまた口を開きかけたときだった。母屋の方から急ぎ足でやってくる侍従の人の姿が見えた。あの人は確か、この屋敷でも一番偉い侍従の人だ。
黒いスーツ姿の初老の侍従は東屋にいる私たちを見つけると足を速めた。そして近づくやいなや、殿下がお見えです、と告げたのだ。
それを聞いて私の体は硬直した。
「殿下? まさか」
「いえ、何かお急ぎの御用との事で殿下ご自身がお見えになっております。応接室に……」
「行く必要はなさそうだ……」
そう言った公爵が顔を向けた先には、酷く見慣れた、それでいて今生では絶対見たくなかった、そんな朗らかな笑顔で片手を振っている男性が歩いていた。
「アルベルト……様……」
私の口から漏れた言葉は、風にあおられた庭園の木々のざわめきに飲み込まれたのだった。
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