第20話 別れ
「うう、痛っ」
マイネは筋肉痛の鈍い痛みや股関節の痺れや尻の違和感があり、ベットから出ることができなかった。
「大丈夫か?無理するな、今日も休め」
心配げにルシャードが様子を伺う。
「…はい」
「マイネ。今日はどうしても帰りが遅くなりそうだ。今後については明日、話し合おう」
ルシャードはそう言うと、マイネのこめかみに唇を落とし、部屋を出て行った。
ルシャードが甘い。
発情期は終わり、もうオメガのフェロモンは出てないはずだというのに。
愛情が生まれたかのようなルシャードの態度に、マイネは一人悶えた。
しかし、それは一時的な錯覚だとわかっている。
マイネの発情に誘発されて、ルシャードも発情して錯覚しているだけだ。
侍従のクリアが何かと世話をし、食欲も戻ったマイネは朝食と昼食を兼ねた食事をし、その後、一人で庭園を散歩しガゼボで休んだ。
「マイネ?」
呼び声に振り返ると、庭園の中にオティリオが佇んでいる。
どこから入って来たのだろう。
庭園の奥から姿を現したようだが。
「大丈夫?病気だって聞いて、お見舞いに来たんだ。兄上には面会謝絶だって言われたけど、こっそり来ちゃった」
オティリオがマイネの首の辺りを見て呆然とした。
うなじは噛まれていないが、何度も吸われたから鬱血があるかもしれない。
オティリオに手首を痛いほど強く掴まれ、マイネは顔を顰める。
「どうして?兄上は結婚するって言ったのに!」
マイネは、目を逸らした。
そのことは考えないようにしていた。
しかし、忘れてしまえるはずがない。
もしルシャードの婚約者の存在を知らなかったら、都合の良い誤解をしていただろう。
ずっと頭の片隅にあった。
「明日には……ガッタから王女が到着するよ」
衝撃的なオティリオの言葉にマイネは蒼白になった。
「え?明日?それは……本当?」
「本当だよ。マイネは兄上から何も教えてもらえてないんだね。多分、兄上はマイネとは一度きりだと思ってるよ」
マイネは、唇を噛んだ。
言われなくてもわかっている。
「僕はマイネが好きだ。マイネが悲しむところなんて見たくない」
オティリオがマイネの頬に触れるが、何も感じない。
オティリオに触られても、ルシャードのように鼓動は鳴らないのだ。
オティリオの手を振りほどいた。
「ごめんなさい。それでもルシャード殿下を好きなんです」
マイネはルシャードを探すため、走り出す。
「待って」
オティリオは止めたが、追ってはこない。
ガッタの王女が王国を訪問するという話をルシャードの口から聞きたかった。
ルシャードが帰ってくるのを待ってはいられない。
政務宮の廊下を足早に進み、前室の扉を開けたが、ルシャードの執務室にも誰もいなかった。
不意にルシャードの机上に視線を向けると、国王に婚姻の許しを得る書状が置かれている。
マイネは呆然とその羊皮紙を見た。
この書状を国王に承諾してもらわないと王族は婚姻ができないのだ。
心が冷える。
かたっと前室で物音がして、引き返した。
そこで、鹿獣人の女性と顔を合わせた。
「ミラ様?」とマイネは問いかける。
「あぁ、事務官のマイネだね。今日は休みだと聞いていたが、どうした?」
目が細く如才ない印象の人物だった。
「ルシャード殿下にお聞きしたいことがあったので……」
「殿下ならアプト領に行ってていないよ」
アプト領とは、ガッタと国境を隣接した土地だった。
「それは、王女殿下のお迎えでしょうか?」
「そうだよ。明日到着予定だ」
やはり、オティリオの言葉は正しいらしい。
婚約者がいることは知っていた。
ルシャードは、オメガの発情期のフェロモンに惑わされただけだ。
責めることはできない。
だが、ルシャードの中に少しもマイネが存在しないことがはっきりとわかってしまった。
マイネが、どんな気持ちになるのか考えもしないで、何の説明もしないで、ルシャードは幸せそうに笑いながら婚約者をマイネに紹介しようとしているのか。
耐えられそうもない。
見たくない。
マイネは感情に任せて口を開く。
「ルシャード殿下に一言、お別れのご挨拶をしたいと思ったのですが、難しいようです」
「どういうこと?」
「ミラ様、お願いがあります。私を死んだことにしてください。家族にも殿下にも、マイネは死んだとお伝えください。どうか、お願いします」
「それは、その鬱血をつけた相手に関係するのか?」
やはり、目立つ場所に所有の証のように鬱血があるらしい。
胸の奥の痛みにマイネは堪え、王都を去る決心を固めたのだった。
苦しい。
二度とルシャードには会わない。
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