第31話 綾錦、絡みほどけて夢を編み
逃げるのはおそらくインシークレットだ。
この馬は前走、前々走大逃げで上位の着順と結果を出している。騎手が変わっても十中八九その乗り方は変わらないだろう。
したがって隊列は自然と縦長になるはずだ。
中山ダート千八百メートルはスタンド正面右手、上り坂の手前からスタートし、内回りを一周したあともう一度坂を登る。
逃げ・先行が有利であるのは間違いないが、重い中山のダートも合わさって非常にタフなレースになることだろう。最後の第四コーナーで好位を取った者が勝利を手にする。
ゲートが開いた。
『――スタートしました。
揃った――いや、出遅れましたか、インシークレット。これは波乱のスタートになりました』
「……!」
インシークレットのダッシュがつかない。儚くもそのまま馬群に飲み込まれてしまった。想定外の展開に馬群が明らかに動揺を見せる。
逃げ馬不在のままレースはスタートを切った。
馬群は第一コーナーに入る。互いに牽制し合い、ペースは上がらない。先頭集団は団子状態だ。
優勝候補筆頭、マックザナイフに乗る由比はそれに巻き込まれている形。図らずもそれは由比を囲む護送船団のようである。
しかし、こう前が固まっているとこちらとしても抜け出せない。
「……」
――焦るな。
これはチャンスだ。
優勝をほぼ手中に収めている由比が馬群に飲まれた。このままずるずると行ってしまえば、最後の追い出しで前が壁になり大敗もあり得る。
由比を囲んでピクリとも動かない馬群。言葉を交わさずとも騎手たちが考えていることは同じだろう。この流れになった時点で、彼らの腹は決まったも同然。
マックザナイフと由比に対する消耗戦だ。
そうなれば有利になって来るのは誰になるのか。上体を少し上げて前を見る。
「――剣くんか」
護送船団の前目、追い出しに影響が少ない場所に位置するウェスタリーズ、つまりそれに乗る剣くんへ有利な流れができる。
おそらくレースに参加している騎手のほとんどがそこに集中していることだろう。
ならば、私は第三局から漁夫の利を狙う。
幸いなことに、集団の意識から外れて私の乗るヒューストンスターは全くのノーマーク。ならばじりじりと好位につけ、最後に馬群を避けて外を回って差す。
――いける。大丈夫だ。
「勝つのは私だ……!」
最悪だ。
このレース、由比に対してマークできたことはプラン通りだったが、インシークレットのここまでの出遅れは想定外だった。
位置取りは馬に囲まれた由比のさらに後ろ。レースのペースは平均より遅い。このままでは最後の直線で馬群がばらけず、進路を見つける事さえひと苦労だろう。
レースはすでに第四コーナー目前。もうすぐレースは終わりを迎える。
「……チッ」
俺はなんのために
一戦目は競争中止、そして二戦目はこの有様。今日もいつもと変わらない乗り方で馬に乗った。
そうだ。ただ運が悪かった。それだけだ。
「……」
――いや、違う。
手綱を握る手に力が入る。
迷ったままレースで馬に乗ってしまった。いままで迷う暇もないくらいにがむしゃらに乗ってきたのに。よりによって、今日ここで揺らいだ。
いや、ここだからこそか。
意識していなかったと言えば嘘になる。
中山競馬場。
いつも走る船橋競馬場からこんなにも近くにあるのに、ただただ憧れる事しか叶わなかった場所。意識するなという方が無理な話だ。
『先頭集団まだ動かない! 残り三百メートルしかありません!』
進路は閉ざされたまま。
それどころか圧迫感はさらに増した。視界が狭く暗くなる。まるで中山競馬場が俺を拒んでるかのようだ。
「……ひでえな。あんなに通ったのによ」
『先頭抜け出したのはウェスタリーズか! ロードトゥトップが続きます! 大外から仕掛かけてきたのはヒューストンスター! マックザナイフは馬群のなか、まだ出てきません!』
もうどうしようも――。
「行けえ!! 坊主!!」
「……え?」
その時、わずかに前方に光が差した。
由比が乗るマックザナイフがわずかに開いた馬群の隙間を縫ってラストスパートをかけたのだ。当然、目の前にスペースができる。
――ここしかない。
ロアリングウェーブに鞭を入れる。
そうだ。なにを迷うことがある。
もっとうまい乗り方はあるのかもしれない。でも、いまの俺にはこれしかできない。
ロアリングウェーブは先頭に向けてぐんぐんと加速していく。
絶対に一着を取る。
『ウェスタリーズ先頭! 内からマックザナイフ、外からはヒューストンスターが襲い掛かる!
! おっと、ここで内々を急襲してきたのはロアリングウェーブ!』
それが、俺が憧れた“すごい騎手”だから。
目の前のゴール板をほぼ同時に四頭の馬が通過する。
『――四頭横並びでいまゴールイン!
わずかに抜け出したのはウェスタリーズか! 二着争いは三頭接戦です!』
「なんだよびっくりするじゃねえか急に立ち上がって」
「え? ああ、すんません。つい興奮しちまって」
男は後ろに座る観客に平謝りし腰を下ろした。隣に座る老人がニヤリと笑い男を肘で小突く。
「おい、どいつに賭けたんだよ? やっぱりマックザナイフか?」
「残念。ハズレ」
「じゃあどいつに賭けたんだよ? 教えろよ、減るもんじゃなし」
「……そりゃあもちろん、一番すごい騎手にですよ」
くたびれたキャップを後ろ被りにして、男が笑った。
「千崎」
背後から声を掛けられる。立っていたのは日鷹だ。
「……。なんだよ四位」
「うわっ、自分は五位のくせによくその態度取れるね。びっくりなんだけど」
最終戦の結果は、一着がウェスタリーズの剣、二着三着で俺と日鷹が入線。由比が乗るマックザナイフは四着だった。
最終ポイントは剣が八十三ポイント。由比の八十二ポイントをわずかに一ポイント上回り単独で優勝を飾った。皮肉なことに剣の優勝に一役買ったというわけだ。
遠く、スタンド正面では表彰式の歓声が聞こえる。三位までに入れなかった俺たちには関係ない。
「運が悪かっただけだ。本当なら俺が優勝してた」
「競馬にタラレバもニラレバもないって先生がこの前言ってたよ」
……ニラレバ?
「……で、なんの用だよ。傷の舐め合いをする気はないぞ」
「私もないよ。はい、これ」
日鷹が差し出してきたのは俺のグローブだ。さっき外した時に落としたのか。
日鷹の手からグローブを受け取る。
「……悪い。ありがとう」
「じゃ、ちゃんと渡したからね」
そう言うと日鷹が振り返り立ち去ろうとした。
「日鷹」
「? なに?」
日鷹はその場で立ち止まる。
「俺はもっと上手くなる。
一着を取るだけじゃない。誰もが認める騎手になって中央に行く」
「なんで私にそれを?」
「……別に。たまたまお前がいま目の前にいたからだよ」
「ふーん。いいじゃん」
日鷹はにやりと笑ってこちらに白い歯を見せた。
「また、戦うの楽しみにしてる。同じノッキンオンハートのファンとしてもね」
どちらかといえばノッキンオンハートではなく岸さんに憧れたのだが、まあいいか。
日鷹がおもむろに右手をこちらに差し出した。握手でもしようというのだろう。
「……そういうのは趣味じゃない」
日鷹は下唇を尖らせる。
「わがままだなあ。じゃあ、はい」
そう言って、日鷹は右の手のひらを挙げた。
「これならいい?
次やる時はもっと上手くなっといてよ。私はもっとずーっと上手くなるんだから」
「……そうこなくちゃな」
日鷹の右手を叩く。乾いた音が短く響いた。
薄暮れる中山。
ひととき交わった糸は再びほどけ、それぞれの未来を織りなしていく。
若人たちは長き戦いを終え、ユースフルジョッキーズシリーズは終幕を迎えた。
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