第10話 レイの婚約者

 十日後。

 急遽、レイは婚姻に関する書類を本日中に王宮に提出することを迫られ、妃教育の日を変更したいと伝えに来た。 

 今から婚約者邸まで急いで行かなくてはならないらしい。


 ルシャードからも連絡があり、俺もレイに同行するように指示を受けた。

 これは婚約者とレイの様子を確認して来いって意味だろうか。


 ルシャードの指示にレイは不審そうにしたが、俺にも理由がわからないと誤魔化しておく。


 レイの道案内に従い、王都を二十分ほど歩き、見覚えのある青い屋根の邸に到着した。

 これでレイの婚約者が、あの女だと確定したわけだ。


 前に俺が助けた姉が、ちょうど玄関の外にいて、レイが声をかける。

「急に伺ってすみません。アイリスはいますか?」


 婚約者の名前はアイリスらしい。


「アイリスなら部屋にいます。どうぞ。私は出かけるので失礼しますが、部屋まで上がってくださって結構ですよ」


 その姉が家の中に入れてくれた。

 玄関は広く使用人の姿もあり、なかなか裕福な暮らしが伺える。


「折角なので、婚約者を紹介します」

 そう言ったレイの後に続いて、廊下を歩きアイリスの部屋の前まで来たのだが。


 扉の中から聞こる声に、俺とレイは動けなくなった。

 真昼間から男女の卑猥な音と甘ったるい会話が続き、俺の背中に冷や汗が流れる。

 立ち竦むレイの表情を、もう怖くて見ることができなかった。


 婚約者の裏切りが扉を隔てて生々しく伝わる。

 レイが聴いているとはつゆ知らず、最中の女は耳を塞ぎたくなるような声を上げた。

 それをどんな気持ちでレイが聴いているのか。


 呆然とするレイが、婚約者の名を呟いた。

「アイリス……」


 そして、苦しげに息を吐いたレイが決心したかのように扉に手を伸ばし、勢いよく開けた。

 俺は帰りたかったのに。

 それなのに開けてしまった。


 ベッドの中にいる女が突然の闖入者に驚き、次にそれが誰なのかに気づくと、血相を変えて覆い被さった男を押し退ける。


 静まり返ったのは一瞬だけ。

 レイが部屋の中に一歩入ると、アイリスが言い訳を始めた。


「レイ、違うの!無理やりお義兄さんに襲われたの!」


 浮気をしていたことすら驚きなのに、相手の男は義兄だとは。

 怖い女だ。姉を襲わせたのも、そんな事情からかと思うと、ぞっとした。


 アイリスと呼ばれた女は、迫真の演技で震え出すが、押されてベットの下に落ちた男が慌てて否定する。


「嘘だ!最初に誘ったのはアイリスだ!」


 部外者の俺はここにいてもいいのだろうか。

 レイを一人にすることもできず、部屋の外で成り行きを見守るしかない。


「レイ、信じてくれないの?私が浮気するわけないじゃない」


 裸体の女が何を言っても説得力がない。しらを切るつもりなら、呆れてしまう。


「信じるわけないだろ。俺は扉の前で聞いてたんだから。いつから浮気してたんだ?」


 レイの反応は至極当然だった。

 女の表情が苛立ったように歪み、長い嘆息をついた後に本性をさらけ出した。

 するっと化けの皮が剥がれる。


「はぁ……面倒くさっ」


 アイリスの変化にレイは、違和感を感じたように眉を顰めた。

「何と言った?」


「謝っても、許してくれないんでしょお?」

「許すわけないだろ!」


 感情的に怒鳴ったレイを、馬鹿にしたようにアイリスが笑った。


「簡単に騙された、あんたも悪いのよ」


 挑発するような女に、婚約者だった優しい女など存在しなかったのだとレイは愕然としているはずだ。

 可哀想にすべてに騙されて幻を見ていたのだ。


 突如、ピリピリと部屋中が小さく振動したような気がする。

 アイリスの周りだけ、黒いモヤが漂う。


 アルファの威圧フェロモン。

 上位とされるアルファの中には、ベータとオメガの行動を一時的に支配する威圧というフェロモンを発生させられる者がいる。


 アイリスが得体の知れない力に「何これ?やめて!」と叫ぶが、レイは無表情だ。

 まずいかもしれない。


 俺にも何が起きているのかわからないが、明らかにアイリスの呼吸が苦しそうで、目の焦点がおかしい。

 駄目だ。このまま続けたら恐ろしい結果になる。


「レイ!」

 俺が叫ぶと、ふっと威圧フェロモンが消滅した。


 同時にアイリスの呼吸が戻ったようだが、わなわなと震え出し、会話ができるような状態ではなかった。


 二人を引き離した方が良いのではないのか。

 今は冷静に話し合いが、できるとは思えない。


 俺は動揺しているレイを引っ張り外まで出た。


「……すみません」

 レイが呟く。

 俺の前で冷静なふりをしようとしているようだが、返って痛々しかった。


 レイはアイリスの言葉に傷ついている。


「レイ様が謝る必要なんてないです」

「でも、巻き込んでしまったから」

「何言ってるんですか。大丈夫ですか?とりあえず帰りましょう」


 俺は、次第に虚ろに項垂れていくレイを引きずるように、なんとか王宮に戻った。


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