第33話 独ツ眼ノ竜

 競馬界に年末年始はない。

 いや、これは少し正確ではない。たしかに地方競馬にいたっては大晦日も元日もレースを開催しているので文字通り年末も年始もない。

 それに比べれば、中央競馬では年末の二十九日から翌年の四日までの七日間レースを開催していないので休みと言えば休みといえる。ただ、馬の世話は当然変わらずに行う必要があるので、普段の生活と特段変化を感じることはない。

 競馬は馬という生き物があって成り立つ商売。この仕事につく限りは当然の宿命と言えるだろう。

「あれ? 日鷹さん。どうしたんすか? 今日休みっすよね」

 馬房の手入れをしていた生島さんが顔を上げる。クラッシュオンユーは飼い葉に顔を突っ込んだままだ。

 うやうやしく新年のあいさつを交わす。

「今日はクラッシュが三歳になる日だから。会っとこうと思って」

 競走馬は誕生日に関係なく、一月一日に一斉にひとつ歳を取る。二歳になるとレースにデビューすることができ、年が明けて三歳ともなると一気に出走することのできるレースが増えてくる。

 ダービーを始めとする伝統あるクラシックレースも三歳限定戦であり、多くの馬はそういったレースを目下の目標として出走するレースを組み立てていくことになるのだ。

「……この前うちに入ってきたと思ったらあっという間っす。もうあと十日もしないうちに“シンザン記念”に出るんですからね」

「はい! はじめての重賞です! 私にとっても、クラッシュにとっても!」

「自分にとっても普段世話をしている馬が重賞に出るのは初めてっす。咲島厩舎が重賞に馬を出すのも久しぶり。

 ……楽しみっすねえ」

 生島さんが噛みしめるようにはにかんだ。

 そうだ、この重賞には私だけじゃなく、多くの人の想いが乗っている。

 白んだ空から朝日が顔を覗かせる。

 眩しさに思わず目を細めた。

「絶対に勝ちましょう! 絶対に……!」

 

 G3・シンザン記念。

 秋に行われる重賞・セントライト記念と並んで、三冠馬の名を冠する伝統の三歳限定の重賞戦だ(※1)。開催されるのは京都競馬場、芝千六百メートル。ここを勝った馬のなかにはダービー馬がいるのはもちろんのこと、牡牝問わず数多くの名馬が生まれてきた。

 「G」を冠する重賞レースは年間に開催されるJRAのレース全体でたった四パーセントほど。その認知度はもちろんのこと、興業的な面においても他の一般戦を圧倒し、JRAにとって重要な位置づけを担っている。

 出走それ自体が名誉であり、勝てばその栄光は未来永劫歴史に刻まれるのだ。

 騎手控室の外、パドックをシンザン記念に出走する競走馬が周回している。

 このレースの一番人気は先頭を歩くアマクニだ。

 右目に黒い遮眼革、いわゆるブリンカーを装着したその姿は一際目を引いた。

 馬は人が乗るためにさまざまな馬具を装着する。

 騎手の足を乗せるためのあぶみ、馬の背に置くくら、蹄を守るための蹄鉄、口に噛ませて馬を操作するために用いられる馬銜はみなどがそれだ。

 しかしながら、ブリンカー、それに類似するチークピーシーズなどは上記に挙げたそれらの馬具とは少し趣が異なる。これらは競走馬の癖や性格に合わせて用いられる矯正馬具であり、馬がレースで本来の力を発揮できるように用いられるものだ。

 たとえばブリンカーなどは、左右に三百五十度もある馬の視野(人間は左右二百度ほど)を狭めることで馬の集中力を高める効果がある。

 こうやって馬に合った馬具を選んで着けることで、馬は初めて“競走馬”として競馬場の土を踏むことができるのだ。

 アマクニはここまで三戦して一勝。新馬戦こそ圧勝だったが、続くオープン戦では二戦とも入着こそしたもの成績は振るわない。しかし、今回から鞍上が那須さんなこともあってか、二番人気のクラッシュオンユーとのオッズ差は思ったよりも大きかった。

「真面目な顔して、下手くそが一丁前に気負ってんのか」

「! 先生」

 咲島先生に背後から声をかけられる。

「気になるのか? アマクニが」

 まだなにも言っていないのに。こちらの考えていることなどお見通しというわけか。

「はい。大きい馬だなって。がっしりしてるっていうか」

 アマクニに目を引かれるのはなにもそのブリンカーだけが理由ではない。毛並みがいいパンパンに張った馬体、しっかりとしたトモ、堂々たる歩様は三歳ながらすでに貫禄すらある。

「アマクニは馬格から言っても中距離というよりはマイラー、芝よりはダート向きの筋肉質な馬だ。

 ここ二戦から距離を短縮してこのレースに臨んできたのもそれが理由だろうさ。中長距離の牡馬クラシックから切り替えてマイル路線に方針転換ってとこか。

 鞍上も替えてわざわざ那須を乗せてる。このレースはあいつらにとって試金石ってところだな」

 なるほど。

 観客もこのシンザン記念が行われる芝千六百メートルがアマクニにとって最適な条件だとみなしているわけだ。しかも騎手があの那須さんとくれば、新人の私との力量差は天と地ほどあるのは明白である。

 だが、私もこれまで手をこまねいていた訳では無い。

 多くの馬に乗ったし、レースを経験してきた。最初からすれば見違えるほどに上手く乗れるようになっているはずだ。

「……。上手く乗ろうとするなよ」

「え?」

 上手く乗ろうとするな? 下手に乗れということか?

「お前は馬鹿だから念のために言っとくが、下手に乗れって意味じゃねえぞ。ペーペーの分際で勝負に色気を出すなって言ってんだ」

「色気なんて……」 

 まあ、出してないと言えば嘘になる。当然この晴れ舞台、良い結果を求めることは当たり前だろう。

「――でも、春のクラシックに出るならレースに勝って賞金を加算しないと」

「それはお前が気にすることじゃねえ。だいたいお前、まだG1に乗れるほど勝ってねえだろうが。馬の心配できる身分か?」

「うっ……」

「相変わらず手厳しいなあ、咲島先生は」

「! 那須さん」

 いつの間にか近寄って来ていたのは那須さんだ。レース前だというのにその表情は柔らかく、普段と変わらない。

「こんにちは青ちゃん。今日はよろしく」

「はい! よろしくお願いします!」

「レース前にちょっかいかけるんじゃねえよ」

 咲島先生が毒づく。那須さんが苦笑した。

「そんなこと言わないでくださいよ。

 同期の、それも大洋の娘なんだ。少しくらいいいでしょ?」

「ここじゃなくてトレセンで好きなだけしゃべれ」

 那須さんは一言二言話したあと、アマクニの担当調教師のもとに戻っていった。その背中を目で追う。

「先生、あんなこと言わなくても……」

 咲島先生はこちらを無言で睨みつけた。

「? なんですか?」

「……お前、舐められてるぞ」

「え?」

 

 ゲートが開いた。

『スタートしました。

 揃ったスタートになりました。さあ、抜け出したのは――』

 このレースに出走する馬に明確に逃げたい馬はいない。押し出される形で先頭集団の馬どれかがレースを引っ張っていく形になるだろう。

 おそらくこのレースはスローペースになる。

 クラッシュオンユーと私が取る作戦はもちろん追い込み。レースの流れは向かい風だが、最後一着でゴールへと届くようにまくりのタイミングを計るのも騎手の腕の見せ所だ。

『――後方に控えたのはクラッシュオンユー、……! おっと、なんと一番人気アマクニがこの位置、最後方につけています。

 これは意外な展開です』

「!」

 最後方に位置取ったのはアマクニだ。

 アマクニはこれまでのレース、すべて先行策を仕掛けてきた。どういうつもりだ?

 後ろを振り返る。

 視界の隅で、那須さんが不敵にほほ笑んだ。

 

 

※1

 2024年現在、三冠馬の名を冠するレースは「日刊スポーツ賞シンザン記念」「朝日杯セントライト記念」「報知杯弥生賞ディープインパクト記念」の三レースありますが、セントライト(1938-1965)、シンザン(1961-1996)と比べ、ディープインパクト(2002-2019)が近年活躍した馬となるため、作品の世界観を優先して弥生賞を除いたシンザン記念、セントライト記念を「三冠馬の名を冠したレース」としました。

 ご了承ください。

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