第26話 しぐるるや船橋
『好スタートから抜け出したのはサイクロンブラック。すぐ後方シティオブウィンド、ヒーリングクイーンが続きます。
その後ろ――』
レースが始まると堰を切ったように十一頭が先頭になだれ込んだ。
千メートルという電撃戦。好位を取るためにはスタートの瞬間、ゲートをいかに上手に出ることができるかが肝になる。
「よし……!」
前方に位置取ることができた。上々のスタートだ。
先頭はサイクロンブラックの由比。定石通り堅実にといったところか。激流のような先頭争いも落ち着いたのも束の間、ペースは緩むことなくすぐに折り返しに入っていく。
周りの馬の速度がまた一段と上がった。
『三、四コーナー中間、早くも勝負どころに差し掛かります!』
瞬間、後方から何かが視界を横切った。
あれは――。
「……フィズ!」
中団後方に控えていたはずのストロングフィズがいつの間にかここまで上がってきている。私を悠々と抜かすと、先頭を走るサイクロンブラックの後ろにぴったりと張り付いた。
レースは残り三百メートルを切る。
サイクロンブラックが速度を上げるが、ストロングフィズはそこから一定の距離を保ったままだ。
――いや、最後の直線、ストロングフィズの伸びが他馬よりも良い。じわじわと先頭へと距離を詰めている。
地方に移籍してからの成長分か?
……いや、そうじゃない。
「千崎……!」
レースは最後の直線に入った。
サイクロンブラックからストロングフィズへと先頭が入れ替わる。
「おお! すごい! やっぱり千崎くんが先頭だ!」
隣の末崎が興奮気味にまくし立てる。
『四コーナーから直線! 九番ストロングフィズ!
手応えは十分!』
馬群の中、ひときわ目を引くヨーロピアンスタイルの騎乗フォーム。それが千崎だ。
競馬の騎手の騎乗法は俗に「モンキー乗り」と呼ばれる。
短くした鐙に立ち、鞍から腰を浮かせ、背中を丸めて前傾姿勢を取る姿が枝の上の猿に見えたことがその名の由来だ。十八世紀に生まれたモンキー乗りは瞬く間に世界へと普及し、現代競馬においては最もポピュラーな騎乗法になっている。
そしてそれはアメリカンスタイルとそこから派生したヨーロピアンスタイルに大別される。
米国競馬で花開いたアメリカンスタイルが平坦なトラックコースを速く走るためにできるだけ空気抵抗を減らすことを目的として馬の首に張り付くような前傾姿勢をとるのに対し、そこから派生したヨーロピアンスタイルでは欧州競馬の起伏に富んだコースで馬を動かすために下半身を上手く使うことが重要視された。
その結果、腰を浮かせながらもその位置は下がり、上体はそれに伴って少し起き上がり気味となるヨーロピアンスタイルが確立されることになる。
千崎の強さの理由、そのひとつがこのヨーロピアンスタイルにより馬を動かす技術だ。膝を支点としたリズムで巧みに馬の力を引き出しているのである。
地方は砂の深いダートが敷かれ、中央に比べ能力的に劣る馬やズブい馬が多いことから、地方競馬の騎手はヨーロピアンスタイルとまではいかないまでも馬を動かすために体全体を使った騎乗フォームをとる騎手も少なくない。
しかし、千崎は別格だ。
千崎のフォームはそこらの騎手が一朝一夕で手に入れられるものではない。彼自身の驚異的なセンスを前提としたうえで相当な鍛錬が必要になる。
なにより恐ろしいのは、まだ酒も飲めないガキがすでにその域に達しているということである。
「――末恐ろしいな。まったく」
『一着、ストロングフィズ!
逃げ馬をマークしながら見事な抜け出しを演出しました! 第一レースの勝者は千崎いさな!
トライアルラウンドを含めて無傷の五連勝! 優勝へ向けてその視界は良好です!』
ゴールをした千崎が拳を握り、短く咆えた。
「くそ……!」
強い。
ストロングフィズに乗ったことがあるからこそわかる。彼女があんな走りをできるなんて。
下唇を噛む。
六十秒ほどのこのわずかな時間で明確な力量差を見せつけられた。千崎はこちらの気持ちなど知る由もなく船橋競馬場は地元騎手の活躍に沸く観客席へと手を振っている。
その時、視線の先でストロングフィズがわずかによろけるのが見えた。
「? ……フィズ?」
彼女に近づこうとしたその時、ヘルメットを雨が一粒打った。
思わず顔を上げる。
刹那、暗闇から歓声を切り裂くように勢いよく雨が降り注いだ。叫声とともにスタンドの人々が散り散りとなる。
「早く戻れ!」
ストロングフィズの後ろ姿に後ろ髪を引かれつつ、急いで検量所へと引き返した。
『ただいま、降雨により進行を一時中断しています』
場内にアナウンスが流れる。突然降り出した雨は依然として音を立てて競馬場を包みこんだままだ。
隣の末崎が大きなくしゃみをし、鼻をすする。
「……うー寒い。雨なんて聞いてないですよ。どうせなら雪でも降ってくれればロマンチックだったのに」
「知るかそんなこと」
「でも、こんな雨でレース再開するんですかね」
「さっき天気アプリで見たがこんな強く降るのもあと少しだ。多少マシになりゃすぐ再開するよ。
――まあ、荒れるだろうがな」
「え? お客さんがですか?」
末崎が恐る恐るスタンドを振り返る。
「アホ。レースが荒れるんだよ」
競馬場の馬場の状態はその含水率が低い順に、「
このままの雨であれば少なくとも重、最悪は不良の状態でレースが再開されるのは想像に難くない。
足元の状態が変われば当然その上を走る馬の走りにも影響が出る。そして荒れ馬場の経験の少ない若手騎手たちにとってもこの雨は鬼門になるだろう。
ここまで良馬場の状態で進行してきた今日の番組だが、この雨によってがらりとその様相を変えることは間違いない。
「……この雨を恵みの雨にできる奴は、はたして誰になるかな」
パドック横、騎手控え室。
次のレースを待つ若手騎手たちがやきもきと外の景色を伺っている。
その塊から少し離れた場所に私は座った。
冷たくなった手に息を吹きかける。熱が手の中に広がり、余韻を残すことなく消えた。二、三度その行為を繰り返す。
ウィンドブレーカーを上から着たものの、すっかり雨に濡れてしまったので体は芯から冷えたままだ。
「一時的な雨みたいだからすぐ上がりそうだって」
「よかったー」
ほかの騎手のやり取りが耳に入ってくる。
まったく、すぐ止むなら降ってくれるな。せめて今日のレースが終わってから降ってくれればよかったのに。
「災難だったね」
不意に剣くんに話しかけられる。剣くんは抽選の結果二戦目からの参戦になっているので雨に打たれていない。
私がドブネズミのようにみじめに濡れているというのに、だ。
「私、晴れ女なのに。剣くん雨男だったりしない?」
「まさか。自慢じゃないけど佐賀では雨に降られたことないよ。晴れ男だからね、僕は」
そう冗談を言って剣くんは笑った。
「なんだよ雨って、テンション下がるわー」
扉を乱暴に開けて入室してきたのは千崎だ。はからずもすべての視線がそこに注がれる。
それまで賑やかだった控室の空気が少し張り詰めた。
「あ? なんだよ見世物じゃねーぞ。
……ったく、風邪引く前に今日は中止にしようぜ。どうせ優勝するのは俺だしさ」
「まだ一戦しか走ってないのに優勝の話なんて気が早いな」
意外にも声を上げたのは由比だ。声を荒げることなく、淡々と静かに千崎へ問いかけた。
「……わかるさ。一番上手い奴が優勝する。
そして、俺が一番上手い。当然、ヌルい中央でふんぞり返ってるお前よりもな」
「……そう思われるのは心外だね」
「ほかの奴らもそう思ってるぜ。なあ、お前もそう思うだろ?」
「え? いや、そんなことは……」
突然話を振られたひとりの騎手が言い淀む。
「……チッ。そんなんだから中央の奴らに舐められるんだよ」
「やめなよ千崎」
堪えかねたのか、剣くんが口をはさんだ。千崎が一歩詰め寄る。
「下手くそが口答えするな」
「! てめえ――」
番場が千崎へと掴みかからんばかりに一歩踏み出したのを隣にいた先輩たちが身を乗り出し制した。さすがの番場も大人しくその場に留まる。
「……なんだ、止めるんだ。せっかく面白くなりそうだったのに」
千崎はつまらなそうにため息をついた。
あたりが静まり返る。雨の打ち付ける音だけがやけに大きく聞こえた。
「ああ、もう! さっきから黙って聞いてれば好き勝手なことばっかり言って!」
視線が一斉にこちらに集まった。構わず話を続ける。
「アンタの言う通り由比がふんぞり返ってるのは確かにそう。涼しい顔して腹の中はわかったもんじゃない」
「……ひ、日鷹さん?」
剣くんが動揺した声をあげた。
由比は表情を変えずに話を聞いている。まったく、そういうところだぞ。自覚はあるのか問いただしたいところだ。
「――でもね、たった一回勝ったくらいで由比のことわかったつもりにならないで。
こいつ、本当にムカつくくらいに上手いんだから。
それに由比だけじゃない。剣くんも番場も、ここにいるほかのみんなだって予選を勝ち上がってきた実力がある。
そんな強がって、アンタ、本当は優勝できないかもってビビってるんでしょ」
千崎が無言でこちらを睨む。先程までとは異なる野生動物のような眼光。初めて会った時も同じ目をしていた。
昨日よりも強くその目を睨み返す。
「よく言った日鷹!」
番場が上機嫌にこちらの背中を叩いた。
辺りも俄にざわつき出す。千崎はわざとらしく舌打ちした。
「……くだらねえ。下手くそたちが傷の舐め合いかよ」
千崎は吐き捨てる。今度は剣くんが千崎へと一歩詰め寄った。
「安い挑発はやめようよ。
僕たちは騎手だ。主張は口じゃなくてレースで語ろうじゃないか」
「……ふん、じゃあ二度と舐めたこと語れなくしてやるよ」
「望むところだ」
しぐるるやしぐるる船橋競馬場。
十二月の凍える雨でも若人たちの心に燃える火は消えることなく、それどころか更に勢いを増していく。
時は来たとばかりに、雨は上がった。
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