第34話 新参者にはまだ早い
シンザン記念二週前。
アマクニが併せ馬で追い切りを行っている。鞍上は本番のレースでも騎乗する那須だ。アマクニは、先行する形でスタートしたオープンクラスの僚馬を悠々と抜かしていく。
「いい感じですね先生」
「うむ」
ダメもとだったがこのタイミングで那須に乗ってもらえるとはラッキーだった。
ここ二戦の中距離はいまいちパッとしなかったが、今回は距離を短縮してのマイル戦。母馬が短距離戦で活躍した馬だったこともあるので、おあつらえ向きの舞台になるだろう。
まあ、欲を言えばクラシック戦線を戦って生きたかったのが本音ではあるが致し方ない。牡馬のクラシックレースで最短の距離は皐月賞の二千メートル。この馬には少し長いだろう。
牝馬だったら桜花賞本命でプランを立てていけたが、たらればを言っていても仕様がない。三歳春にはG1レースであるNHKマイルカップも行われるのだ。そこに焦点を合わせていけばいい。この馬なら十分勝ち負けを狙える。
そのためにもこのシンザン記念で賞金を加算したいところだ。
「……菊原先生。
少し試したいことがあるんですけどいいですかね?」
調教を終えた那須がアマクニの馬上からこちらへと語り掛けてくる。
「ん? まあ、君が必要やと思うなら任せるけど」
「じゃあ、次のレースは控えて乗ろうと思うんですけど」
「? 控える? 後ろから行くんか?」
ふむ。たしかに、ここまでやってきたのはすべて先行の競馬。幅を広げるためにも溜める競馬でキレを試してみるのもいいかもしれない。
「ええ。追い込みでいきます」
そうそう、たとえば追い込みとか。
「……追い込み!?」
思わず声が裏返る。
正気か?
気性も悪くない、それどころか比較的操縦性の高いこの馬で逃げや追い込みなんかの極端な作戦を取る必要がどこにある?
控えると言っても中団前目で事足りるだろう。
それに追い込みは見た目が派手で強そうに見えるが、それは勝ったときの印象がほかよりも強く残るからだ。データで見れば前を行く馬が当然のことながら順当に強い。
「追い込みじゃなきゃあかんのか? 下手に乗ったらオーナーにも観客にもどやされるで。君だけやない、僕もや」
「はは、それはそれで見てみたいなあ。
――でも、心配しないでくださいよ。なにも考えなしに乗るわけじゃない」
那須は子供のように無邪気に笑った。
NHKマイルカップは五月初頭。ここで駄目でもまだ一度や二度レースに出す余裕はある。
「うーむ……」
那須はいつの間にかアマクニから降りてその頬を撫でていた。
「大丈夫。この馬、先生たちが思ってるよりもずっと強いですよ」
第三コーナー、淀の坂を登りきりレースは最終の第四コーナーへと入っていく。
先導する馬がいなかったこのレース、おそらく千メートルの通過タイムは六十秒を超過している。当初の読み通りレースはスローペースのまま。そろそろ仕掛け時だ。
前方に固まった馬群を避けるためにクラッシュオンユーを少し外に出す。
後は追い出しの瞬間を見極めるだけだ。大きく息を肺に吸い込む。
大丈夫。問題ない。
「……」
――今だ!
鞭を入れたその瞬間だった。大きな影がすぐ横を過った。
「! ……アマクニ!」
後方にいたアマクニがほぼ同時に先頭へ向かって進行を開始する。クラッシュオンユーへと馬体を併せられた。その圧が荒い息遣いと迸る熱とともに襲ってくる。
だが、これも想定の内だ。アマクニは外を回る私のさらに外を回らなくてはならない。まだ私のほうが有利な位置関係にある。
横を向くと那須さんと視線が一瞬交錯した。
「……なるほどね」
「え?」
那須さんはこちらを一瞥したあと、すぐに前を向いた。並んだかと思った馬体は、あっさりと私たちを躱していく。
呆けている暇はない。私たちもあとを追わないと。
「……いくよ! クラッシュ! ――クラッシュ……?」
鞭を入れたのにクラッシュオンユーに反応がない。
脚が上がった? いや、そんなはずはない。前走は同じ京都で今回よりも二百メートル長い千八百メートル。なによりこのスローペースでスタミナが切れるはずない。
「……なんで!?」
この感じは新馬戦以来だ。なんで?
考えろ!
新馬戦。あの時は砂を浴びて走る気をなくしていた。だが、芝を走るようになった今その心配はない。馬群に揉まれると興奮して行きたがるところもあったが、二戦目、三戦目と馬群から距離を取ることで解決した。
追い込み、つまり最後方からの後方一気がクラッシュオンユーの脚を生かす最も適した作戦だったはずだ。
「……まさか」
『後方から大外、飛んできたのはアマクニ! 先頭チェルニー、ボックスステップも伸びるがその差はもうほとんどありません!』
まさか、――アマクニに馬体を併せられたから?
アマクニは馬体重五百キログラムを超える大型馬。対してクラッシュオンユーは馬体重四百五十キログラムを切り、牡馬にしては非常に小柄な馬だ。
私たちが自分より体格の勝る相手にたじろいでしまうように、体格差というのは本能的な恐怖を刺激する。
もちろん、それをものともせず反発する者もいるが、クラッシュオンユーはそちら側ではなかった。
その恐怖心がクラッシュオンユーから走る気持ちを奪ったのだ。
『今ゴールイン!
一着、アマクニ! 大外一気、まさに名刀のひと振りで全馬撫で斬り! 見事な切れ味で一番人気に応えました!』
遠くでアマクニがゴールラインを駆け抜けたのが見えた。
レースを終えたアマクニと那須に駆け寄る。
「さすがや!
やっぱりアマクニはマイルがドンピシャやな! これで春はNHKマイルカップを目標に、ゆくゆくは安田記念にマイルチャンピオンシップも――」
「いや、日本ダービーを目指しましょう」
「……へ?」
日本ダービー?
口ではその言葉を反芻するが、声にならない。
那須は頷く。
「日本ダービーです。
このレースで確信しました。この馬ならダービーを取れる。
マイルもいいですけど、どうせなら一緒に夢見てみませんか? 菊原先生」
「……本気で言うとるんか?」
「日本ダービーがそんな軽い言葉じゃないことは先生もよく知ってるでしょう」
「……ダービー……」
本当に狙えるのか?
これまでの調教師人生、ダービーに出走させることができたのはただ一頭だけ。それも十何年も前のことだ。
また、あの舞台に立ってもいいのか。
「……わかった。君がそこまで言うなら行こう!
待っとれよ府中! 今度こそダービー獲ったるで!」
「はい、頑張りましょう」
シンザン記念。
寒空の下、歴史に刻まれた名はアマクニ。
この日からまた、クラシック戦線は激しさを増していく。
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