第28話 あの冬の憧憬

 木曜に船橋競馬場でおこなわれたYJSファイナルラウンドの前半戦を終え、私たちは土曜の中山競馬場でのレースのために中山競馬場にある調整ルームへと入った。

 中山競馬場は船橋競馬場と同じく船橋市内にあり、直線距離でわずか六キロメートルほどしか離れていない。時間に余裕もあるということで、明日のレースの下見を兼ねて何人か連れ立ってコースへと赴いた。

 私自身、中山競馬場を走ったのは競馬学校時代の模擬レースだけだったのでちょうどいい機会だ。

「……痛っ」

 吹き抜ける冷たい風が左頬を撫でる。いや、もう思い切り引っ叩かれたといったほうが正しいかもしれない。それくらいに腫れた頬に風が沁みる。

 昨日のレース中になにか硬いものが当たったらしく、アドレナリンが出ているうちは良かったのだが、痛みに目が覚めて鏡を見るとなんともひどく腫れあがっていた。

 ガーゼが貼られた頬を撫でる。

「……最悪。もうお嫁に行けない」

「そんなのなくてもお前を嫁にする物好きはいねえだろ」

 番場が実に愉快そうに笑った。

 その無防備な脛を思いっきり蹴り上げる。番場は声にならない声を上げてうずくまった。そのまま中山競馬場の肥やしになってしまえ馬鹿者。

「……すごいなあ、中山は」

 剣くんがスタンドを見てこぼす。

 剣くんが所属している佐賀競馬場は収容人数一万五千人、昨日の船橋競馬場も収容人数三万人を誇る立派な競馬場であるが、中山競馬場のそれは十八万人とそれらを軽く凌駕する。さすが東京、京都、阪神と並ぶJRAの主要四場といったところか。

「ここで明日走るんだ。なんか、実感が湧かないな……。

 日鷹さんたちはこういう場所で毎週競い合っているんだね。羨ましい……いや、少し怖いかな」

 ホームストレッチの前に鎮座する観客席には今は人影がないが、レース日、それもビッグレースともなればこのスタンドを埋め尽くすほどの人が詰めかける。

「慣れると楽しいよ。ワクワクするっていうか、こんなに注目されてるんだって。……まあ、吐きそうなときもいっぱいあるけどね」

「……はは、それはちょっと遠慮願いたいかな」

 剣くんは口元を引きつらせて笑った。

「そうだ、明日は夏ちゃんも佐賀から来るんだよね?」

「うん。来なくていいって言ったんだけど。日鷹さんたちにも会いたいから、って」

「じゃあ、私もいいところ見せないとね」

 それでなくても中山競馬場は特別な場所だ。

 あの日、この場所で有馬記念を見ていなかったら私はここにいることはなかっただろう。

 その場にしゃがんで芝を撫でる。

 ここで。そう、ここでノッキンオンハートが走ったんだ。

「……ここでノッキンオンハートが走ったのか」

「え?」

 思わず顔を上げる。

 私じゃない。少し離れたところでポツリとつぶやいたのは千崎だ。こいつ、人の思考を読めるのか。

「……そんなわけないか」

 しかし、たしかにノッキンオンハートの名前を言っていた。まさか、千崎も……?

 千崎はこちらの考えなど露とも知らず、コースをじっと見つめていた。

 

 迎えた土曜。YJSファイナルラウンド中山。

 一昨日の船橋とは一転、中山競馬場は雲ひとつない晴天となった。

 今日おこなわれるYJSのレースは第七レースの芝二千メートルと第九レースのダート千八百メートルだ。これまでトライアルラウンドを含めてダートでのみ行われてきたYJSだが、ここ中山において唯一芝でのレースが執り行われる。

「馬はわかりますけど、騎手にとって芝とダートでそんなに違うもんですか?」

 末崎が手の中で缶コーヒーを転がしながら呟く。かじかんだ手に熱いくらいのスチールの熱が心地いい。

「そりゃあ全然違うだろ。

 まずレースのペースが別物だ。

 ダートほど前を行く馬が絶対的に有利なわけじゃない。後方にいても俄然チャンスがある。砂も被らないしな。

 それにコースを見てみろ。芝のコースはダートコースを囲うように作られてる。いくら中山が主要四場のなかじゃローカルの競馬場に近い小回りの競馬場といっても、地方のそれとは乗ってる時の景色がまるで別物だ。

 そういった小さなズレの積み重ねが大きな狂いを生み出す」

「じゃあJRA所属の騎手が経験値で言えば圧倒的に有利ですね。地方競馬はダートの小回りしかないですし。

 地方でも芝のコースを作ればいいのに」

「正確に言えば地方でも盛岡とか芝のレースができる競馬場もあるがな。――まあ、例外中の例外だ。

 そもそも芝コースを作るにも広大なスペースがいるし、なんとか作れても維持するには莫大なコストがかかる。国がバックにいる中央競馬と違って、それより規模の小さい自治体が主催する地方競馬じゃ到底売り上げで賄える額じゃない」

 缶コーヒーのプルタブを起こす。短く乾いた音のあと、白い湯気が儚げに漂い、跡形もなく風に消える。残った甘い香りが鼻孔をくすぐった。

「だったらなおさらYJSは全部ダートで走るべきじゃないですか?」

「公平性の観点でいえばたしかにそうかもな。

 だが、こういう機会でもなければ地方の騎手が芝のレースに乗ることもないだろう。そういう意味では若いうちに乗れるのは彼らにとって貴重な経験になる」

「ふーん……」

 腹落ちしない顔で末崎は唇を尖らせる。

「なんだ、不満そうな顔して」

「なんかそれだと地方騎手のための思い出作りって感じに聞こえちゃって」

「ずいぶん意地の悪いこと言うじゃないか。

 どんなレースでも思い出作りで終わるかどうかはその騎手次第だ。そうだろ?

 それに――」

 コーヒーを口に含む。くどいほどの甘ったるさが口いっぱいに広がった。

「ここまで勝ち残った騎手が思い出作りなんかで満足するかよ」


 午後十二時二十分。

 第七レースの前検量の時間になり、検量室へとYJSに出走する騎手たちが続々と集う。緊張からか皆心なしか口数が少ない。

 流れるように検量をこなしていく。終わったものから番号ゼッケンを受け取り、準備が整った者から馬が待つ装鞍所へと移動する。

「あ!」

 千崎が短く声を上げる。その視線の先、検量所の外ではレースを終えた騎手や厩舎関係者が立ち話をしていた。

 千崎は一点を見つめている。

 あれは――。

「岸さん!」

 千崎が駆け出す。それに気づいた岸さんが会話を止めて振り返った。

「……君は?」

「お、おれ、船橋競馬所属の千崎って言います! あ、あの……俺、岸さんに憧れて騎手になろうと思って。

 お会いできて光栄です!

 騎乗フォームもあの“有馬の奇跡”で勝った岸さんの乗り方を手本にしてるんです!」

 言われてみれば確かに千崎の騎乗フォームはあの頃の岸さんに似ている。レース後、映像を見たときに感じた既視感はそれか。

 しかし、普段の姿から想像できないほどの取り乱しようだ。憧れのスポーツ選手に出会った少年そのものである。

「……ああ、それであの乗り方を」

「! 見てくれたんですか! 俺、絶対YJSで優勝します! そして岸さんみたいに活躍して、いつか中央に行きます!」

「そうか。

 ……君を見てると昔の僕を思い出すな」

 千崎の目が一段と大きく開かれた。口角がみるみる上がる。

「ありがとうござ――」

「あんな乗り方するなら騎手やめたほうがいいよ」

「……え?」

 岸さんは表情を変えることなく冷たく言い放った。千崎の表情が固まる。

 私も耳を疑った。

「……どういう意味ですか……?」

「どういう意味? そのままだよ。難しいこと言ってないと思うけど」

「やめなさい岸君」

 すぐそばにいた調教師が岸さんをやんわりと制した。

「聞かれたから答えただけですよ、宇代うしろ先生」

 千崎は再び口を開きなにか言葉を発しようとしたが、ゆっくりと口をつぐみ視線を下に落とした。

 普段はあんなに威張っているくせになんとも情けない。いつもの調子で威勢よく言い返せばいいのに。

「……」

「じゃあ、僕はこれで――」

「待ってください!」

 いつの間にか千崎の横まで駆け出していた。岸さんはこちらを横目で見た後、気怠げに振り向く。

「今度はなに?」

「えっとー……」

 そう言われると困る。体が勝手に動いてしまったものだから頭がまだ追いついていない。

「……用がないならもういいかな?」

「私、なんか岸さんのこと嫌いです!」

 あたりが俄かにざわつく。

 思わず口をついた子供じみた言葉に自分でも驚いた。これでは千崎のことを馬鹿にできたものではない。

「ノッキンオンハートの有馬記念、私もすごく感動しました。――あんなに格好良かったのに」

「……たった二分半でのなにがわかるっていうんだよ」

 こちらを一瞥したあと、岸さんは去っていく。変わらず落ち着いた調子だが、その言葉からは確かな怒気を感じた。

 痛いくらいの視線が残された私たちへと注がれる。

「おい、なにしてる! 早く移動しろ!」

 慌てて装鞍所へ向かう。

 私たちをよそに発走時刻は着々と迫っていた。

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