第39話 恋人
クラウスの腕の中で、うっとりとしていた俺は、王宮内の公の場であることを失念していた。
王の末弟と抱擁する場所ではないと、はっと我に返る。
歓喜のあまり、脳内が砂糖漬けにでもなったかのように甘ったるい思考になっていた。
周りを見渡すが、幸い誰もいない。
密着する二人の邪魔をしないように距離を取られたのだとしたら、いたたまれない。
そこで、ようやくクラウスは、俺から花を受け取った。
「ありがとう。僕もゲリンに渡したい。緑ノ宮の庭に赤い花が咲いてたはずだから、今から来てくれる?」
盛大に尻尾を揺らすクラウスに誘われて、緑ノ宮に向う。
溶けるような笑顔を向けるクラウスに、俺は今更ながら訊いてみる。
「なぜオメガの茶会を開いたのですか?」
「ずっと前から、公爵家から催促はされていたんだ。引きこもってた僕が、外出が増え始めたことを知って、茶会はまだかって煩くなってしまったから、仕方なくだよ」
クラウスが俺の手を握った。
「ウィリアム様はよろしいのですか?茶会後も会われてましたよね?」
嫉妬心から問い詰めるような言い方をしてしまう。
クラウスが髪を無造作に上げて、隠れていた瞳が顕になった。
「ウィリアムが絵を描き始めたから、僕のアトリエが見たいって言ったんだ。だからアトリエを見せただけ。でも、絵が描き始めたなんて、嘘だったかもしれない」
「結婚の話をされたとか」
この際だから、わだかまりはすべて解消したい。
「小さい頃の話をしただけだよ。もしウィリアムが覚えてて、本気にしてたらいけないと思って、確かめただけ。ウィリアムに会ったの?」
「王宮で偶然お会いして、少しだけ話をしました。ウィリアム様をモデルに絵を描くつもりはありますか?」
俺が、そう言うと、クラウスは憮然とした面持ちで言い返した。
「頼まれたけど、断った……僕を信じて。僕は何の取り柄もない男かもしれないけど、嘘は吐かない。ゲリンを好きな気持ちは誰にも負けないつもりだ」
なんて、甘い言葉なんだ。
俺には、一生縁のないような言葉がクラウスの口からするりと出てきて、俺は震えるほど感動していた。
暴れてしまいそうなほど、擽ったい。
緑ノ宮に着くと、家令に鋏を用意してもらって、庭に咲く赤い花を探した。
綿菓子のような小さな真っ赤な花を見つけて、クラウスが茎を切る。
「僕も聞いていい?ゲリンがダイタを好きだと思ったのは、僕の勘違い?」
逡巡しながらクラウスが口にした。
「……十年前に好きだった人がいました。クラウス殿下と出会う、ずっと前の話です」
「それが、ダイタ? ダイタの花は貰わなかったの?」
「はい。クラウス殿下以外の赤い花は、いらないから。今日、クラウス殿下に断られても、俺は諦めるつもりはありませんでした」
手に入れたばかりのクラウスに誤解されたくなかった。
ダイタへの恋心は十年で劣化して、いつでも砕けてしまいそうなほど脆かった。
王宮で再会して、会うたびに心が騒いだのは本当だ。
でも、クラウスを好きだと認めてしまえば、ダイタへの愛情は過ぎ去っていたとわかった。
ダイタを好きだった感情と、クラウスを好きな感情は、同じではない。
ダイタからクラウスに恋心が移ったとかではないのだ。
クラウスへの特別な感情は、俺の中で知らぬまに新たに芽生え、ゆっくりと大切な存在になっていた。
「クラウス殿下が、俺以外のオメガと、会っているのを見て息苦しくなりました」
「僕もだよ。ダイタから花を貰うゲリンを見てられなかった」
俺は、クラウスから花は受け取った。
「僕達は、もう恋人ってことだね?」
クラウスに問われて、俺は恥ずかしげに告げる。
「クラウス殿下が、初めてできた恋人です」
「本当に?まだ信じられない、ゲリンが僕のことを好きだなんて」
クラウスは青く澄み渡る空を見上げて、顔を両手で隠した。
あの気味の悪い笑い声が漏れて聞こえる。
「僕ね、ずっとゲリンのヌードを描きたいって思ってたんだ。今から描かせてくれる?」
俺は、笑いを堪えながら、答えた。
「……そろそろ金ノ宮に戻らないと、休憩が終わってしまうので」
名残惜しいが、仕方がない。
「それなら、いつでもいいよ。ゲリン、今日はありがとう。僕を選んでくれたうえに、告白までしてくれた」
クラウスが、幸運を噛み締めるように口にした。
俺は、今頃、うっすらと涙が潤み視界がぼやける。
嬉しい時にも、涙が出るのだと初めて知った。
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