第30話 “すごい騎手”
「ひでえ顔だな、おい」
「……おっちゃん」
おっちゃんが隣に腰を下ろす。嗅ぎ慣れたタバコの残り香がした。
中央競馬騎手養成課程の入学試験、万全の準備で挑んだが一次試験で不合格。二次試験にすら進めなかった。
「また来年受けりゃいいんじゃないか?」
「……うちにそんな余裕ないよ。
母さんにも受からなかったら高校に進学しろって言われてるし」
「ママに言われたから大人しく引き下がるのか。お利口さんだな」
「……! なんだよその言い方! 俺だって――」
「ほれ」
おっちゃんが封筒をひとつこちらに差し出した。受け取らない俺に向かって再度封筒を突き出す。しょうがないので渋々受け取った。
「なに、これ?」
「地方競馬の騎手候補生の募集要項と資料だ」
「地方競馬?」
おっちゃんの言う通り、封筒に入っていたのは地方競馬のだろう騎手候補生試験のための応募書類一式だった。
「そう、地方競馬だ。
なにも騎手になれるのはJRAだけじゃない。日本には地方競馬がある。たとえばほら、すぐ近くに船橋競馬場があるだろ? あれも地方競馬の競馬場だ。
地方競馬のほうは試験が年明けだからまだ受けれる」
「地方競馬に行っても有馬には乗れる?」
「知らん」
おっちゃんの返答はにべもない。
「なんだよそれ。そんなの――」
「乗れないって言ったら諦めるのか?」
「うっ……」
「まあ、普通は乗れないだろうな。
中央と地方はまったくの別組織だし、地方騎手が中央のレースに出走するだけでもいろんな制約をクリアする必要がある」
それでは意味がない。
あの舞台に立てなければ、騎手になる意味が。
「……だったら――」
「だがこれはあくまで並の騎手の話だ。
地方でも群を抜いて活躍すれば中央に移籍するチャンスもある。実際に地方から移って中央のG1タイトルを取った騎手の例もひとつやふたつじゃ足りない。今だって例えば
お前は“すごい騎手”になるんだろ? だったら不可能じゃないさ。
……ま、決めるのはお前だ。無理強いはしねえよ」
手元の書類に再び目を落とす。
これが俺が騎手になるためのラストチャンス。
「……しっかし、お前が諦めちまったらこの帽子のサイン、ただの落書きになっちまうなあ。
高かったんだぞこの帽子。なんせタイタンズの十数年ぶりの日本シリーズ優勝記念だったん――」
「やるよ、俺」
「……ん?」
「地方競馬の、騎手候補生試験を受ける。そして、次こそ絶対に合格してやる!」
おっちゃんの口角がぐっと上がる。
「いいね! そうこなくちゃな!」
おっちゃんに背中を勢いよくたたかれた。
「ちょっと、痛いよおっちゃん」
いまでもよく覚えている。
この日がおっちゃんに会った最後の日だった。
「くそっ!」
誰もいない男子トイレに声が反響した。目の前の鏡を睨みつける。
絶対に勝たなければいけなかった。
中山の初戦、競争中止により獲得できたポイントはわずか1pt。仮に最後のレースで一位を取ったとしても現時点の一位である由比の得点には届かない。
つまり俺のYJSでの優勝の可能性は完全に潰えた。
中央の奴らを倒して、俺の実力を示す絶好のチャンスだったのに。
こんなところで足踏みしている暇はないのに。
「早くしないと遅れるよ」
顔を上げると入口に岸さんが立っていた。
「……岸さん……? どうしてここに?」
「別に君を追いかけてきたわけじゃないよ。僕も用を足しに来ただけだ」
洗面台の鏡に後ろを通り過ぎる岸さんが映る。暫し沈黙が流れた。
「さっきのレース、あまり責任を感じないほうがいい」
岸さんが静かに話し出す。
「……」
「イカロスエースの怪我は幸い骨折じゃなかったし、最悪のケースは回避できた。
君の乗り方は認めない。けれど、馬の故障は騎手の責任だけじゃない。イカロスエースは最近使い詰めだったみたいだしね」
――うるさい。
「それに関係者が細心の注意を払っていても競走馬は生き物だ。故障を完全に防ぐことはできない」
――うるさい。うるさい。
「だからこそ――」
「うるさいんだよ!!」
思わずざらついた感情が口をつく。
岸さんはゆっくりとこちらを向いた。その目は年下の暴言に動揺する様子も、ましてや憤る様子もない。
「馬が故障したかどうかなんてどうでもいい!
俺はレースで一着を取るために乗ってるんです!
俺みたいなコネもツテもない騎手にとって目の前のひとつのレースがどれだけ大事かあなただってわかるでしょう?
結果がすべてなんですよ!
勝たなきゃ次のレースはない! 勝たなきゃ全部無意味なんだ!
あなただってそうやって生き残ってきたでしょう!」
「……」
息が上がる。大きく肩が上下した。
岸さんは両目を瞑り、そしてゆっくりと開ける。再び開いたその瞳はぞっとするほどに冷たかった。
「……!」
思わず半歩後退る。
「……手を洗いたいんだけど、どいてもらってもいいかな?」
岸さんはそう静かに言った。
言われるがまま道を開ける。岸さんはゆっくりと洗面台へと歩き、手を洗って出口へと歩を進めた。
「……生意気言ってすみませんでした」
「……。顔洗ってから行きなよ。ひどい顔だ」
そう言い残すと、こちらを振り向くことなく岸さんは去っていった。
八月に始まったユースフルジョッキーズシリーズもついに最後のレースを迎える。
長い戦いだった。いや――。
「――あっという間だったな」
いろんな人と出会い。たくさんの経験をした。
それもついに終わる。
レースで与えられるポイントは一着の30ptから順に、二着20pt、三着15pt、四着12pt、五着10pt、六着8pt、七着6pt、八着4pt、九着2pt、十着以下1ptだ。競争中止の場合は最下位と同じポイントが与えられることになる。
そして、残り一レースを残して優勝の可能性が残っているのはこの四人。
YSJファイナルラウンド 順位(YJSファイナルラウンド中山 第一戦終了時点)
1位
2位
3位
4位
三年目の車川さんを除く、私を含めた三人が一年目の騎手だ。
一方で優勝候補大本命だった千崎は37pt。中山第一戦、不運の競争中止(1pt)の影響で優勝戦線から脱落してしまった。
現在一位の由比はここまで二着(20pt)、二着(20pt)、一着(30pt)で合計70pt。最終レースで三着(15pt)以上で入線すれば、他の選手の順位に関わらず同率以上の優勝が確定している。
「えーっと……私の点数が四十四点だから……由比との点数差は二十六点……。車川さんとは……」
得点を指折り数える。
優勝するためには私の一着はまず絶対条件。そして、同時に由比が八着以下、車川さんが三着以下であれば優勝するための条件を満たす。
「ふん、無駄な皮算用か?」
隣に立つ千崎がこっちを見て鼻で笑った。
「……自分が優勝できないからって私に当たらないでくれる?」
「あ? 当たってねえよ。
無駄だから無駄だって本当のことを言ったんだ」
「予選ダントツのポイントだったアンタがコケたんだから、由比だって車川さんだって最後にコケる可能性全然あるでしょ」
「お前がもし一着になれるなら意味がある仮定だな」
「なるよ」
「……ハッ、随分と自信が――」
「なる。
私は早く
「……」
「ここには優勝しに来た。誰に何と言われようとそれは変わらない。私は、誰にも負けないくらいすごい騎手になる」
千崎は一度目を見開いた後、苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらから視線を外した。
目線を上げると目の前ではパドックを大勢の人が見守っている。騎乗命令までもうすぐだ。
「ありがとね」
「は?」
千崎がぎょっとした顔でこちらを見る。
「千崎が一戦目で乗ったストロングフィズ。
私、中央であの子に乗ってたんだけど結局一回も勝てなかったんだ。けど、アンタはあっさり勝たせちゃって……。
悔しかったな」
「……別にお前のために勝ったわけじゃない」
「そういうことを言いたいんじゃないよ。
千崎みたいに同い年で私より上手い騎手と戦えて良かった、ってこと。
――まあ、あんたの性格はあんま好きじゃないけどね。早く直したほうがいいよ」
「……うるせーよ、ばか」
晴天の下、騎乗命令がかかる。
最後の戦いが始まろうとしていた。
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