第29話 折れた翼
少し背伸びして掴んだ父の手は、母と違いごつごつとして大きかった。
幼い頃は父が競馬好きだったということもあり、よく中山競馬場に家族で出かけた。なぜ馬が走っているのかは理解できずとも、普段なかなかお目にかかることのない生き物がすぐ目の前を走っているという事実、それだけで子供ながらに心が躍った。
十歳の誕生日。父が交通事故で死んだ。
電話に出た母が膝から崩れ落ちた姿を今でも鮮明に覚えている。その後近くの少し小さいアパートに移り、母と二人で暮らした。
父がいなくなってからもひとりで中山競馬場に通った。
そこまで競馬が好きだったのかと言われればそうではない。ただ、行くのをやめてしまえばいままでの世界、その全てが変わってしまったのを認めてしまうようで怖かったのだと思う。
レースが開催される週には土日のどちらかは必ず中山競馬場を訪れた。何年も何年もそれは続いた。
月日が流れ二◯☓☓年十二月☓☓日、有馬記念。
いつもより混み合う中山競馬場で呼吸も忘れてその姿を目で追った。
衝撃だった。
「……すっげー……」
無敗の三冠馬を破り、中山競馬場を飛ぶように駆けるノッキンオンハート、そしてそれに跨る岸さんの姿はひとりの多感な少年の未来を決めるには十分すぎるものだった。
俺も、騎手になりたい。
「あ? なんだ坊主、騎手を目指すのか? やめとけやめとけ、馬券買えなくなるぞ」
「別に買えなくても困んないよ、おっちゃん」
「寂しいこと言うなよ。お前が馬券買えるようになったら当て方教えてやろうと思ってたのによお」
「そんなこと言って、いつもハズしてばっかじゃん」
おっちゃんは下唇を突き出し、大袈裟に肩を竦めた。
おっちゃんとは競馬場に通っているうちにいつの間にか仲良くなった。名前は知らない。おっちゃんもこちらの名前を知らないし、聞く素振りも見せなかった。おっちゃんは「おっちゃん」、俺は「坊主」。それで良かったし、それがちょうど良かった。
「騎手になって有馬記念に出るんだ。絶対に」
「でけえ目標だな。そんな簡単に出れねえぞ」
「出るの。決めたから」
「ははは、それじゃあ、将来のスターからサインのひとつでも貰っとくか」
おっちゃんは自分の被るくたびれた野球帽を指さした。
「ええ……、なんかほかにないのかよ」
「応援馬券にこれ以上は賭けられねえなあ」
「絶対後悔するよ。すげー騎手になるんだから、俺」
「じゃあ、その時また書いてくれや」
そう言っておっちゃんは俺の頭を乱暴に撫でた。
父に似た、ごつごつとした手だった。
『スタートしました。
ちょっとばらついたスタートです。抜け出したのはパーヘリオン、その後ろヒールストーン、少し離れイカロスエースが続きます――』
中山競馬場の芝コースには、三コーナーからニコーナーにかけてを共有した山型の外回りとオーバル型の内回りの二通りの設定がある。
そしてこのレース、中山芝二千メートルは内回り。
スタート直後から坂を登りながらのタフな先行争いになる。一周が短くカーブの角度がきつい小回り、そして最後の直線が三百メートルほどしかないこともあり、ローカル競馬場を少し大きくしたイメージだ。
最後の直線、一瞬の末脚のキレだけでは届かない。前を行く馬にしても後ろで控える馬にしても長くいい脚を使える馬が中山では強い。
「――だからどうした」
イカロスエースをヒールストーンのすぐ後ろにつける。そんなことをごちゃごちゃ考えなくても競馬の鉄則は“好位追走”。集団前方に位置取り、最後に抜け出しで勝ちを奪い取る。
馬の力なんか関係ない。俺が勝たせればいいだけだ。
いままでもそうしてきた。
これからもそうだ。
先頭に立ったのは車川さんの乗るパーヘリオン、二馬身ほど後ろを走るには藤代さんのヒールストーン、そしてすぐ後ろに千崎のイカロスエースが構える。
その後ろは団子状態。私とバルチックメイデンもここだ。近くでは由比や番場も控える。
中山競馬場の内回りは俯瞰すれば単なる小回りのコースだ。
だが、この競馬場の最大の特徴はその高低差にある。コース全体の高低差四・五メートルは中央競馬にある十場のなかで最大だ。この容赦ない起伏はレースの中でじわじわと競走馬の体力を奪う。
芝レース未経験の騎手が半数を占めるこのレース、そのほとんどが平坦な地方競馬のコースしか経験していないなかで彼らはどう出ていく?
未経験のコース、慎重に控えるだろうか?
「……」
いや、前半戦を終えて上位と下位のポイントの差が開いた今、優勝を狙うならセオリー通り勝ちの目が高い前目にポジションを取るだろう。そうなれば否応なくレースのペースは流れる。
だったら私は控えるだけだ。
勝負所は四コーナー手前、残り六百メートル。そこからまくって勝負に出る。
中盤、隊列は崩れることなくレースは淡々と進行する。三コーナーを回り残り六百メートルを通過した。
「……よし!」
バルチックメイデンに鞭を入れる。
第四コーナーを抜けるとすぐに最後の直線だ。
三百メートルで二・二メートルの高さを一気に登り切らなければいけない。実際にレースで走るとその直線は坂というよりも壁として私たちに立ちはだかる。
このペース、前を行く馬は絶対に失速するはずだ。
「来い!」
全部躱して私が一着を取る。
『さあ、最後の直線! 先頭集団は伸びてこない! 後続馬が一斉に襲い掛かります!
――おおっと、ここで馬群の間、狭いところをイカロスエースが上がって来る!』
前を行く馬が次々と失速していくなか、イカロスエースは速度を上げた。やはり千崎、その実力は伊達ではない。
それでこそ勝負のし甲斐が――。
「……!」
その時、目の前を走るイカロスエースの歩様のリズムが突然乱れた。
これは――。
「――“故障”……!」
『……ん? なんと、ここでイカロスエースに故障発生です!』
みるみるうちにイカロスエースが失速する。追い出しにかかっていた馬群はイカロスエースを避けるように大きく割れた。まともにその煽りを受けバルチックメイデンが失速を余儀なくされる。
「くっそ……!」
――あんな乗り方するなら騎手やめたほうがいいよ。
さっきの岸さんの言葉が頭をよぎる。
「! ……そうか……!」
あれは千崎の技術の巧拙を言っていたのではなかった。千崎の乗り方が及ぼす馬への負担について言っていたのだ。
由比が乗るレディバードが大外からまくりあがる。
『一着レディバード! 二着は三頭接戦です! わずかにパーヘリオン残したでしょうか。
さあ、YJS中山第一戦を制したのは由比騎手! 第九レースの最終戦を残し、これで七十ポイント、暫定トップに躍り出ました!』
「ああ……」
末崎はがっくりと肩を落とし手で顔を覆った。
コース上では千崎が下馬し、イカロスエースに寄り添う。厩務員やJRAのスタッフも慌てて駆け寄っていった。スタンドの観衆もその様子を固唾を飲んで見守っている。
競馬のレースにおいて故障とは時に“死”と同義だ。
サラブレッドは平均五百キログラムほどの体重をあの細い四本の脚で支えている。それは速さを求めた末の極限まで洗練されたフォルムであるが、それと引き換えにしてサラブレッドはあまりにも繊細な生き物になった。脚の一本でも歩行に支障をきたすような怪我をしてしまうとまともに生命を維持することすら困難になってしまうほどだ。
怪我の程度にもよるが酷い場合には予後不良の診断が下され、その場で安楽死の処置が施される。
故障発生とはそれほど気の重くなる出来事だ。
「千崎は馬を動かす技術に長けている。
それはつまり、馬の力を限界まで引き出す事ができるということだ。
――そして今回、ついに超えてはいけない一線を超えてしまった」
人も動物も無意識のうちに自らの力をセーブしている。余白とでも形容できるその力を余すことなく引き出すことができれば、最大限のパフォーマンスが発揮されることだろう。
しかし、それはあくまで机上の空論にすぎない。
限界など千差万別。それを少しでも見誤れば惨事を引き起こす。完璧に扱うことができるというならばそれこそ神の御業だ。
「……千崎も気の毒な奴だ。
その才能に、その技術に、経験が追い付いていない」
若さとはなんと可能性に満ち、なんと残酷なものだろうか。
「……なにもなければいいが」
つぶやいた言葉が冷たい風に流れて消えた。
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