第35話 寒夜

騎手やねを変えるなら今ですよ」

 狭いカウンター、隣に座る咲島が今日何度目か分からない管を巻く。その顔は居酒屋の薄暗い照明でもはっきりとわかるくらいに真っ赤だ。しかし、咲島と飲むのも久しぶりだがこんなに酒に弱かっただろうか。

「変えないよ。――すみません、がんもと大根を」

 カウンター越しの店主が静かに頷き、慣れた手つきで鍋を探る。

「那須やルピは難しいが、岸とか成海ならなんとか乗せれんこともない。最悪、猿江を呼んでもいい」

「しつこいねえ」

 思わず苦笑いが出た。

 目の前に静かに小皿が置かれる。ふっくらと汁を吸ったがんもどきと大根が白い湯気を立てた。

「……クラッシュオンユーあの馬はG1を取れる馬だ。それをみすみす逃す手はない。

 こんなチャンス、老い先短い人生でもう巡って来ないかもしれねえ」

「たしかに神様がくれた千載一遇のチャンスだ。

 僕にも君にも。――そして、彼女にとってもね」

 咲島は下唇を突き出した。

「アイツにはこれからまだいくらでもチャンスがある。生き急ぐことはねえ」

「……そうかもしれないね。

 でも、あの馬が彼女の騎手人生にとって最良の馬かもしれないよ。チャンスは満を持したタイミングで訪れるものじゃないからね。

 それでも降ろすのかい?」

「いまのアイツにあの馬は難しすぎる」

 咲島が声のボリュームをひとつ上げた。

「騎手は競走馬が身につける最後の馬具だ。上手い騎手は馬の力を何倍にも引き出すが、反対に下手くそが乗ったら役立たずのリュックサック以下になる」

「だから騎手を変えると?」

「そうです」

「昔の君ならそう言ったかな?」

 箸をがんもどきに立て、左右に開く。透き通った出汁が溢れ出た。

 咲島は口を噤む。

「僕のために言ってくれてるんだろう?

 君のおかげで何度か重賞を勝たせてもらっていい思いをしたけれど、G1にはついぞ縁がなかった馬主人生だったからね」

 咲島は猪口になみなみと入った酒を呷る。

「武市さん。アンタには散々世話になってきた。俺はアンタをG1の口取りに立たせたい」

「嬉しいことを言ってくれるね。

 でもね、なにも僕は若いからとか女性騎手だからっていう理由でクラッシュオンユーの騎手に彼女を選んだわけじゃない。

 僕たちに夢を見せてくれる。そんな騎手だと思ったから乗せるんだ。

 馬を勝たせる騎手はたしかにいる。だが、夢を見せてくれる騎手ってのはなかなかいないもんだよ。

 君も僕も、この世界に足を踏み入れた時にはもっと競馬に夢を見ていた。もう一度見たいじゃないか。あの頃見たような夢を」

「……いつまで若いままのつもりなんですか」

「バカ言え。心まで老け込んじまったらあっという間に棺桶行きだよ」

 咲島の乾いた猪口に酒を注ぐ。徳利を置くと、今度は咲島がそれを持ってこちらに酒を注いだ。

「……夢見てるだけじゃ生きられねえんですよ」

「……それはそうだ。

 でもよ、夢も見れないようなら生きてる意味がなくなっちまうじゃないか」

 猪口を傾け唇を湿らせる。澄んだ甘さが口に広がる。いい酒だ。

「サクちゃんもあの子には期待してるんだろ?

 それなのに自分だけ悪者になろうとするなんて寂しいことやめてくれよ」

「……。……俺は忠告しましたからね」

 それから店を出るまで互いにほとんど言葉を交わすはなかった。

 店を出て上を向くと澄んだ夜空に星々が散らばるのが見える。ひとつ吐いた息が肌寒そうに浮かぶ月を包んだ。


 第一回中山競馬四日目。

 パドック横の控室でレースを待つ。レースはすぐそこまで迫っていたがなかなか身が入らない。頭の中では先週負けたシンザン記念の映像が繰り返し流れていた。

「なに難しい顔してるのよ。せっかく同期がこれだけ揃ったっていうのに。ねえ?」

 愛が隣の長谷くんに同意を求める。

 愛の言う通り、今日の中山競馬場では由比以外の四人が集結していた。私を除いた三人は美浦所属なのでよく顔をあわせているだろうが、私は普段関西での騎乗が多いのでこうやって揃うのは稀だ。

 しかも、ひとつのレースで四人が揃って騎乗するなんてことはそれこそなかなかない。

「俺はYJSで飽きるほどこいつを見たけどな」

 長谷くんが答えようと口を開くと、それより先にニヤケ顔で番場が答えた。愛は番場を冷たい目で睨む。

「……なに? 番場くん。最終ラウンドに出場してない私たちに対しての嫌味かしら? あと、私は長谷くんに聞いたんだけど」

「独り言だよ。なにか気に障ったか?」

「……ふーん」

「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ四王天さん。番場くんも」

 長谷くんが二人の間に割って入った。

「大丈夫よ。別に怒ってないし」

「俺も怒ってない」

 二人は時を同じくして顔を背けた。長谷くんは困ったように交互に二人を見やる。

「……大変だね。長谷くん」

 こんな面倒くさい二人の相手をしなきゃいけないなんて。そう口から出かかった言葉を飲み込む。

「……懐かしいなあ、この感じ」

 長谷くんがぼそりとつぶやく。

「え?」

「競馬学校の頃を思い出すよ。こんな風にいつも言い合いしたりして。日鷹さんもなにかあるとさっきみたいにそうやってよく眉間にシワを寄せてた」

 二人はともかくとして、私はそうだっただろうか。改めて言われると少し気恥しい。

 ひっそりと眉間を指でほぐす。

「……この前のシンザン記念、もっとうまく乗れたかもってずっと考えててさ」

「レース前にずいぶんと余裕だな」

 番場が冷たく言い放つ。

 少しムッとしたが、その通りだ。いま私は目の前のレースに集中できていない。

「クラッシュオンユーのこと?

 あのレースは勝ち馬が強すぎで運がなかったわね。でも、次で取り返せばいいじゃない。

 負けはしたけどあの馬はいい馬だと思うわよ」

「私もそう思う」

 だからこそ、私の乗り方にまずいところがあったはずだ。

「まあ、でも乗り方なら調教師の先生とか先輩騎手に聞いてみるしかないんじゃないかしら?

 私もスティレットっていう牝馬がいて、去年の桜花賞馬のロカに似てる馬だから刀坂さんにもアドバイスもらってるし」

「ずるい」

「ふふ、いいでしょ」

 愛は少し意地悪く笑った。

「番場くんもいい馬乗せてもらってるんでしょ? 名前なんていったっけ?

 ……番場くん?」

 愛の声のトーンが変わった。

 振り向いて顔を上げると、番場がゆっくりと姿勢を前傾させているのが見えた。

「……え?」

 違う。倒れかかっているのだ。

 慌てて駆け寄ろうとすると、長谷くんが私よりも一足早く番場を抱きかかえた。私はそれを支える形で寄り添う。

 一般的な成人男性よりは軽いと言っても、なかなかに重い。

「番場! ちょっとどうしたの!?」

「と、とりあえず横にしよう! ゆっくり、……慎重に」

 騒ぎを聞きつけ、続々と人が集まってきた。

 誰が呼んだか医師が駆けつけ、番場は救護所へと運ばれていく。レースを控えていることもあり、私はその遠くなる姿をただ静かに見送ることしかできない。

 その日、番場が騎乗予定だったレースはすべて乗り替わりになった。

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