第25話 Extra fizzy
千葉県、船橋競馬場。
東京都の大井競馬場、神奈川県の川崎競馬場、埼玉県の浦和競馬場の一都三県から構成される南関東公営競馬の一角である。南関東公営競馬は人口の多い首都圏で開催されていることもあり、その賞金規模、施設、競走馬の質は地方競馬のなかでも抜けている。
格の高いG1(Jpn1)競争はその殆どが南関四場で行われていることもあり、南関が地方競馬の屋台骨を担っているのは言うまでもない。
私は西日本の栗東トレセンに所属していることもあり、普段東日本の競馬場に来ることはあまりない。それが地方競馬場ともなれば尚のことだ。加えて船橋競馬場はいままでに乗ったことのない左回りの競馬場、ナイター開催ということもあり一抹の不安もある。
しかし、そんな不安なことよりも楽しみなことがあった。
あるひとつの馬房の前で足を止める。
「いた! フィズ!」
馬房にはストロングフィズがいた。
夏に中央から地方へと移籍した彼女だが、行き着いた先がこの船橋競馬場だ。彼女も私のことをしっかりと覚えていたらしく、こちらに顔を擦り寄せて来た。整えられた鬣がくすぐったい。
「ほう、ずいぶん懐いてるんだな」
彼女を管理する調教師が感心した声をあげる。
「私が厩舎に所属してから彼女がいなくなるまでずっと一緒にいたので」
「そうなのかい。せっかくならこの子に乗れたらよかったんだが……。まあ乗り馬は抽選だからなあ」
そう、なんと驚くべきことにストロングフィズはYJSファイナルラウンドの船橋で行われる一レース目の出走馬に選ばれていた。
いまだに一勝もできていない彼女に乗って是非ともこの機会に勝ちたかったのだが、こればかりはしょうがない。
「誰だアンタ」
不意に声をかけられる。振り返ると少し離れたところに同世代くらいの男が立っていた。
その顔には見覚えがある。
「いさな。遅かったじゃないか。どこほっつき歩いてたんだ」
「取材がしつこくてさ。うんざりだよ。ほんと、勘弁してほしい」
目の前の男は苦虫を噛み潰したような顔でそう答えた。やはり間違いない。
「――あなたが千崎いさな?」
「? そうだよ。なに? 俺のファン? あとでサインでも書いてあげようか?」
私を厩舎見学に来たファンと勘違いしているのか、軽口を叩いて笑った。これがYJSの歴史上最高得点で予選を通過した騎手。
なんというか……想像よりも軽薄な感じだ。
「中央の日鷹騎手だ。あんまり失礼なことを言うな」
「……へえ。上手いの?」
「いさな!」
煽っている、というわけではないだろう。その口調はこちらを軽んじるというよりも、純粋な疑問を投げかけているといったほうが正しいかもしれない。
「それはレースを走れば分かるんじゃない? それを決めるためにみんな
「んー、……それもそうだな」
千崎はそれ以上私に興味を失ったのか、視線をストロングフィズに移した。
「おっちゃん、これがストロングフィズ号?」
「ああ、そうだ。少し難しい馬だがよろしく頼む」
「任せてよ。一着、取ってくればいいんでしょ?」
千崎はストロングフィズの頬を撫でた。
そう、明日のレース、ストロングフィズの鞍上はこの千崎いさなだ。しかし、彼女に初めて会った割には大した言い草である。
「すごい自信。さすが予選通過一位は違うね」
千崎が再びこちらに見た。そのアンバーの瞳が光を受けてギラリと光る。その眼光は肉食動物が獲物を吟味するかのようだ。
背筋に冷たいものが走る。
「当たり前だろ? 一番にならなきゃ意味がない。馬も、人もね」
虚勢ではない本音。
その体全体から自信が漲っている。
汗が一筋首筋を伝う。自分の生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「……私、負けるつもりないから……!」
「そうこなくちゃな。お前みたいな奴を倒してこそ俺の一番に価値が生まれる」
そう言って千崎は白い歯を見せて笑った。
翌日。
いよいよ迎えた木曜日、ファイナルラウンドの火蓋が切られる。
船橋競馬場は全長千四百メートルの左回り。南関の四場のなかで唯一スパイラルカーブが採用され、逃げ先行だけでなく後方からの馬も活躍しやすいコースだ。
最大出走可能数、すなわちフルゲートは十四頭であり、勝ち残った十六人いる騎手が一度にレースへ参加することはできない。そのため、各騎手は三レースのうちニレースへランダムに割り振られポイントを競うことになる。
当然、ここで予選上位の騎手と同じ組に入る数の少ないほうが最終的なポイントを考えると多少優位になるというものだ。
「ったく、ツイてねえぜこりゃ」
パドック横、隣に立つ番場がぼやく。今日出走する二レースはこの番場とともに東西のトップである由比、千崎と同じ組を走ることになっていた。
「どんまいどんまい」
「なに他人事みたいな顔してんだよ。お前も同じ組だろうが」
「だって落ち込む意味わかんないし。
逆にチャンスじゃん。ここで一着を取れば俄然有利になるもん」
「はあ、呑気な奴だな」
「どうせ倒さなきゃいけない相手だからね。私は優勝しに来たんだから」
「ぐっ……! 俺だって優勝しに来たんだよ!」
「お前ら静かにしろ!」
「! すみません!」
栗東トレセンの先輩である車川先輩が見かねて声を荒げる。慌てて謝罪した言葉が番場と重なった。頭を下げる角度まで一緒とはさすが同期であるといったところか。
まったく、由々しきことである。
「はは、楽しそうだね。混ざらなくていいの? 同期だろ、由比」
近くの千崎に声をかけられる。その視界の先では日鷹と番場がなにやら騒がしい。
「……悪いがレース前は静かに過ごしたいんだ」
「ふーん。案外繊細なんだ。若き天才騎手も」
「君は随分と余裕そうだ。ついさっきも欠伸してたし。緊張しないコツとかあるのかい?」
「……なんだ。意外とちゃんと見てるんだね。周りのこと。興味ないかと思った」
「興味なくても敵のことはよく見ないと戦えない。舐めてると思いがけないところで足元掬われるよ、千崎」
「……タメになるアドバイスどーも」
騎乗命令がかかる。そこで会話は打ち切られた。パドックで控えていた騎手が一斉に散る。
発送時刻が刻一刻と近づいていた。
千崎とストロングフィズが本馬場に入場すると、背後のスタンドから一際大きな歓声が上がった。
「すごい声援ですね。パドックにも横断幕がたくさんあったし」
隣に立つ末崎が感嘆の声を上げる。
「地元騎手であれだけの好成績を収めてるとくれば人気にもなりゃあな。ツラもいいし」
「たしかに女の人多いですね。うらやましー」
末崎が後方を振り向いて嘆息する。
別の所でまた歓声が上がった。丁度本馬場には由比が入場している。
「由比くんも人気ですね。さっきよりはちょっと野太い声援ですけど」
「競馬一家の由比家の倅で、ここ最近の新人のなかでも抜けて勝ってるからな」
「それでも先輩が推してるのは千崎くんなんですよね?」
「推し……? ……まあ、YJSにおいて分があるのは千崎だろうな」
この前の雑談の話か。特に千崎を贔屓しているつもりはないが。
「南関に所属している奴らはいいとして、他の騎手のほとんどは初めての船橋競馬場。勝手を知っている千崎にとってこれほど有利な条件はないだろう。
船橋の番組編成は南関四場のなかでも短距離が中心で今回の一レース目もダート千メートル。船橋競馬場において施行されるレースで最も短く、これも千崎が一番得意にしている距離だ」
「でもレースの距離が短ければ短いほど騎手の腕の影響って少なくないですか? スタートからゴールまで一分くらいしかないですし」
末崎は腑に落ちない顔だ。
「たしかにそうだな。中長距離に比べれば考えることも騎手の技量が介在する割合も小さい。
船橋の千メートルは向正面の第二コーナーをスタートし、最初のコーナーまでの距離はおよそ三百五十メートル。この直線で長い長い先頭争いが行われる。
最後のコーナーがスパイラルカーブで馬群がバラけやすいといっても、この距離では序盤から中盤の先頭争いの良し悪しがそのまま最終的な着順に直結することも多いからな。勢いや思い切りで押し切っちまうこともあるだろう。
だが……、――いや、だからこそ千崎に分がある」
「? なぞなぞかなんかですか?」
そう言って末崎は眉をひそめた。
時刻は午後十七時二十五分。
第六レース、YJSファイナルラウンド船橋第一戦。
すっかり夜の闇に包まれた船橋競馬場をナイター照明がまばゆいばかりに照らしていた。
十一人の若人がいまゲートに揃う。
『全馬体勢整います。――いま、スタートしました』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます