第10話 第三王子オティリオ
食事が終わると、一旦は執務室に戻ったルシャードだったが、すぐに外出してしまったようだ。
「ルシャード殿下が執務室にいるのなんて、一日二時間もないかな」
ハンは右の扉を開けて前室を通り、ルシャードの執務室の扉を開ける。
マイネもハンの背後から入室した。
室内は剣の鍛錬ができるのではないかと思うほどの広さがあり、大きな窓から入った太陽光が絨毯を照らしていた。
部屋の奥に重厚感のある黒檀の猫脚の机と背もたれが高い椅子があった。
その机の上は片付いているとは言えない。
「ここにマイネが呼ばれることはまだないと思うけど。慣れたら直接ルシャード殿下から指示を受けるようにもなるからね」
机上から束になった白い紙をハンとマイネで抱えて部屋に戻る。
ハンから細かな作業を丁寧に教えてもらい、マイネは急をゆうする近衛騎士団主催の剣術大会の準備をした。
剣術大会は来月あるらしい。
事務官の仕事は多岐に渡っている。
業務に没頭していると、日が暮れ鐘の音が響いた。
「この鐘が鳴ったら、帰りの合図だよ」
ハンが天を指差す。
ある程度きりがよいところまで仕事が終わると、マイネはハンを残し退出し、寄宿舎に帰る前に図書室に寄ってみた。
地図を片手にして、迷うことなくたどり着いた。
マイネの背より数倍高い本棚が並ぶ図書室は、紙とインクの匂いがする。
本棚の迷路のようだ。
こんなに蔵書の多い図書室に入ったことがなかったマイネは、苦労して目当ての本を探す。
ようやく、読みやすそうな騎士団に関する書架を探しあてた。
本棚から一冊を抜き取る。
ページをめくっていると、薄暗く静かな図書室の奥から小さな呻めき声がした。
空耳かと思ったが、どうも違うようだ。
疎いマイネでも、それとわかる艶かしい声が続く。
焦ったマイネは手にした本をバラバラと落としてしまい、その大きな音で密会中の誰かに存在を知らせてしまった。
しまった。
図書室から足早に立ち去る音がする。
ため息を吐きながら、落とした本を拾っていると「事務官?」と呼ばれ、飛び跳ねるほど驚いた。
二人とも立ち去ったと思ったのに。
オティリオが乱れた髪をかきあげながら、肌けた服を整えることもなく、マイネに近寄る。
第三王子だったとは。
「やっぱり事務官だ。この時間の図書室なんて大概、誰も来なかったのに、邪魔してくれたね」
マイネは拾った本を胸に抱える。
「ごめんなさい。本を落としてしまって、わざとじゃないんです」
オティリオに「名前なんだったっけ?」と訊かれ「マイネです」と返事をする。
「マイネはベータ?」
「はい」
「逃げられちゃったから、マイネが代わりになってくれる」
「えぇ!」
オティリオがマイネの顔に顔を寄せる。
「よく見たら、可愛いじゃん」
「可愛くないです!」
マイネは本で顔を隠す。
キスもしたことがないマイネは、オティリオを恐ろしい怪物かのように怯えて後退りした。
オティリオが笑った。
「ごめん。揶揄っただけだよ」
「本当ですか?」
「うん。でも、マイネが可愛いのは嘘じゃないよ」
褒められ慣れてないマイネは、困り顔で言った。
「どう返せば良いのかわかりません」
オティリオが瞬きをし、ふふっと笑みをこぼす。
「兄上には会ったかい?」
「はい。少しだけ」
「兄上はね、冷たいようで根は優しいんだよ」
「…無視をされましたけど」
マイネは、口を尖らせた。
「関心がないものには、見向きもしないからね。嘘とか建前とかない人だ」
「そうですか」
オティリオは気さくで奔放なのに対し、ルシャードは他を寄せつけない気難しさがある。
オティリオは服と髪を整えると「またね」と手を振り、図書室をあとにした。
そして、次の日も、同じ時間にマイネが図書室に寄るとオティリオがいて「また邪魔しに来たの?」と言うわりには一人だけだった。
それから十日が過ぎた。
王宮で働くのを夢見ていたマイネは、緊張の連続に疲労が蓄積していたが、充実する日々を過ごしていた。
剣術大会の打ち合わせを終えて、近衛訓練場から執務室にマイネが戻る途中、中庭にオティリオがいた。
「殿下、急ぎますよ。お茶会に遅れます」
侍従長の虎獣人ティノに急かされても、オティリオは中庭のベンチから動こうとしない。
「あんなの遅れていいよ」
「駄目です」
「嫌だ嫌だ。つまらない」
マイネは、そっと通り過ぎようとした。
オティリオとは会えば図書室以外でも、会話をするようになっていたが、今は邪魔をしない方がよさそうだと判断したからだ。
だが。
「マイネ!」
オティリオに手を振られてしまっては無視もできない。
逡巡しながらマイネはティノの隣に立った。
「どうかされたんですか?」
ティノが眉を顰めて答える。
「もうすぐ、お茶会が始まるというのに、殿下が動いてくれないんです」
侍従長のティノとも、すでに面識があった。
オティリオが訴える。
「ただのお茶会ならいいんだよ。でも、今日のお茶会は僕の婚約者を決めるためにオメガばかりを招待した催しなんだ」
「そんなのがあるんですか?」
知らなかった。
そんな招待状がマイネに届いたことはないはずだ。
これも、発情期がないからだろうかと思うと心が沈む。
「最悪だろ」
オティリオは足を組み腕組みをして続ける。
「僕はオメガよりもベータが好きだって何回言っても聞いてくれない」
マイネは少し驚いた。
「オティリオ殿下はオメガよりベータが良いのですか?」
「そうだよ。人の好みなんていろいろだろ。僕はオメガを好きになれない」
「でも、オメガとかベータとかって見た目でわかりますか?」
「わかるよ。マイネはベータだから、わからないのかもしれないけど、アルファはオメガを匂いでわかる。容姿だってオメガとベータでは違うでしょ」
「……そうですか」
マイネは欠陥なんだろうか。
区別がつくと言うオティリオは、マイネをベータだと疑っていない。
「マイネがオメガだったらいいのに」
オティリオが何気なく呟く。
ティノが苛立ちを隠さないで「殿下、本当に遅れてしまいます」と言った。
ため息を吐き、オティリオは渋々立ち上がる。
そして、オティリオはマイネの背後に視線を向けた。
「兄上だ」
マイネも後ろを振り返ると、佇むルシャードの姿があった。
離れた距離から、ルシャードとマイネは目と目が合う。
ルシャードの獣の耳がこちらを向いていた。
すると、身を翻したルシャードは、訓練場の方に立ち去ってしまう。
オティリオもティノに連れ去られる。
一人になったマイネは、ルシャードが消えた方を見続けた。
最初こそ素っ気ない態度のルシャードに気後れしたが、十日が経つにつれて意に介さなくなった。
ハンやダイタや他の騎士団員と話をしているルシャードの声を、こっそり盗み聞きしていると、時々優しさを感じられるからかもしれない。
誰にでも冷たい態度をとる第二王子。
オティリオが婚約者探しを強いられているならば、ルシャードも同じだろう。
公に発表していないだけで、すでに決まっている可能性もある。
ルシャードに選ばれるような相手は、どんな人なのだろうか。
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