第32話 ウサギとカメと大穴
「『偉大なる息子・アレクサンダー、朝日杯完勝。鞍上の由比は最年少G1勝利記録を塗り替える』か。まあ、一面はどう考えてもこれだろうな」
「ですね」
ユースフルジョッキーズシリーズの翌日、阪神競馬場で行われた朝日杯フューチュリティステークスで由比はG1初騎乗初勝利を飾った。
馬が強いことはもちろんだが、この状況でしっかりと勝利を掴んでくるとはなんとも末恐ろしい。
スポーツ紙に目を落としながら、編集長は加えていたタバコを手にして大きく煙を吐く。いまどき珍しい紙巻きタバコ、それも珍しい海外の銘柄なこともあり、その独特のニオイから数メートル離れていても編集長がいるのが分かるほどだ。もし犬が近くにいたらすぐさま鼻頭をしかめる事だろう。
「ホープフルの結果次第だが、ここまでの結果や華から言っても最優秀二歳牡馬はほぼ確定かな」
競走馬のデビューは数え年で二歳。
中央競馬において二歳で開催されるG1レースは、朝日杯フューチュリティステークス、ホープフルステークス、そして牝馬限定戦の阪神ジュベナイルフィリーズ、の三つだ。
通例このG1を制した二歳馬が最優秀二歳牡馬、最優秀二歳牝馬を受賞することになっている。前週に行われた阪神JFを勝った二歳牝馬筆頭のパリスグリーンと合わせて、アレクサンダーが表彰されることに疑いの余地はない。
「――しかし、馬だけじゃなくこの今年の新人も粒揃いだな。しかも実力だけじゃなく肩書まで凄いときてる。
エリート競馬一家である由比家のサラブレッドに、馬産を牛耳っていると言っても過言じゃない四王天ファームの令嬢。地方競馬の生きた伝説の息子に、悲劇の天才・鳶島大洋の一人娘なんて、胃もたれしちまうようなメンツだ」
「一人忘れてますよ編集長」
「ん? そうだったか?」
「……。
そうだ、今度の特集をそのルーキーたちにするのはどうです? クラシック前、ここが絶好のタイミングだと思いますけど」
「たしかに……」
編集長は宙をじっと見て、締まりのない顎を撫でる。たぷたぷと音がしそうだ。少しして目をカッと開く。
「よし! それでいこう!
ページは開けといてやる。いいネタたんまり仕入れてこいよ!」
「任せてください」
「――と、いうわけだ」
「おお! 待ってましたよこの時を!」
隣に座る末崎が思いのほか勢いよくこちらに身を乗り出してくる。
「ずいぶん、やる気があるじゃないか」
「僕もこの部署に来て一年目、いうなれば彼らと同期ですからね。やはり親近感というものがありますよ」
「そうか。ならちょうどよかった。
じゃあ、お前はこの騎手のところに行ってくれ。くれぐれも失礼のないようにしろよ」
そう言って資料を渡すと、末崎は奪い取るようにそれを腕に抱えた。
「はい! 頑張ってきます!」
アラームが鳴る。
暗闇のなか、音の出る恨めしい物体を手で探りアラームを止めた。
「……寒っ」
吐いた息が白い。暖房をつける。
カーテンを開けるが外はまだ深い闇のなかだ。
トレセンの朝は早い。冬場は七時から調教が始まるのでそれに合わせて取材を行う必要がある。
そのため、競馬記者は取材のために前泊するが多い。ここ筑波寮は美浦トレーニングセンターにほど近い競馬記者用の寮だ。取材する身としてはこの寮の存在はなんともありがたい。
身支度を整え、目的の厩舎へと自転車を漕いで向かった。
厩舎にはすでに人影がある。
「よ、よ、よろしくお願いします!」
「……よろしくお願いします」
こちらに勢いよく頭を下げたのは、新人の
こう言ってはなんだが、ほかの同期四人に比べて圧倒的に地味な存在だ。光に対する影。いや、強すぎる光のもとでそれすらもおぼろ気である。
「でも僕なんかに取材に来るなんて……、本当はほかの四人のほうがよかったんじゃないですか?」
「え!? ……あ、いや、そんなことは」
「とりあえず僕はいつも通りやればいいですかね? あんまり取材とか慣れてなくて」
「あ、それでよろしくお願いします」
「わかりました。今日はよろしくお願いします」
こちらにもう一度深く頭を下げて、長谷騎手は馬のもとに向かった。
頭を掻く。取材対象に頭から気を使わせてしまった。これではいけない。自らの頬を軽く叩く。
「よし!」
取材対象が誰であれ、いい記事を書くだけだ。
黄色いヘルメットをした長谷騎手が馬にまたがりBコース、ウッドチップを走る。
朝から乗ってこれで二頭目の調教だ。今日は五頭乗ると言っていたので、調教時間いっぱいここで馬に乗ることになるだろう。
満足にレース数を確保できなかったり、勝ちを重ねられない騎手にとって、こういったレース開催日以外の調教料は少額だが大事な収入の一部になる。所属する厩舎の業務や、こういった調教の経験を重ねていくことで新人騎手は着実に成長していくのだ。
競馬場での華やかさにばかり目を引かれてしまうが、こういった日々の積み重ねが未来の名レースを生んでいる。
「……うーむ」
頭に浮かぶ文章はなんとも平凡だ。
こんな内容なら別に彼に時間を割いてもらってまで取材をする意味がない。
そもそも美浦トレセンなら彼以外にも四王天騎手や番場騎手がいるのに。彼らのことだったらもっと面白おかしく書けるだろう。
しかし、今回任された騎手は長谷騎手だけだ。
「……ずるいなあ、先輩は」
「なにがずるいんですか?」
「うわっ!」
いつの間にか長谷騎手が立っていた。
「す、すいません! 驚かせるつもりはなくて。
あの、一度朝食で休憩を挟むんで、その連絡をと思って」
「え? ……ああ、じゃあついていってもいいですか?」
「もちろんです! あ、でも少しお見苦しいところを見せてしまうかもしれないんですけどあまり気にしないでくださいね」
「?」
食堂の席に着くと、長谷騎手はおもむろに分厚くまとめられた紙を広げた。
「それは?」
「今度乗るレースの資料です」
ということは今週末のレースか。だが確かさっき所属厩舎の調教師から聞いた話だと一レースの騎乗だけだったと聞いたが、それにしては分厚い資料だ。
「これ、同期の番場くんがやってるのを見て真似してるんです。だから形からってわけじゃないですけど。出走してくる馬の特徴は覚えておかないと」
長谷騎手は恥ずかしそうに笑った。
「もしかして全部の馬の情報を? その量を覚えるんですか?」
長谷騎手は頷く。
「のびしろ……いや、そんな大層なものじゃないかもしれないですけど、僕にはやれることもやらなきゃいけないこともまだまだたくさんあるんで。これくらいはやらないと」
「すごいなあ……」
「はは、これでちゃんと勝ててたら格好がつくんですけどね」
「でもまだ一年目だしそんなに焦ることないんじゃないですか?」
長谷騎手は力強く首を振った。
「早く追いつきたいんです」
「え?」
一瞬、長谷騎手の顔から自信なさげな表情が消えた。
「まだ一年目の騎手なんだからってのはその通りだと思います。でも、一歩一歩着実になんて悠長なのは嫌なんです。
……ウサギとカメって話ありますよね?
それでいくと彼らは足の速いウサギで、僕はカメ。でもウサギがさぼってくれるのは童話のなかだけで、それどころか現実では僕なんかよりずっとずっと負けず嫌いで努力してる。
みんな、彼らは天才だとか才能があるからとか言うんですけど、そんなので片付けるのは番場くんたちに失礼だと思うんです。僕がみんなを一番近くで見てきたから」
「……」
「だからやれることを全部やって、少しでも早く、少しでも近くに行きたいんです」
長谷騎手は資料に目を落とす。
騎手や取材でざわつく食堂で、目の前で静かに紙をめくる音がやけに耳に残った。
午前中の調教を終えたあとも長谷騎手は慌ただしく動き回る。
昼食ののち、厩舎の清掃、飼い葉の用意、スタッフとレースや今後の調教の方針の打ち合わせなど大忙しだ。空いた時間には他厩舎への挨拶、手持ちの資料の確認と、一時たりとも休む様子が無い。
こちらもついていくだけで精一杯だ。
「今日は取材ありがとう」
「! 舟木先生」
長谷騎手が所属している舟木厩舎の調教師だ。舟木先生は穏やかな口調で話を続ける。
「……どうだい新平は? 頑張ってるかな?」
「はい。ものすごく」
その言葉に強く頷く。
「そうか。よかった」
舟木先生の表情が少し緩んだ。
「彼の頑張りは美浦にいる人間ならよく知ってる。
……けれど僕たちが生きているのは勝負の世界。結果がすべてだ。努力だけでは金を稼げない。それはこの世界で飯を食べている以上当たり前のことだ」
舟木先生の言う通り、テレビで華やかに映る騎手の陰には日の目を浴びることのない多くの騎手が存在している。
長谷騎手もまさにそうだ。
「――でもね、僕たちも人間だ。その頑張りに応えられない自分たちに歯痒さを感じるのもまた事実だよ」
「……」
長谷騎手は少し離れたところで念入りに厩舎の清掃をしている。いてもたってもいられなくなり、そこまで駆け寄った。
「長谷くん!」
「! どうしたんですか? そんなに慌てて」
驚いた様子でこちらを振り返る。乱れた息を整え、両の肩をむんずと掴んだ。
「長谷くんはカメじゃなくて大穴なんだ!」
「……はい?」
「僕はほかの四人に比べて君がウサギとカメほど離れてるとは思わない!
たしかにさぼらないウサギをカメが追い越すのってすごい難しいと思う。でも、競馬の世界では違う!
最低人気、大穴の馬だって一着になることがある!
それはまぐれかって言ったらそれだけじゃない。その馬にも実力があった。僕たちがちゃんとそれを見抜けなかっただけだ」
「は、はい……?」
「えっと、だから、その……君はそれくらいどでかいことを起こせる騎手だ!
同情なんかじゃない、君はきっとほかの四人に負けないくらいの騎手になるって信じてる! いや、きっとなる!」
長谷騎手はぽかんとした顔のままだ。
冷静になると自分のことながら支離滅裂なことを言っている。頬が熱くなるのがわかった。
「……ごめん、ちょっと熱く――」
「ありがとうございます」
長谷騎手は恐縮するように頭を掻いた。
「それじゃあ、頑張って期待に応えなくちゃですね。カメじゃなくて馬なんだから、もっと速く走れるように」
そう言って彼は照れくさそうに笑った。
背筋を伸ばし椅子に体を預ける。誰もいない事務所に椅子が軋む音が大きく響いた。
ようやく原稿を粗方書き終わった。今日はこれくらいでいいだろう。仕事納めまでみっちり仕事してしまった。労働万歳。
タイムカードを切ろうとすると、ちょうどコンビニ袋を持った末崎が戻ってきた。
「お疲れ。まだ残るのか?」
「はい! いい記事が書けそうなんです!」
「ふーん……」
仕事に熱心なのはいいことだ。まあ、あまり期待しすぎないで待っておこう。
「――じゃあ、また来年。無理すんなよ」
タイムカードを打刻機が飲み込む。
「はい! それでは良いお年を!」
返事をするように、小気味いい音が短く鳴った。
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