第2話 公爵家令嬢の家庭教師②

 夜遅い時間であり自身の屋敷にいるため、ゆとりのある絹のシャツにスラックスという簡単な出で立ちで、開かれたドアから当然のように入ってくる。いくら雇用主であっても女性の私室に断りもなしに入るなど、という抗議は以前に却下された。

「もう用事は済んだかい? アメリア」

「はい、お兄様」

「疑問は解けたようだね。いい顔だ。では部屋に戻りなさい。俺はエルと二人で君の授業進度について相談をしよう」

 まだお若いとはいえ公爵家当主となられたご自身のお仕事もお忙しいはずなのに、本当に妹思いの人である。私は急いで窓際の机から紙の束を持ってテーブルに広げた。どうせなら本人を交えたほうが話しやすい。

 バサッと広がった紙の枚数に、公爵がわずかに顔をひきつらせたように見えたが気のせいだろうか。いや、勉強をしている割に結果が少ないと見られたのかもしれない。だがアメリアは優秀だから、ノートや試験の紙に対する書き損じもあまりないので仕方ないのだ。

「それではアメリア様もご一緒の方がよろしいかと思いますわ。このように本日もちょっとした確認試験を行ったのですが、昨日までの内容はほぼ覚えていらっしゃいますしさらに予習もきちんとなさっているようで私の準備した教材ではやや物足りないときもあるのではないかと思います。ご自身でお持ちのノートにはしっかりと学習内容がまとめられているので、理解を深めるためもう少し応用的な問題に挑戦されると良いと思います。難しい問題でもきっと大丈夫でしょう。よろしければ私、明日にでも書店と図書館へ行き適した教材を探してまいりますがいかがでしょうか。ああ、でもお天気が良ければお庭で生物の実物を確認しながら学習するというのも考えておりまして、公爵様もお時間があればご一緒に――」

「あー、分かった。分かったから」

 呆れたように眉を下げた公爵が見えたと思った途端、大きな手のひらが私の視界いっぱいに広がった。はっとして私は口を閉じる。

 まずい。やってしまった。

 状況を説明しなければ、と思った途端に口が止まらなくなってしまったのだ。私の悪い癖で、興味があることに対してはついつい饒舌になってしまう。

 ああ、と公爵はうつむいた私の肩をぽんぽんと叩いた。怒ってはいないようだけれど、気まずい。私は首を竦めて小さくなるしかない。

「なるほどなるほど、さすが我が妹。そして本当に先生はよく見てくれている。アメリア、もう遅い。子どもは早く寝て、また明日ゆっくりと先生とお話をするといい。進度についてはお兄様が聞いておくよ」

 優しく微笑んで公爵が言うと、お行儀のよい返事を残してアメリアはくるりと背を向けた。本当に良い子である。

「アメリア様……!」

 この気まずい空気の中、あなたの兄君を置いていかないでほしい。いや進度の相談なら一緒にいたいと言ってくれ。

 そう言いたいけれど言えない。公爵家当主の兄に従順な妹君は、兄が先生と二人で話すといえば何の疑問も持たないに違いない。天使のような微笑みを曇らせるのは私とて本意ではないのだ。

 でもちょっとは言いたい。あなたを追い出した兄君は、優しいだけの公爵ではないのである。できれば二人きりにはなりたくない。

 が、小さな背中を見送る間もなくドアが閉められると、あっという間に私の体は公爵に抱きすくめられてしまった。

 腰と肩に腕を回され身動きが取れないまま、すんすんと髪のにおいを嗅がれる。

「ちょ、ちょっと公爵様!」

「一日ぶりなんだ。ゆっくり堪能させてくれ」

「待った! そこで喋んないで!」

「じゃあエルが黙っていればいい。そうしたら俺も喋らないから」

「――っ!」

 耳元で公爵の低い声がすると、吐息がもろに耳たぶに触れた。しびれにも似た甘い感覚に、頭はくらくらするのに背筋がぴんと反応してしまう。

「いや……や、やめ……」

 抵抗する自身の声が驚くほど甘い声音になり、掌で公爵の身体を押し返そうとするが力が入らない。膝から崩れそうになった私を両腕で軽々支えた公爵は、その姿勢のままくっくと可笑しそうに喉を鳴らした。

「どうした? 嫌なんじゃないのか?」

「……やですよ……はなして……!」

「それは聞けないお願いだな。前も言ったろう?」

「でも……! 遊びなら他であとくされのない女性と……!」

「だめだよ」

 抱きしめる腕を緩めた公爵は私の顔を覗き込んだ。そしてくいっと私の顎を持ち上げ、唇を触れ合わせる。私の意識が唇に向いた途端、今度は公爵の指が耳たぶをつまんだ。その刺激に思わず声を上げる。わずかに開いた唇の隙間から柔らかく肉厚な舌がねじ込まれた。

 いきなりのことに身体が硬直した。

 ついこの間、初めて口づけをしたがこんなのではなかった。

 初めての感触と異物感に驚いて口を閉じようとするけれどできない。迂闊に歯を合わせれば公爵の舌を噛んでしまうかもしれない。どうしよう、と思っているうちに腰から力が抜けていく。

 くちゅくちゅと糖蜜をかき混ぜている時に似た音が脳を揺らした。

「ずっと焦がれて、やっと手に入れたんだ。いくら君が嫌だと言おうと手放す気はない」

 口内を蹂躙されながら聞く公爵の声はくぐもっているはずだ。しかし鼓膜を震わせるはずの音が耳の内側から聞こえる気がするのは何故だろう。公爵の低い声が体に響いていく錯覚に陥りながら、私はその場に崩れ落ちたのだった。


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