第11話 婚約破棄

 俺はレイを寄宿舎まで送る。

 役職付きのレイの部屋は、最上階にあった。


 玄関に入ると安心したかのように、レイは一歩も動かなくなり、不意にオリーブ色の瞳から涙をぽろぽろと頬に落とした。

 

「あれ?」

 レイは頬に落ちた涙に不思議そうな声を出して、指先で拭く。


 レイの涙は溢れ出すと、止まらなくなった。


「おかしいな」

 狼狽するレイが呟く。


 騙されてあんな女とも知らず、好きになってしまったレイ。

 俺よりも少しだけ背の高いレイの悲しそうに泣く顔を見ていられなくなって、隠すように腕の中に抱きしめた。


「レイは何も悪くない」


 泣きたいだけ泣けばいい。

 泣いて忘れてしまえ。


 別れて正解だ。結婚前にわかってよかったじゃないか。

 どんな慰めの言葉も白々しく思えて、俺は口にすることができなかった。


 レイは俺の肩に頬を寄せて、声を殺して泣いていた。

 そんなレイの涙が止まるまで、俺はそっと寄り添うことしかできない。


 レイのアルファの匂いには、陽だまりのような暖かさがあった。


「あっ。ありがとうございます」

 レイがくぐもった声を出した。


 落ち着きを取り戻したようだ。

 俺が背中に回した腕を解くと、レイは眼鏡を外して、制服の袖で目元を拭く。


「今日、ゲリンさんがいてくれて、よかったです」

 レイは、掠れた声でぽつぽつと言った。


 俺は何もしてやれなかったが。


 眼鏡をかけ直したレイの表情は、すっきりと吹っ切れたようにも見えるが、俺が「帰ります」と告げると、再び沈んだような顔を覗かせる。

 

「何もかも忘れてぐっすり寝て下さい。ルシャード殿下には体調不良で帰ったと伝えておきますから」

 俺はそう言い残して玄関を出た。


 政務宮のルシャードの執務室に向かう。

 レイを泣かせてしまったのは俺のせいなのではないかと後悔していた。

 俺がハンに調査なんて頼んだばかりに。


 ルシャードは執務室にいた。

 優雅にティーカップを持ち上げてお茶を飲む、そんな何気ない所作が絵になる人だ。


「戻ったか。レイはどうした?」

 ルシャードは俺を一瞥し、首を傾げた。


「体調を悪くされたので寄宿舎に帰りました」

「そうか」


「…ご説明していただけますか?」


 なぜ、ルシャードは俺をレイに同行させたのか。

 こうなることが、わかっていたかのように。


「ハンが調べたら、アイリスはレイに相応しくないとわかった」


「はい」

 激しく同意する。


「家族の留守中を狙って、義兄と浮気を行ってると報告があった。だから、アイリスの姉に協力してもらい、あの時間、誰も家にいない状況を作ってもらった。行為をするかどうかは賭けだったが、その様子だと、ちょうどいい頃合いだったみたいだな」


 ちょうどいいだと。この悪魔め。


「あんな不貞行為をレイに見せる必要はなかったはずです。調査結果を教えればよかったんじゃないですか」


 部屋の中に入る前に、レイが呆然と婚約者の名を呼んだ声が忘れられない。

 すべて悪いのはあの女だが、冷静で気丈なレイを精神的に追い込んだのは、ルシャードだ。


「調査結果を見せるだけでは、納得しないかもしれない。現実を見せた方がいいだろ。レイは優秀だ。それなのに浮気女のせいで、マイネの妃教育が滞ってはならない。はっきりさせた方が、すぐ忘れられるかと思ったのだが違ったか?」


「……酷いことをしたと思わないのですか?」

「婚姻までに時間がなかったから、少々手荒だったかもしれないな。だから、二人で行かせた。お前がいれば大丈夫だと思ったのだ」


 そんなの温情でもなんでもない。

 俺は心の中で、思いつく限りの悪口で罵りながら退室した。

 








 その後すぐ、レイは婚約破棄をした。


 アイリスはレイだけではなく、両親にも礼儀正しく優しい女を演じきっていたそうだ。

 長年、姉の虚偽の悪事を両親に吹き込み、冷遇するように仕向けてもいたらしい。


 だが、今回の婚約破棄により、義兄とアイリスの醜聞は瞬く間に広がり、父親の商会にも影響を及ぼした。

 その結果、外聞の悪いアイリスは勘当されて、離婚した義兄と一緒に姿を消したらしい。

 貧しい暮らしむきに娼館で働き始めたという噂も広まったが、真偽はわからない。


 そして、結婚二週間前に婚約破棄となったレイの方は、仕事に支障が出ることもなく、立ち直りも早く復活していた。

 ルシャードの思惑通り、アイリスの膿を強引に取り除いたのがよかったとは認めたくない。


 あれ以来、レイは俺に心を開いたようで、よそよそしかった表情がなくなった。


 レイは「情けないところを見られてしまったから、もうゲリンさんの前で格好つけても仕方がないです」と言って、恥ずかしげに目を細めて笑う。

 初対面の笑顔と違い、近寄りがたい印象は消えてなくなっていた。

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