第36話 南関の王
『曇りなき快晴。汗ばむ陽気となった東京競馬場。
満員の観客が押しかけるなか、一生に一度の栄光を掴むのはどの馬になるのか――』
視線の先、テレビでは競馬中継が映っていた。
「父ちゃんはなんでこれ出てないの?」
「……ん? ……あー、それはいろいろあるんだよ」
頬杖を突き舟を漕いでいた父がのっそりと顔を上げる。
テレビからも伝わる熱気、時折映るスタジオの面々もそわそわとしていた。それもそのはず、そこに映るレースはホースマンなら誰もが夢に見る舞台、日本ダービーだ。
「いろいろって? 父ちゃんめちゃくちゃ上手いじゃん。
それなのにダービーに出れないの?」
「俺は地方競馬の騎手だぞ。出れなくもないが地方競馬場を走ってる方が俺の性に合ってるんだよ」
「ふーん……」
つまんないの。
「じゃあ、俺が出てあげる!
中央で騎手になって、ダービーに出るよ。父ちゃんよりもいっぱい勝つんだ」
「はは、そうかそうか。それは楽しみだな」
父は適当に相槌を打って話を流す。まったく本気にしていない。
「本当だってば!」
声を上げるのと同時に、テレビからゲートが開く音がした。
瞼を開けると眩しさが目に沁みる。
硬いベッドの上、天井の古ぼけたライトがチラついていた。
――ここはどこだ? なんでここにいる?
寝起きの頭で情報の処理が追い付かない。
「あっ、起きた」
「……日鷹……?」
体を起こすと、日鷹が近くに立っていた。走ってきたのか少し息が上がっている。白に黒縦縞、黒袖の勝負服を着ている。
……勝負服?
――そうだ。ここは関係者用の救護所。控室で意識を失ってここに運ばれたのか。
「! 早く行かないと! 発送時刻に――」
「もう終わったよ」
「え?」
日鷹は救護所の壁にかかった時計を指さす。たしかに時計の指し示す時刻はレースの発送時刻をとうに過ぎていた。
力が抜け、再び簡素なベッドに沈み込む。
「思ったより元気そうでよかった。レース終わった後に慌ててきて損しちゃった」
日鷹が肩をすくめる。
「……俺のことよりレースに集中しろよ」
「頼まれなくてもレース中はあんたのことなんかこれっぽっちも気にしてないから。ばーか」
日鷹がこちらに小さく舌を突き出す。
しかし、こんなところでゆっくりしている場合ではない。今日乗るレースはまだ残っている。早く準備しないと。
立ち上がろうと腰を浮かすと日鷹と目が合った。
「まさかこれから乗るつもり?」
「当たり前だろ。俺に依頼のあった馬だ」
「そんな状態で乗ったら怪我するよ」
「怪我しても死んでも乗るんだよ。俺に依頼があった馬なんだ」
「……。死んだら二度と馬に乗れないよ」
日鷹が静かに、だが有無を言わさぬ目でこちらをまっすぐ見る。
日鷹の父、鳶島大洋は競争中の不慮の事故で若くして亡くなっている。それは決して比喩を茶化しているわけでないのはわかった。
「……お前、それはズルいだろ」
「なにが? 私は事実を言っただけだし。
――ていうか、そもそもあんたが今日乗る予定だった馬はもう全部乗り替わりが発表されてるよ。
今日は大人しくしてなよ」
舌を鳴らす。
「……分かったよ。
で? 誰が代わりに乗ってるんだよ。もし俺より下手くそだったら――」
「そんなわけないでしょ。
ついさっきのレースだって、乗ったのは“成海さん”なんだから」
「突然の乗り替わりだったのに、見事な勝利でしたね。さすが“南関の王”とまで呼ばれた成海騎手といったところでしょうか」
「いやあ、たいしたことないさ。単純に馬が良かった。素直に言うことを聞いてくれて助かったよ」
先程のレースの勝利ジョッキーインタビュー。成海は口調は少し荒いがそれに反して穏やかな調子でこちらの質問に答えていく。
三年前、地方競馬である南関東公営競馬の川崎から鳴り物入りで中央へと移籍した騎手だ。
もちろんその実力は折り紙付き。
移籍最終年には南関東競馬のレジェンドである番場卓を退けて二年連続で南関のリーディングジョッキーを獲得。しかも南関の大井、川崎、船橋、浦和すべての競馬場での最多勝の偉業も達成するおまけつきだ。
移籍前から中央のレースにも積極的に参加し、G1レースでも結果を残した。その圧倒的な実力から“
「竜兄!」
声が通路に響く。
こちらに駆けてきたのは件の番場だ。後を追うように日鷹も少し遅れて追ってくる。
「よお、稔。急にぶっ倒れちまうからびっくりしたじゃないか。もう大丈夫なのか?」
「なんで竜兄が俺の馬に乗ったんだよ!」
成海の問いに答えることなく番場は食って掛かる。
「そんなに興奮するなよ。
あのタイミングで誰も乗れる奴がいなかったから俺が乗ったんだ。いくら俺のことが嫌いだからってプライベートと仕事は分けろよ。
それに、もとはといえばお前の落ち度だろ? 違うか?」
番場が押し黙る。
彼の父である番場卓と成海は良好な関係だったはずだ。だとしたらこの二人の間でなにかあるのか。
成海がじっと番場を見たあとに口を開いた。
「お前さ、いつから食べてないんだ?」
「……」
口調は軽いが、その目は笑っていない。番場は黙ったままだ。
成海は言葉を続ける。
「しかもその状態で汗取りもしただろ。
別にそれが悪いとは言わない。多かれ少なかれ騎手は食事制限をするし、足りなければ汗を流して体から水分も抜くからな。
けどな、お前はやりすぎだ。
こんなこと続けてたらそのうち死ぬぞ」
なるほど。今回の一件は減量調整の失敗が原因か。それなら合点がいく。
騎手はレースに騎乗するために非常に厳格な体重制限を課せられる。騎手は馬を操るのと同時に公平な重りである必要があるからだ。
番場は身長百七十センチメートルを越え、騎手としては極めて身長が高い。競馬学校が在学時から番場が減量で苦慮している話は何度か聞いたことがあった。
「……大丈夫だよ。
今回はうまくいかなかっただけだ」
「“今回だけ”、で済むといいな」
番場が無言で成海を睨んだ。
「……今回だけだよ」
「――世の中には二種類の人間がいる。
騎手になるべき人間と、そうじゃない人間だ」
そう言って成海は右手の指を人差し指、中指の順で立てる。
「そのために入学試験があり、競馬学校がある。
だが、悲しいなあ。それでも後者なのに騎手になっちまう奴が出てきちまうんだ」
「……なにが言いたいんだよ」
「もっと前に俺が止めるべきだった。
稔。やっぱりお前、騎手に向いてないよ」
番場の目がカッと開かれる。
次の瞬間、番場は右拳を握り大きく振りかぶった。
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